2017/04/21(金)軍役をこなせるのは何歳から?

後北条氏の被官が何歳で成人となり軍役につけるかを考えてみた。とはいえ2例からなので、他にもあるかは引き続き調査中。

後北条氏には成人とみなす基準年齢があったのかも知れない。

天正3年に幼少の笠原千松に対して松田政晴を陣代としてつけた際「来る癸未年まで9年間」と限定している(戦北1771)。これは松田氏側の要因もあるのかと考えていたが、別の文書で少し理解が進んだ。

永禄12年、幼少の本田熊寿に伯父甚十郎を手代としてつけた際に「未年より跡目相続して陣役を務めよ。もし伯父が非分をするなら訴えよ」としている(戦北1251)。こっちは巳年発行の文書で言っているので、3年間の手代期間。家臣団辞典によると熊寿は本田正家で、1584天正12)年に小牧陣への援軍として選抜されている。正家は1618(元和4)年に61歳で死去というから、熊寿だった1569(永禄12)年時は12歳、家督継承時は14歳。

本田氏の例から敷衍すると、笠原千松は天正3年時に5歳だっということになる。

後北条氏が百姓らに出した総動員令で「十五より内之童部」は免除されているので、武家はこれより早めに軍役につけたというのが現状の仮説となる。

笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡、然者代官所同心衆私領如比間、請取厳密ニ可致之、就中、豆州郡代之事、如先規相改、毛頭掟無妄様ニ可被走廻、仍状如件
天正三年乙亥三月二日/氏政(花押)/松田新六郎殿
戦国遺文後北条氏編1771「北条氏政判物」(松田敬一郎氏所蔵文書)

父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件
永禄十二年己巳壬五月廿日/(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉/本田熊寿殿
戦国遺文後北条氏編1251「北条家朱印状」(本田文書)

掟一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為 推候、以上
七月廿三日/(朱印「有効」)/木古葉小代官百姓中
戦国遺文後北条氏編3350「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)

2017/04/21(金)後北条被官初出年齢

まずざっと調べてみた。15歳から20代半ばくらいか。この後情報が入り次第追記していく予定。

『後北条氏家臣団人名辞典』より主要奉者の初出年齢

  • 15歳・小笠原康広 1531(享禄4)年~1597(慶長2)年、1546(天文15)年初見
  • 15歳・富永政家 1569(永禄12)年初出、1607(慶長12)年没、54歳<1553(天文22)年生>
  • 19歳・間宮康俊 1536(天文5)年初出、1590(天正18)年没、73歳<1517(永正14)年生>
  • 22歳・北条氏繁 1536(天文5)年生、1558(永禄元)年初出
  • 23歳・松田康長 1537(天文6)年生、1559(永禄2)年役帳初出
  • 26歳・石巻康敬 1559(永禄2)年役帳初出、1613(慶長18)年没、80歳<1533(天文2)年生>
  • 31歳・板部岡融成 1537(天文6)年生、1568(永禄11)年初出
  • 31歳・山角定勝 1559(永禄2)年役帳初出、1603(慶長8)年没、75歳<1528(大永8)年生>

※但し山角定勝室は松田康長娘という系図があるので情報が混乱している可能性あり

○参考

  • 石巻家貞 1529(享禄2)年初出、1567(永禄10)年終見
  • 板部岡康雄 1555(天文24)年初出、1584(天正12)年終見
  • 垪和又太郎 1579(天正7)年に氏直一字書出、1582(天正10)年には出陣実績
  • 垪和氏続 1557(弘治3)年に家督継承、1559(永禄2)年に初見、1584(天正12)年終見

2017/04/20(木)岩付落城を巡るあれこれ

1590(天正18)年5月27日。岩付城が陥落したことを、長谷川秀一・池田輝政・細川忠興が北条氏直に報告し、拘置している氏政妹(長林院殿)と氏房室(小少将)の身柄と、討死した将の首級について打診をしている。但し、6月24日段階の小少将書状では「岩付三ノ丸」「はし番にて」と書かれており、1か月近く経っても岩付城内で軟禁されていたことが判る。また、落城の契機について「本丸から坊主が出てきて兵士が全滅したというので接収した」と羽柴被官が言っているのに対して、小少将は「年寄(物頭か?)の才覚で本丸と二の丸を明け渡して三の丸にいる」と書いている。後者だと三の丸の武装解除は行なわれていないような書き方になっている。

何となく、羽柴方による情報操作が窺える。一方で後北条方の反応もよく判らなくて、籠城中の金銭貸し借りは無効とする徳政令を氏房が出している。日付は小少将の降伏勧告の翌日で、反応が鈍い後北条方に業を煮やして、閉じ込めた小少将に書状を書かせた可能性がある。


羽柴氏被官(長谷川・池田・細川)が、北条氏直に岩付陥落を知らせる。

取り急ぎ申します。さて関八州の諸城のこと、攻め殺すべしとのことで、上杉景勝・前田利家・木村重茲・浅野長政・山崎方家・岡本良勝と、徳川家康配下の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉、以上で5万騎が派遣されましたところ、それぞれの城の命は助ける方針だとこれらの衆が申し上げたところ、数に入らないような城は追求すべきではないからと、助命をお認めになりましたので接収しました。ということで残る岩付・鉢形・八王子・忍・津久井の5城については、降参が遅れたことから、対応に乗り出して詳細を調べたところ、武蔵の岩付が5城の中で最も要害堅固だと案内者が申しましたので、では良い城から先に攻めるように仰せ出しになられ、そこで木村重茲・浅野長政・山崎方家・平岩親吉の面々が総勢2万余で持ち場を決めて20日から攻撃し、すぐに町まで乗り崩し悉く首を刎ねました。息をも継がず端城へ攻め入りました。数回反撃があったものの「とても適わない」とのことで本丸より坊主を出してきました。「戦える者はもう全員戦死していて、城の中に残っているのは町人・百姓・女性以外はいませんから、命はお助け下さい」と申しました。助命のために攻撃陣営から検使を出して、命を助けて城を受け取りました。百姓・町人のほかに年寄と子供が2~3人混じっていて、更に氏政妹とその娘(氏房妻)がいました。その対処について上申したところ「名のある武士の妻女なのだから恥辱を与えてはならない」との仰せ出しだったので、端城へ出して、その他の隠れていた者たちと一緒に鹿垣を結い回した中に保護しました。その後で年長者(氏政妹と娘か?)が言うには「命を助けてもらっても生き甲斐がありませんから、せめて小田原に入れていただき、氏房と一緒に腹を切りたい」と言っているのをお聞きになって、義理を弁えている人ですから哀れにお思いになり、そちらの城中へ送るように仰せになりました。ですから、数日中にその者が到着するので必ずこの口から送ります。次に、この親子のことは、不憫に思われて、女のことだからということで、お詫び言を申し上げるために呼ばれました。これについては、幸い石巻康敬が助命されていますから、岩付へ遣わし彼女らを送らせました。とりわけ岩付城で討ち取った首級が今到着しましたので、この口に掛けて置きまますのでご諒解下さい。その中で引き取りたい者がいれば、人を出して望むままにお持ち下さい。そうであれば、互いに射撃をやめて首を掛けたいと思います。ご同意いただけないのであれば、夜間に掛ければよいでしょうか。ご連絡をお待ちします。次に、残された1か所の城のこと。鉢形城は上杉景勝・前田利家の両人が担当して包囲しています。忍・八王子・津久井についても、それぞれで担当を決めて、急いで決着をつけられるかも知れません。

急度令申候、仍八州諸城事、為可被責殺、越後宰相中将、加賀宰相、木村常陸介、浅野弾正少弼、山崎志摩守、岡本下野守、家康内本多中務少輔・鳥居彦右衛門尉・平岩七之助、以上五万余騎被差遣候処ニ、城ゝ命を被助候様ニと、右衆中江申ニ付而、其旨言上仕候へハ、数ならさるものゝ儀ハ、不入事候間、可助由被仰出候付、城ゝ請取候、然者残る岩付・鉢形・八王寺・忍・付井此五ケ所之儀、降参遅ゝ故、為被加御許戮、城の可然、を被成御尋候処ニ、右五ケ所之内にてハ、武蔵国岩付城要害堅固之由、案内者共申上候、然者よき城より先可責崩由被仰出、則木村常陸・浅野弾正・山崎志摩・平岩七之助、此面ゝ都合以二万余、責口分相究、去廿日押懸、即時ニ町まて乗崩、悉刎首、息を不続、端城責入候、数度之戦雖有之、不叶ニ付て、本丸よりも坊守を出し、何も役にも立候者ハ、はや皆致計死候、城のうちニハ町人・百姓・女以下より外ハ無御座候条、命之儀被成御助候様と申ニ付て、百姓・町人・女以下一定ニおゐてハ、可助ためニ、責衆より検使を遣し、たすけ、城を請取候後、百姓・町人以下之年寄・子共二三人打交り、并氏政妹、其息女、十郎妻女在之条、如何可仕哉之旨、従彼面得御意候処ニ、名も有者の妻子ニ候間、当座之恥辱を不與様ニ可仕旨、被仰出候ニ付、端城江出し、其外かくれ居候者ともさかし出、一所ニ鹿垣をゆひ廻、追入被作置候、就其後長敷者申様、此上にてハ、命を御助候ても、生甲斐無之候条、迚事ニ小田原へ入、十郎與一所ニ腹を切度と申候を被聞召付、義理を存知たる者ニ候条、哀ニ被思召候、其城中江遣候へと被仰出候間、定而五三日中ニ、彼者可令参着候条、必此口より可送遣候、次おやこの女房衆之儀、不便ニも被思候て、女之儀候条、為差御詫言申上可遣候、於然者、幸石巻下野守最前命を助被遣たるものゝ儀候間、迎ニ被遣候ハゝ、岩付江遣、右女房衆ニ引合、可送候、就中於岩付城討残候首共、只今持来候間、此口ニ可掛置旨、御意候、其内ニ可被取蔵も候ハゝ、人を出し、所望次第可被取入候、さ候ハゝ、互ニ鉄炮を打留候て、程を可掛候、但於無同心者、夜陰ニ可懸置候歟、御報ニ可承候、次相残一ケ所之城之儀、鉢形城ハ、羽柴越後宰相中将・羽柴加賀宰相両人ニ被仰付、被取巻候、忍・八王寺・付井之儀も、手宛ゝゝ何茂被仰付候、急度可為一着歟、恐ゝ謹言、
五月廿七日/羽柴東郷侍従秀一判・羽柴岐阜侍従輝政判・羽柴丹後少将ー―判/北条左京大夫殿御宿所
小田原市史小田原北条4541「長岡忠興等連署書状写」(北徴遺文六)

小少将(北条氏房室ヵ)が某(北条氏房ヵ)に降伏勧告を行なう

一筆送ります。そちらでの日夜のお気遣い、軽くはないだろうと思います。それで、この地のことですが、夥しい数の上方勢がやってきて危うい状況だと思い、どんな辛い目に遭うだろうと考えていたところ、年寄たちの機転で本丸・二の丸も渡して、自分たちは三の丸に押し込められています。とりあえずはご安心下さい。とはいえまだまだ危ないことで(欠落)、あなたは急いで秀吉将軍へお味方なさいますように。そうでなければ、大変な攻撃をされて、その後は重い罪に問われるでしょう。事の習いとはいえ痛ましいことだと思ってしまいます。もしも、哀れにも思っていただき、義理とやらの筋さえ、違えることもなくいらっしゃるならば、良いようにお計らいいただき、こちらの父母妻子などをお助けなさいますように、宜しくお願いします。詳しくは葛原が申しますから、筆を留めます。

一筆参せ候、そこほと日夜の御きつかひ、かろからぬ御事にこそとそんし参せ候、左候得ハ、此地の御事おひたゝしき上勢むかひ来てあやうく見え、いかなるうき目にもあひなんやといふかしく存候処ニ、としより共さいかくにて本丸・二之丸も相渡、みつからなとハ三之丸におしこめられある事候、まつゝゝ御こゝろやすくおほされ候得、されともいまたやすからぬ御事■■■そもしさたいそき秀よし将くんへ御見かたなされ候得、左もあらぬほとならは、ことゝゝしきせめにあわせ候て、其後ハおもきつミにおしつめ侍らんとの事也けれは、ことのならいいたミ入存まいらせ候、もしあハれにもおほされ候て、義理と哉らんのすちさへ、たかふ事なくおハしまさは、よきにはからひ結ふてこゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや、くわしく葛原申上候ハんまゝ筆をとゝめまいらせ候、目出度かしく、
六月廿四日/岩付三ノ丸小少将はし番にて/人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編3752「小少将書状写」(秋田藩家蔵文書三十一)

北条氏房、内田兵部に籠城に伴う徳政実施を伝える

今度の籠城について、頼母子講・借金は徳政とすることを申し上げている。もっともで異議はないとのこ仰せ出しである。

今度籠城付而、たのもし并借銭徳政之事申上候、尤無異儀被仰出者也、仍如件、
天正十八年庚寅六月廿五日/(朱印影「心簡剛」)/内田兵部殿
埼玉県史料叢書12_0935「北条氏房朱印状」(屋代典憲氏所蔵古文書写)