2018/05/28(月)「野菜は申し出てから奪え」という指示

秀吉の制札

本来寺や郷村を保護する指示書でなぜ?

羽柴秀吉が出した定書に「糠・藁・薪・野菜は住人に通告してから取るように」という条文がある。ということは「通告さえすれば奪ってよい」ということになる。


駿河内ふから
一、軍勢味方の地にをいて乱妨狼藉の輩、一銭きりたるへき事
一、陣取にをいて火を出す族あらは、からめとり出すへし、自然逐電せしめハ、其主人罪科たるへき事
一、ぬか・わら・薪・さうし以下亭主に相ことハり可取之事
右条々若令違犯者、忽可被処厳科旨被仰出候也、
天正十七年十二月日/(羽柴秀吉朱印影)

  • 豊臣秀吉文書集2897「羽柴秀吉定書」(判物証文写・東大史影写)

この定書は駿河・遠江に3件。所付を欠いたものが16件配布されていて、信憑性は高い。

この手の禁止事項は地権者、上記で言えば駿河国深良郷が受け取り、略奪にやってきた羽柴方を追い返すのに用いられる。他の制札を見ると、境内には絶対入るなとか、狼藉は禁止するという強い制止が書かれており、侵入されたり略奪されたりという事態に陥った地権者が提示する作りになっている。

となるとこの定書は不思議で、深良郷にとっての利点は「糠・藁・薪・雑事(=野菜)を奪われるのは防げないが、略奪通告はしてもらえる」ということでしかない。狼藉禁止・防火対策を命じた前2条との抱き合わせで郷村に条件をのませたのだろうか。

類似文書を探してみる

似た文書がないかを探してみたところ、遡ること55年前、今川義元・太原崇孚が出した禁制に「竹木・芋・大豆・菜・雑事を、所望せずに抜き取ること」が書かれ禁止されていた。

制札
すとなかさとかゝへ
一、軍勢甲乙人等、濫妨狼藉之事
一、苅田之事
一、竹木・芋・大豆・菜・雑事、不所望抜取事
右、堅停止之上、於違犯之輩者、可処厳科者也、仍如件、
七月廿六日/文頭に(朱印「義元1型」)崇孚(花押)

  • 戦国遺文今川氏編0776「今川義元禁制」(富士市中里・多聞坊文書)1545(天文14)年比定

もう1つ。後北条氏も年未詳ながら「陣具・芋・大豆のたぐいはどこの土地のものでも取ってよい」と書いている。

制札
右、大河原谷西之入筋、案独斎於知行、諸軍人馬取事、并屋敷之内ニて、鑿取令停止候、但陣具・芋・大豆之類者、何方之地候共、可為取之者也、仍状如件、
九月九日/(虎朱印)

  • 戦国遺文後北条氏編3815「北条家制札」(浄蓮寺文書)

こう並べてみると、米穀を除く食糧・道具は略奪禁止から外されており、中でも後北条氏は通告についても明示せず「どこの地でも奪ってよい」と保証している。この点から特に略奪への制約が少ない、といえるだろう。

 一見すると、同時代史料から見てこの考えで問題はなさそうに見える。

 

しかし、この仮説は誤っている。

もう少し掘ってみる

念のため、戦国遺文をざっと見渡してみると、無条件略奪を許可していた後北条氏が、一転して「草1本でも抜くな」と厳命している文書があった。

禁制
一、寺内之儀者不及申、近辺之菜園一本にてもこき取間敷
一、寺之山林枝木にても手指事、并竹子一本にてもぬき取
一、非儀非分有間敷事
以上
右三ヶ条、少も相違有之者、富士常陸可被申断、彼者大方申付ニ付而者、当意御本城へ納所を指越、可被申上候、不申上而、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/海蔵寺

  • 戦国遺文後北条氏編1414「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

禁制
一、寺内之儀不及申、近辺之菜園一本ニてもこき取
一、寺山林枝木ニても手指事、并竹子一本ニてもぬき取
一、非義非分有間敷事
以上
右三ヶ条、少も相違有之者、甘利佐渡・久保新左衛門尉可令申断、彼両人大方ニ申付候者、当意御本城江納所を指越、可申上候、為不申上、宿取衆狼藉、自脇至于入耳者、住寺可為曲事者也、仍状如件、
午卯月廿六日/(朱印「武栄」)南条四郎左衛門尉・幸田与三奉之/久翁寺

  • 戦国遺文後北条氏編1415「北条氏康禁制写」(相州文書所収足柄下郡久翁寺文書)1570(永禄13/元亀元)年に比定

これは、当時隠居だった北条氏康が海蔵寺・久翁寺に出したもの。富士・甘利・久保は今川氏の被官で、武田・徳川に分国を奪われた今川家は当時小田原近辺に居候していた。隠居していた氏康が朱印状を出したのは、当主の氏政が虎朱印を持って出陣していたため。

状況を推測すると、いわば友軍として保護していた今川家中が寺院に対して横暴を働き、たまりかねた寺が氏康に頼み込んで禁制を発行してもらったのだろう。

となると、略奪容認だったはずの後北条氏が今度は厳格な対応をしたことになる。上の2件では「菜園の1本」「竹の子」でも一切触るなと命令しているからだ。

今川氏の方でも、これは被官の大原資良が出したものだが、野菜を掘り取ってはならないとしている。

制札 本興寺
一、当寺中戸はめ并門前小家等、不可破取
一、竹木不可伐、又野菜不可堀取
一、沙弥雑人不可剥、次鍬鎌不可取
普請付而竹木以外所用之事有之者、以折紙直住持へ可所望候、無左右猥不可濫妨者也、
永禄十二巳二月廿七日/資良(花押)

  • 戦国遺文今川氏編2289「大原資良禁制」(湖西市鷲津・本興寺文書)

ますます判らなくなり、手持ちの各書を当たってみた。類似の文書が更に出てくれば実態が判るかもしれない。

  • 戦国遺文後北条氏編・今川氏編
  • 小田原市史資料編小田原北条
  • 増訂織田信長文書の研究
  • 愛知県史資料編10
  • 明智光秀(八木書房)

そして「野菜だったら抜いてよい」という文言は1つも見つけられなかった。

つまり、秀吉定書に類似した今川・後北条の文書が1つずつ出てきたものの、実際はかなり特殊で例外的な条項だったということだ。

秀吉定書自体は何通も現存していて疑いようがなく、後北条・今川の2文書も伝来・文言に不自然なところはない。秀吉の定書きでの他の条文の表現すると、郷村向け禁制というよりは、軍令に近いような印象もある。

これは恐らく、情報が足りていないということだ。各種禁制をもっと追わねばならない。

2018/05/06(日)駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏

今川・後北条の家中に存在した朝倉氏はどこから来たか

名字からいって、斯波家守護代だった朝倉氏からの分流なのは確実だと思われる。

1549(天文18)年9月18日の朝倉氏像銘(戦北355)によると、北条氏綱の次男である為昌の室は朝倉氏の出身で「彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉」と書かれる養勝院殿。この縁で、初期の玉縄衆として朝倉氏が活躍している。

もう1つ、朝倉義景と後北条氏が直接交流した書状が残されている。これは相模海蔵寺住持が越前永平寺を訪れた際のもの(戦北4561)。しかし、氏康・氏政父子に次いで名が出たのは「松田殿・中村殿」であり、同族としての繋がりは見られない。

下山治久氏による朝倉氏出自の説明

一貫して、今川氏親の被官だった人物が、後北条家に来たという説明になっている。石巻・関・福島といった、今川被官からの転出集団に帰属すると考えているようだ。

『北条早雲と家臣団』(下山治久)p169

朝倉氏は、もと今川氏親の家臣で、早雲に仕えたのち、朝倉氏の娘が為昌の室になったために、氏綱の側近から為昌の側近家臣になった人である。

『家臣団人名辞典』p11 朝倉氏項

越前国の守護職朝倉義景から朝倉景徳を通して相模国海蔵寺に年未詳八月八日朝倉景徳書状写(相州文書・4561)が来ており、朝倉氏と北条氏が近しい関係にあることを示している。『寛政譜』巻六六六~七に朝倉氏系図を載せ、越前国守護職の朝倉敏景の次男秀景の嫡男玄景が伯父氏景と不和になり、玄景は駿河国の今川氏親の許に行き天文二年十一月に死去した。その一族が北条氏に仕えたものと思われ、朝倉播磨守某が伊勢宗瑞に仕えたと推定される。

初めて朝倉氏が登場する文書を比較

後北条側では、享禄4年という早い段階で既に、朝倉右京が祖父「古播磨」の小田原香林寺寄進に言及しており、伊勢盛時と同時に相模入りしたか、もしくはそれ以前により早く小田原にいた可能性すらある。

それに対して、今川側では天文17年とかなり後での登場。駿河長津俣の所領を、破産した浦田又三郎から買い取ったところから始まる。待遇にしても、当主次男に嫁いだ後北条側と比較すると、かなり低いところに見える。

後北条氏での初出

1531(享禄4)年12月5日

香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

今川氏での初出

1548(天文17)年11月24日

駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

とりあえずの推測

武蔵遠山氏が堀越の足利政知配下から伊勢盛時に合流したと推測されているように、朝倉氏も堀越からの合流組ではないか。

足利政知は、関東へ入るために斯波氏の援軍を計画していた時期がある。この時に斯波家の守護代である甲斐・朝倉の両氏が関係しているのは確実なので、その時期に朝倉氏が一族の誰かを伊豆に置いた可能性がある。これが1460(寛正元)年頃で、この直後に斯波家は大規模な御家騒動に見舞われている。この騒動に紛れたり、時間が経ち過ぎたりで越前との関係性が途切れたのではないか。

また、文書として登場順からすれば後北条に最初に仕え、その後に駿河へ進出したように見える。

2018/05/05(土)海蔵寺の伝馬

海蔵寺はどこへ向かったのか

『戦国大名の印章』(相田二郎)で、甲斐武田氏の伝馬用朱印が紹介されていた。これは篆書だからだろうか、「傅馬」とは読めず素人目には「猫黒」と見えてしまう。印文の本当に難しいものだと思った。

IMG_20180505_124306.jpg

そんな海蔵寺の遠出について、読んでいくとあれこれ興味深い推測ができるのでまとめてみた。

1568(永禄11)年

7月5日

後北条氏が、海蔵寺住持が「上洛」するためとして、旅費1,000疋(10貫文)を黄金で渡す。関兵部丞から受け取るようにと、岩本太郎左衛門尉に命じている。

海蔵寺就上洛、為路銭千疋被遣候、自関兵部丞前、以黄金請取、可相渡者也、仍如件、
戊辰七月五日/(虎朱印)江雪奉/岩本大郎左衛門尉殿

  • 小田原市史小田原北条0724「北条家虎朱印状写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)

7月6日

後北条氏が、海蔵寺が用いる伝馬5疋を出すよう指示し、相模国では1里1銭の課税を免除する。奉者は岩本太郎左衛門尉。甲府までの宿中に宛てている。「関東」は「関本」の誤記だと戦国遺文と小田原市史は指摘。

伝馬五疋、無相違可出之、海蔵寺被遣、相州御分国中者、可除一里一銭者也、仍如件、
辰七月九日/(朱印「常調」)岩本奉/自小田原甲府迄・関東透宿中

  • 小田原市史小田原北条0726「北条家伝馬手形写」(相州文書・足柄下郡海蔵寺所蔵)

7月23日

甲斐武田氏が、海蔵寺に伝馬7疋を出すよう指示。信濃国木曽までの宿に宛てている。

伝馬七疋無異儀可出之、海蔵寺江被進之者也、仍如件、
戊辰七月廿三日/文頭に(朱印「伝馬」)/信州木曽通宿中

  • 神奈川県史資料編3下「武田家伝馬手形」(海蔵寺文書)

相田二郎氏は『戦国大名の印章』のp242で以下のように記載する。

海蔵寺の住持が、甲斐信濃を経て越前永平寺に赴いた時、武田氏から与えた伝馬の手形に、次の如きものがある。

これは、7月5日の虎朱印状で「上洛」としていることと異なる。東山道を行くことから越前行きを連想したか、もしくは下記文書から推測したのかも知れない。また、小田原出身の相田氏は学業に挫折した際に海蔵寺に駆け込んで住持の援助を得たとする証言があることから、何らかの証跡を見出していたのかも知れない。

8月8日

海蔵寺が相模国に帰るに当たり、朝倉景徳が、朝倉義景から北条氏康・氏政への書状を託す。太刀と馬は遠路ゆえに辞退されたため、絹5匹を代用。松田・中村へは2疋を進呈する。

この文書は年未詳とされている。前に紹介した文書と関連するならば永禄11年比定でよいように考えられるが、時期が迫っていたためか、永禄11年7月の旅程があくまで「上洛」と想定したために未詳とされたのだろうか。

就御下国、北条殿御父子様江、自義景以書状被申候、向後別而可申承之由候間、可然之様御取成肝用存候、仍御太刀・御馬之儀、遠路之条、如何候旨、尊意之趣申聞候処、御異見次第之旨ニ付而、御両殿江絹五匹充、松田殿・中村殿へ弐疋充被進之候、何も御心得候而、可被仰届候、御理之条、上裏ニ拙者判形仕候、恐惶謹言、
八月八日/景徳(花押)/謹上海蔵寺衣鉢侍者禅師

  • 戦国遺文後北条氏編4561「朝倉景徳書状写」(相州文書所収足柄下郡海蔵寺文書)

海蔵寺が甲斐・信濃を通過した意味

永禄10年2月21日に、武田義信室が三島に移住している(戦国遺文後北条氏編1010)。この段階で既に、武田と今川・後北条は外交上緊張状態だったと推測される。この後に、永禄11年11月には、甲斐から駿河への侵攻作戦が開始される。こうした情勢の中で、海蔵寺住持の路次手配を武田晴信が行なった点は、侵攻直前まで三国の緊張は緩和されていたと見なせるかも知れない。