2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。

2018/06/14(木)北条氏邦の憂鬱

上野国白井でのごたごた

北条氏邦が管轄していた白井で揉め事があった。年未詳の文書でその詳細が判るのだけど、なかなかに興味深い。そして、この文書を足掛かりに、氏邦が他に出した謎の書状の状況も判ってきた。

白井長尾家中の混乱

氏邦がうんざりしながらも忍耐強く書き記したのは、いかにも彼らしい現場に則した意見書・指示書。長文だが書き出してみる。

原文

先日白井へ吉里子・矢野弟侘言以吉田申候処、召出間敷候之内、従白井殿承候、左候ハゝ両人共、何方江茂可任存分歟、白井之矢野・吉里事者、不肖ニ候へ共、関東ニ無其隠弟子共ニ候間、一騎合連ゝ子共之様無躰ニハ被致間敷候、従其方所神庭三河入道所迄、以此一札早ゝ一往尋可申候、従我ゝ所長左江直ニ申度候へ共、はや無詮候、先日長文認以其方左衛門殿江及御助言つる、無其意趣候間、我ゝ者閉口候、只今一騎合之者共致出頭、矢野・吉里・高山以下あるも有ゝ候無之模様見聞候、彼等何共成候者、白井殿御手前も如何存候、其家可崩ニハ、家中老名絶物ニ候、先度之御意見、神庭・矢野・吉里・高山ニ茂不被頼候、一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ、左衛門殿御為を存申候、明日ニも御弓矢起候共、又御屋形様へ御出仕候共、従前ゝ御大途御存之者共、閉口申合候之者共、於白井出仕申候共、誰も召上間敷候、左衛門殿御為を存、卒爾ニ候御連共、当春其方を左衛門殿へ越候つる
一、三日以前其方申分者、先日之座頭一廻返候へ者、左衛門殿仰之由披露、近比其方無届并子細ニ候、彼座頭白井殿下ニ者、一同左衛門殿ため悪かれと計匠、座頭之不似合義致之候間、石こつミニもすへき之由存候へ共閣候、結句、白井殿呼度候由承候、是も尤候、御為を存申候へハ悪様ニ御分別候
一、面ゝ連も可聞及候、惣別当方御法度ニ而、座頭なと境目之衆致懇切置事、御きらひに候、其意趣ハ、座頭廻文を廻し、駿州・房州ニ而も、種ゝ之儀致之候、越後之座頭出頭更不及分別候、彼座頭そこもとニ而猿寿ニ預ヶ候、白井殿へ尋申越候、得にて仰候ハゝ、早ゝ可越候、人之御為を存申候へハ、無御聞届候、為労無功義候、尚以、吉里子・矢野弟何方江茂可任足歟、此儀一往左衛門殿可取伺義候、謹言、
九月四日/氏邦/矢部大膳亮殿

  • 戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

解釈

先日白井へ、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて侘言を言って、召し出しに応じない状況だと、白井殿より聞きました。それでは両人をどこへ預ければよいのでしょうか。白井の矢野・吉里といえば、詳しくはありませんが、関東でその隠れなき存在で、その子弟ですから、一騎合の連中の子供みたいに無茶な扱いはできません。あなたの所から神庭三河入道の所まで、この書状を見せて早々に一度問い合わせてみて下さい。私の所から「長左」へ直接聞きたいのですが、もう埒が明かないでしょう。先日、長文をしたためてあなたを経て左衛門殿へご助言しました。その反応もありませんから、私は閉口しています。
今は一騎合の者たちが出頭して、そこに矢野・吉里・高山以下がいるはずなのに、確認がとれていない状況なのは聞いています。彼らがどうにもならないのを、白井殿とその周辺はどうお考えなのでしょうか。その家が崩れる時には、家中の老名(おとな)が絶えるものです。
先度のご意見。神庭・矢野・吉里・高山を頼みになさっていません。一井斎の御代より活躍していた面々ですから、みな左衛門殿のおためと思って申しています。明日合戦が起きても、又は御屋形様へご出仕しても、御大途がご存じの者たちに閉口された者たちが白井で出仕したとしても、誰も召し上げません。左衛門殿のおためを思い、卒爾なつながりではあってもと、この春あなたを左衛門殿の元へ送ったのです。
一、三日以前にあなたが報告した件。先日の座頭が一巡りして返ろうとしたら、左衛門殿が仰せを披露。近ごろは届けがないし不審な事情があるとのこと。あの座頭は、白井殿の下にいる一同が「左衛門殿を貶めよう」と企んだという。座頭には不似合いな所業だとして「石こつミ」にもしよう」とのことでしたが、この意見は差し置かれ、結局「白井殿が呼びたいから」となってしまったとのこと。これもご尤もです。おためを思うなら、これは悪いご分別だと思います。
一、面々たちも聞き及んでいるでしょう。全体に、当方のご法度にて、座頭などを境目の衆が懇切に扱って手元に置く事は、嫌っています。その意図は、座頭が廻文を廻し、駿河・安房へもあれこれ伝えてしまうからです。越後の座頭を呼ぶのは更に分別がないことです。あの座頭はそちらで猿寿に預けるよう、白井殿へ確認の連絡をします。諒承が得られれば、早々に処置して下さい。
人のおためを思って申しても、聞き届けられません。労をなしても功義はありませんね。
ところで、吉里の子・矢野の弟はどこなら任せられるのでしょうか。この件、一度左衛門殿にお尋ねになってみて下さい。

箇条書きによるまとめ

当事者同士による説明の省略は余りない。これは、宛所の矢部大膳亮に対して神庭三河入道へこの書状を送って助言を乞うように指示しているからだろう。ただそれにしても白井長尾家中に詳しくないと理解が難しい。

そこで、箇条書きで情報を整理してみる。

  1. 白井殿が氏邦に伝える。「白井に、吉里の子・矢野の弟が吉田を通じて陳情し出勤拒否をしている」とのこと。

  2. 白井の矢野・吉里といえば著名な一族で変な扱いはできない。

  3. 宛所の矢部大膳亮に、神庭三河入道にこの書状を見せて相談することを、氏邦が依頼。

  4. 氏邦から「長左」へ直接言うのは、矢部大膳亮を通じて送った長文の諫言も無視されたのでできない。

  5. 現在、一騎合が氏邦の元に出頭しているのに、矢野・吉里・高山以下の所在が不明瞭。「これは白井殿の手前どうなのか。家が崩れるのは家老からだ」と氏邦が悲観する。

  6. 氏邦の意見に反して、左衛門殿は神庭・矢野・吉里・高山を頼っていない。一井斎(憲景)の代から活躍していた面々。「左衛門殿のために言っているのに」と氏邦は嘆じる。

  7. 氏邦の主張。「様々な状況での雇用であっても、人材を取り上げることはない。左衛門殿のために、この春に矢部大膳亮を派遣した」という。

  8. 大膳亮の報告について。座頭たちが一巡りして帰る際に、左衛門殿が「この座頭は無届けだし支障がある」と意見。「白井殿の下の者が左衛門殿は悪だくみをしているのだ」と言ってこの件を差し置いた。結局、白井殿は座頭を呼びたいということに。「こうなったのはもっともなことで、ためを思うならば、これは悪い分別だ」と氏邦は解釈。

  9. 氏邦は掟を説明。国境に座頭を置くのは禁止。座頭は廻文で駿河・安房に情報を流してしまうからだという。「それなのに越後の座頭を呼ぶのはありえない」と加えて指摘し、座頭を猿寿に預けるよう白井殿へ通達する。諒承あり次第の処置を命ず。

  10. 氏邦が嘆く。「人のために諫言しても聞き入れられず、苦労ばかりなことだ」と。

  11. 吉里の子・矢野の弟の預け先を最後に再び質問。大膳亮から左衛門殿に相談してほしいと依頼。

白井殿と左衛門殿 人物別まとめ

  1. 白井殿(御屋形様)……矢野・吉里の子弟に出勤拒否される。重臣たちの管理が不徹底。左衛門殿の反対を押し切って越後の座頭を呼ぶ。国境の座頭滞在は禁止だと氏邦から通達される。

  2. 左衛門殿(長左)……氏邦の長文意見を無視、家老を頼らない方針。氏邦から大膳亮をつけられる。矢野・吉里案件の相談先として氏邦が相談先に選ぶ。座頭問題では「無許可・支障」を理由に座頭招致を反対。

  3. 一井斎……神庭・矢野・吉里・高山たちを指して「一井斎従御代彼等走廻存之面ゝニ候へハ」と表現。「御代」は物故した先代の時代を指すから、白井殿か左衛門殿、あるいは双方の父であった可能性が高い。

左衛門殿は、氏邦が最初の方でうっかり「長左」と書いてしまっている。恐らく、より広い範囲の後北条家中ではそのように呼んでいたのだろう。その部下にした大膳亮に配慮してこの後は敬称にしている。

矢部大膳亮は、かつて氏邦の部下でこの年の春から左衛門殿につけられた。氏邦と左衛門殿は直接書状を送り合う間柄だが、この文書では大膳亮が仲介するように命じられている。同様の存在として冒頭に出てくる「吉田」がいて、この人物は矢野・吉里の子弟からの陳情を白井(左衛門殿)に取り次いでいる。

白井殿が御屋形様とも呼ばれていたと仮定したのは、「御屋形様」と「御大途」が併記されているため。文中で「左衛門殿の被官を召し上げることはない」とした条件の中に「御屋形様に仕えた者」と「御大途周囲の者が嫌った者」がある。左衛門殿の被官の条件だから、御屋形様は左衛門殿自身ではないし、併記されている御大途にも当たらない。ここから、白井殿=御屋形様という仮説に至った。

もう一つの書状

氏邦は同じ日付で神庭三河入道に書状を送っている。大膳亮に宛てたものに添えたものだろう。

矢野・吉里子之儀ニ付而、矢部其方所迄申候、更無所詮事ニ候へ共、先日申候成間敷なら者、早ゝ進退為近可申候、又ゝ仰出候而も、無其意趣茂、左衛門殿気も不和、是は房州御意見候間、無処召出候なとゝ存分立候者、未募間敷候之条、此侭何方へ茂、越可申候、恐ゝ謹言、
九月四日/氏邦/神庭三河入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編3993「北条氏邦書状写」(赤見文書)

矢野・吉里の子について、矢部があなたの所まで申します。更に検討するようなことではありませんが、先日言ったようにならないならば、早々に進退を近くするように申しましょう。また、仰せ出しになっても、その意趣もなく、左衛門殿の気持ちも知らず、これは私がご意見していますから、無理にでも召し出そうなどとの考えを立てて未だ募ってはならないので、このままどこかへ送ってしまおうと思います。

「左衛門殿気も不和」は「不知」の誤翻刻かと思う。左衛門殿の意見が来ないので、氏邦が独自に判断していることを伝えているからだ。

先の書状で氏邦が気に病んでいた矢野・吉里子のことが相談されている。その中で「これは左衛門殿ではなく私の意見だから、無理に白井へ勤務させることはない」というようなことを書いている。そして「無理にでもと言い出さない内にどこかへ送ってしまおう」と続けているから、白井の家中においては氏邦より左衛門殿の意見の方が強かったのが判る。

ここに白井殿は出てこない。

専門家による人物比定

改めて、氏邦が関わった左衛門殿・白井殿は誰かを検討してみる。一井斎は白井長尾の憲景で間違いない。

憲景には、輝景と鳥房丸という二人の息子がいた。人名辞典で当該部分を抜粋すると……。

後北条氏家臣団人名辞典

長尾憲景

吉里の子と矢野弟の兄弟の扱いについて指示し長尾一井斎も存じの者とある。

長尾輝景

白井へ吉里子・矢野弟が侘言を言ってきたとある。当文書では北条氏邦が指南役として白井長尾氏の家老衆と輝景の和解を図った。

  • この辞典には輝景の弟として政景の項目があるが、家老衆との諍いに関する記載はない。

戦国人名辞典

長尾鳥房丸

天正十三年兄輝景の重臣牧和泉守親子が拠する田留城(赤城村)を所望するが果たせず、兄の意に背いて重臣牧親子と争い、城内の内通者と謀り、これを謀殺したと伝える。兄との確執や当主交替を伝える伝承があるのも、白井城周辺での内紛を反映しているのか。兄輝景が重臣と対立していたのもこの頃である。

誰が誰なのか

どちらの辞典も白井殿と左衛門殿を同一人物として扱い、輝景を比定している。しかし、同一文書で何度も両方の名が出てくること、座頭の扱いを巡って両者が対立していることから見ても、別人物と考えるのが妥当だ。

とすると、憲景(一井斎)は父であり故人、跡を継いだ輝景は白井殿・御屋形様と呼ばれていたと考えるのが最も自然である。兄弟が勤務を拒んだ「白井」は政景であり、一騎合を監督すべき家老たちの所在が曖昧であることを嘆いた氏邦が「白井殿の手前、こんな状況はいかがなものか」と案じたのも政景の指導力欠如を憂いたためだ。こう考えると全てがすっきりつながる。

憲景・輝景と続けて名乗ってた官途である「左衛門」を、輝景生存時に弟の政景が名乗ったのは違和感がある。しかし、輝景に実子がいたという痕跡がないので、父の死後に小田原から戻った政景が兄の養子になり官途を受け継いだとすれば問題はない。政景の後見役として氏邦が入り、矢野・吉田といった部下を配属させた。後北条の支援を受けた政景に押されて、実質的に輝景は若くして隠居状態となり、兄弟の関係も険悪になったのかも知れない。その状況は座頭事件での微妙な描写に窺われる。また、戦国人名辞典での内紛も何らかの形で当時の緊張が伝承として残されたと考えられる。

矢野の弟はどのような扱いを受けていたのか

1589(天正17)年に比定されている、不気味な氏邦書状がある。この文書単独では判らなかった事情が、上述の経緯を踏まえると一歩踏み込んだ形で理解ができる。

其方事此度無相違以子細、出仕候由、肝要ニ候、然ハ、其方陣所へ来り候成共、をとすもの有之ハ、爰元江不及披露、致書付以酒井、新太郎所へ可被申候、惣別小田原衆ニ付逢事、無用ニ候、無理来者有之ハ、此一札を見せ、可被断候、其方新太郎所へ可被申候、大途之可立御用候、誰歟兎角申候共、少成共、大途御相違有間敷候間、心安可被存候、をとすものを大途江可有披露候、恐ゝ謹言、
二月廿五日/氏邦/矢野孫右衛門殿

  • 戦国遺文後北条氏編3429「北条氏邦書状写」(赤見昌徳氏所蔵文書)

あなたのことは、この度相違のない事情で出仕されたとのこと。重要なことです。ですから、あなたが陣所へ来た時などに、脅す者がいたら、こちらへは報告せずに、書付をしたためて、酒井を使って新太郎の所へ申告して下さい。総じて小田原衆と付き合うのは無用なことです。無理に来る者がいたら、この書状を見せて注意して下さい。あなたが新太郎の所へ来たのは大途のお役に立つためですから、誰かがとやかく言うことではありません。少しのことでも、大途は相違がありませんから、ご安心下さい。脅す者を大途へ報告するでしょう。

鳥房丸=輝景の弟=政景とすると、矢野孫右衛門を脅していた「小田原衆」は、白井家中において小田原に人質として長く生活していた政景とその側近を指すのかも知れない。本来の小田原衆は当主である大途と直結していた筈なので不思議に考えていたが、白井の中での話だとすると判り易い。白井勤務から逃げた矢野弟=孫右衛門が、氏邦の元でその後継者と思われる「新太郎」に仕えることになり、それを面白く思わない白井の小田原衆が妨害する恐れがあったということか。

政景と矢野の因縁

1583(天正11)年比定の虎朱印状では、氏邦に宛てて、長尾鳥坊丸の帰郷を認めている。代わりの人質として「矢野」が小田原に行ったようだ。

長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)

こうした状況から、家中が安定していれば固い絆で結ばれたであろう主従も、状況によっては仇敵になってしまうことがあったのだと考えられる。

2017/10/13(金)六郎と氏忠が同一人物かどうか

1575(天正3)年に比定されている虎印判状で、宛所の「六郎」と文中の「氏忠」が別人物と解釈できることから「北条六郎」という、氏忠ではない人物がいると黒田基樹氏が指摘したが、その後『』で両者は同一人物であると再比定されている(p79)。

ただ、ネット上ではいまだに「六郎と氏忠は別人」という古い指摘が流布している。改めて、史料から比定を検討して、黒田氏再比定が妥当であることを検証してみようと思う。

そもそも、六郎と氏忠が別人物だとすると「本しやうつほね書状」(埼玉県史料叢書12_0408・岩本院文書)で、氏政・氏照・氏真・氏規・氏邦・氏光と並んでいる「六郎殿」が誰だか判らなくなってしまう。

うちまささま、うちてるさま、うちさねさま、五郎殿・六郎殿・大郎殿・四郎殿

黒田氏が別人説を当所見出した懸案の文書は以下のとおり。

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

    (前欠)小曲輪 十人、内村屋敷へ出門 十人、板部岡曲輪 十人、関役所二階門 六人、同所蔵之番 十人、鈴木役所之門 以上 一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事 一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事 一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事 一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事 一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事 一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事 一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事 以上 右、定所如件、 乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

注意書きの部分を解釈してみる。

一、各門の開け閉めは、朝は六つ太鼓を打ったあと、日の出を見て開くように。晩は入会の鐘が終わってから閉めるように。この開け閉めの規則を破った者は、この曲輪の責任者が重く罰すること。但し、やむを得ない用事がある場合は、責任者で協議して一筆書き出し、日誌につけておき、帰陣した時に提出するように。隠れて脇から出し入れしたことが判明したら、処罰の対象とする。 一、当曲輪の毎日の掃除は厳密にするように。竹木は何があっても切ってはならない。 一、たとえ代理の者が出てきたとしても、病気になったりして欠勤する際、または所定の人員に不足があった際は、氏忠へ申請し、氏忠の考えに添うように。 一、夜間は、どの設備も6時まで寝ずの番をして土塁警邏をするように。但し、土塁や堀の裏へ上がったら芝を踏み崩してしまうので、芝生の外を歩くこと。 一、鑓・弓・鉄炮をはじめ、各自の道具を集め、今日23日に全ての設備に配置、具足・甲などまで迄、しっかりと置くこと。 一、番衆の中で不埒な者がいれば、たとえ主人だったとしても容赦なく、糊付けにして氏忠に報告すれば、褒美を出すだろう。もし御褒美がなければ、帰還後に目安として大途へ申し上げるように。望みの通り御褒美を加えられるだろう。 一、日中は朝の五つ太鼓から八つ太鼓までの三刻、その曲輪より3分の1ずつ休息するように。七つ太鼓以前には、全員が着到通りに曲輪へ集り、夜中はしっかり詰めておくこと。

ここで「氏忠」が出てくるのは、欠勤や兵員報告の向き先、かつその対処を一任されている存在として、また、密告者の情報の向き先である。

恐らく「六郎」が「氏忠」であった場合、「密告しても氏忠が褒美をくれなかったら、後で氏政に直訴せよ」と規定している点からだろうと思う。氏忠本人にこれを言うだろうかと疑問に思うのも無理はない。だが、それは近代的な文書様式による偏見に過ぎない。

この時代は、その文書によって利益を受ける人間がそれを保持する。利益を侵害されそうになった際に、文書を見せて権利を守るためだ。この場合、軍律を守ることが六郎の利益であり、それを支えるために発給されたのであれば、六郎=氏忠で特に問題はない。

六郎=氏忠が、指示に従わない者にこれを提示したシーンを思い浮かべてみよう。


あれこれ規則を読み上げるが、皆はうんざりして「まあ守れるようなら頑張ろうかな」ぐらいの温度だったとする。ところが、密告推奨の条文の辺りで舌打ちをしただろう。しかも「氏忠が応じなくても氏政が応じる」という念押しまである。現場の見逃しで氏忠をごまかせても、やたら細かい氏政は徹底的な調査を命じるだろう。

押し黙る部下を前にして、氏忠は「私自身にも密告はどうにもならぬ。せめて厳密に守備をしよう」と、物主たちの肩を叩いて励ます。

そして、宛所では仮名や官途で呼ばれながら、文中ではその本人を実名で呼ぶこともまた多い。

解釈を浅めに捉えて、六郎と氏忠が別人と考える論も全く無理ではないのだが、それに伴って「六郎と氏忠が別人だと、その他の解釈がより自然になる」という展開は特に見当たらない。むしろ「じゃあ六郎って誰?」になってしまい、それは比定の方向として宜しくない。