2017/12/19(火)家康の起請文作戦を真似ようとした氏真

徳川家康=松平元康(以下、元康)スタートアップの成功要因は、既得権力の排除(吉良を最初に攻撃、次いで今川・一向宗を排除)に伴っての大幅な現場へのリソース還元が大きいと考えている。それに加え起請文を相手に出す率も高い。この時代起請文で契約が確定していたような気配はあるが、率先して元康自身が起請文を出すことにインパクトがあったようだ。被官側が起請文を出している例は私も武田・後北条・今川で確認しているが、被官が主家より起請文を貰い、それが濃密に伝来されているのは初期の徳川氏でしか見られないのではないか。

勿論、史料の残存状況にもよる。特に元康は後々将軍になる人物だから、起請文の残存率が高かったというのも妥当な推量だろう。ところが、今川氏真の書状に「元康は起請文によって人心掌握していた」と氏真が理解し、真似ようとしていたと推測できるものがあった。

1例しかないので心細いところだが、ひとまずまとめ。

元康に逆心された氏真は永禄4年夏に、奥平定勝・定能父子に幾通もの文書を送っている。牛久保攻めで露見した元康逆心では西三河衆が離反し、東三河の牧野右馬允、奥三河の菅沼小法師が寝返っていた。氏真からすれば、奥平父子の動向は極めて大きな要因だった。

そういう状況にあった永禄4年6月17日、氏真は奥平定能に栗毛馬一疋を贈与する書状を出している。同日付で父の定勝にも書状を送っているが、こちらには馬の記載はない。当主である定能に氏真が配慮していることが判る。

そこまでは不審なところはないけれど、その翌日付でもう1通定能に書状を送っている。その前日に馬を贈っているにも関わらず、何ということはない、忠節を称える奇妙な文言なのだが、こちらでは文末に「浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候」が加えられている。とってつけたような感じで違和感を禁じえない。

奥平氏が今川方に留まった際には奥平一雲という人物が仲介しており、この一雲が氏真に元康の取り込み作戦の状況を報告し、「え、そうなの? じゃあ起請文ぽい文言を足してみるか」と、慌てて対応しようとしたのではないか、という見方もできる。

史料

  • 戦国遺文今川氏編1707「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

今度松平蔵人逆心之刻、以入道父子覚悟、無別条之段喜悦候、弥境内調略専要候、此旨親類被官人可申聞候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
六月十七日/氏真判/奥平道紋入道殿

  • 戦国遺文今川氏編1708「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    今度松平蔵人逆心之割、無別条属味方之段喜悦候、仍馬一疋栗毛差遣之候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十七日/氏真判/奥平監物丞殿

  • 戦国遺文今川氏編1710「今川氏真書状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

    就今度松平蔵人逆心、不準自余、無二属味方之間尤神妙也、猶於抽忠節者、 浅間大菩薩・八幡大菩薩不可有等閑候、猶随波斎・三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
    六月十八日/氏真判/奥平監物丞殿

2017/12/04(月)「心もとない」と「お心もとない」

現代でもある敬語の曖昧さ

現代語の文法だと、相手に己の不安と伝える際には「心もとなく思います」と書くと思う。心もとないのは自分の行為だから謙譲が適用されるという理解だ。

ところが「お気持ちをお察しします」という書き方もまた妥当であり、「お気持ちを察します」は奇妙な表現に見える。これは「察する」が自身の行為であるにも関わらず、謙譲は適用されず、丁寧が発動するからだと思われる。相手に寄り添った行為の場合、丁寧か謙譲かは揺らぐような印象があり、どちらかちうと丁寧が用いられる例が多いように感じる。

この源流であるかのように、現代語では整理されている「心もとない」が、戦国期には表記が揺れていたという現象がある。「こころもと」=「心元・心許」に「御」が付いたり付かなかったりで、定まらない。彼らは使い分けていたのだろうか。

この閾値を探るためにデータ化してみた。

  • 「御」あり 31
  • 「御」なし 52

うち、同一文書に複数回出現 6

  • なし・あり・あり 1
  • あり・なし 1
  • なし・なし 4

局面別(あり/なし・割合)

  • 軍事36(9/25・36%)
  • 健康14(5/11・45%)
  • 久闊15(5/10・50%)
  • 確認18(12/6・200%)

宛所と差出人との上下関係に起因するという仮説は「人々御中」で出した文書にも御なしが存在すること、同一文書内で御あり・なしが混在する例が2つあることから、採用は難しい。

辛うじて可能性がありそうなのは、「確認状況では『御あり』が頻出」という傾向ぐらい。

確認する場合はむしろ「心もとない」のは質問者側で、謙譲寄りではある。そこに丁寧を使うということは、情報を貰いたいという立場の弱さから丁重な表現を選んだという解釈は可能かも知れない。

ただやはり、閾値としては「明確なものはなく揺れていた」というところだろうか。

ちなみに、「こころやすく」=「心易・心安」も、同様に「御」がつく場合とつかない場合が混在している。「心もとない」が発話者の動作であるのに比べ、「心やすく」は受話者の行為を要請する文脈で用いられるから、謙譲の向きとしては逆になる。しかし同じように揺れている。142件(御あり87・御なし55)なのだが、御なしでも「被」が入って敬意を表している例も複数あり、もっとややこしいことになっている。

こういった事例も合わせて、何かしらの方向性が判ると解釈はやり易くなるのだけど……。

「心もとない」用例データ

ID 種別 局面 抜粋 月日/差出人/宛所 出典 比定年
01 NS 健康 疵未思様候哉、被印判候、無心元候 七月廿四日/顕定(花押)/長尾信濃守殿 神奈川県史資料編3下6406「上杉顕定書状」(宇津江氏所蔵文書) 1496(明応5)年
02 NS 久闊 罷立以来、仙波の御様体無心元 ■月廿四日/自枚軒祖■(花押影)/■丸丹後守殿 埼玉県史料叢書12_0028「自枚軒某書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
03 GS 健康 無御心元存計候、能々御養性■■然候 八月廿六日/増上寺天誉(花押影)/北坊、仙人へ御同宿中 埼玉県史料叢書12_0029「増上寺天誉書状写」(温故雑帖五) 1509(永正6)年
04 GS 状況確認 御上洛之路次如何、無御心元候 八月三日/藤原憲房拝呈/上乗院御同宿中 駿河台大学論叢第41号11「上乗院宛書状写」(古簡雑纂七) 1510(永正7)年
05 NS 軍事 右京大夫被失利之由候、京都之様体無心元候条 八月三日/義元(花押)/宛所欠 戦国遺文今川氏編0900「今川義元書状」(天理図書館所蔵大館記所収御内書案紙背文書) 1549(天文18)年
06 NS 軍事 従井口相揺之由候、因茲其元之備無心元候 八月十八日/晴信(花押)/秋山善右衛門尉殿・室住豊後守殿 戦国遺文武田氏編0642「武田晴信書状」(東京都・吉田家文書) 1555(天文24/弘治元)年
07 GS 久闊 節躰如何、無御心元候 九月十九日/氏康(花押)/佐竹殿 戦国遺文後北条氏編0642「北条氏康書状写」(千秋文庫所蔵佐竹文書) 1560(永禄3)年
08 GS 久闊 御一族中無何事候哉、無御心元候 極月十四日/日叙(花押)/宇野源十郎殿御宿所 戦国遺文後北条氏編4889「日叙書状」(小田原市外郎文書) 1561(永禄4)年
09 NS 健康 仍而近日者口熱以之外相煩、舌内不自由故被差越由、先以無心元候 壬極月十四日/輝虎/長尾但馬守殿 埼玉県史料叢書12_0267「上杉輝虎書状写」(森山文書) 1563(永禄6)年
10 NS 軍事 新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候 正月朔日/氏康(花押)/太田次郎左衛門尉殿・恒岡弾正忠殿 戦国遺文後北条氏編0835「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三) 1564(永禄7)年
11 GS 状況確認 参着候哉如何、無御心許候 正月七日/北条源三氏照(花押)/越苻江 戦国遺文後北条氏編1136「北条氏照書状」(上杉家文書) 1569(永禄12)年
12 NS 軍事 其地如何、無心元候 壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書) 1569(永禄12)年
13 GS 状況確認 仍越国之模様、定而可無御心元間、粗申入候 六月廿八日/源三氏照(花押)/右馬助殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1270「北条氏照書状写」(野田家文書) 1569(永禄12)年
14 NS 軍事 今度不慮之造説出来由候、余無心元間、令啓候 七月朔日/氏康(花押)/安保左衛門尉殿 戦国遺文後北条氏編1271「北条氏康書状」(埼玉県立文書館所蔵安保文書) 1569(永禄12)年
15 NS 状況確認 其以来之様子無心元存間、猿楽八右衛門年来心安召仕者候間、越進候 三月三日/氏康居判/直江太和守殿 戦国遺文後北条氏編4682「北条氏康書状写」(謙信公御書八) 1569(永禄12)年
16 GS 久闊 久不申上候之条、其地無御心元存候 卯月四日/基胤・種豊/朝備・同下・同金 戦国遺文今川氏編2331「大沢基胤・中安種豊連署状案」(大沢文書) 1569(永禄12)年
17 NS 久闊 遥々不申承候条、無御心元由候処 八月廿二日/直江大和守景綱(花押)/石川日向守殿御宿所 長岡市史資料編2_391「直江景綱書状」(布施秀治『上杉謙信伝』) 1569(永禄12)年
18 NS 軍事 筒之事ハ路次無心元候間不進之候 九月二日/明十兵光秀(花押)/和源殿 八木書房刊明智光秀013「明智光秀書状」(大津歴史博物館寄託・和田家文書) 1571(元亀2)年
19 NS 状況確認 夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候 十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八) 1572(元亀3)年
20 NS 軍事 然者敵動候由、無心元候 九月十七日/氏規(花押)/山本信濃入道殿 戦国遺文後北条氏編4023「北条氏規書状」(越前史料所収山本文書) 1572(元亀3)年
21 NS 軍事 敵之仕合、万々無心元迄候 極月三日/謙信御居判/松平左近允殿 上越市史別編1_1177「上杉謙信書状」(謙信公御書二所収) 1573(元亀4/天正元)年
22 NS 軍事 加様之処、無心元候間、内ゝ敵之是非承届上、雖可令出張 七月廿三日/氏政(花押)/蘆名殿 戦国遺文後北条氏編1660「北条氏政書状」(鈴木いよ氏所蔵文書) 1573(元亀4/天正元)年
23 NS 軍事 長篠之模様無心許之旨、節々被入芳札快然ニ候 九月八日/勝頼(花押)/真田源太左衛門尉殿 戦国遺文武田氏編2172「武田勝頼書状」(福井県・真田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
24 GS 軍事 其表無異儀候哉、無御心元候 十二月四日/明十兵光秀(花押)/和源進之候 八木書房刊明智光秀042「明智光秀書状」(大津市歴史博物館寄託・和田家文書) 1573(元亀4/天正元)年
25 NS 久闊 抑去比者古河之地無心許之段、節々言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏/新田治部大輔殿 埼玉県史料叢書12_0455「足利義氏書状写」(新田文庫文書) 1574(天正2)年
26 NS 久闊 去比者、古河之地無心元之段、節ゝ言上、御感悦候 閏霜月廿五日/義氏(花押)/由良刑部太輔殿 戦国遺文古河公方編0951「足利義氏書状」(東京大学文学部所蔵由良文書)ほぼ同文の写しが、新田治部大輔、南図書頭宛てで存在。 1574(天正2)年
27 GS 軍事 其口ゝ御弓箭達、如何無御心許存候 八月十二日/源三氏照(花押)/蘆名殿御宿所 戦国遺文後北条氏編1718「北条氏照書状」(名古屋大学文学部所蔵文書) 1574(天正2)年
28 GS 軍事 兼又敵陣へ被立置御人数、被相引之由、一段無御心元存候 閏■月十日/源三氏照(花押)/結城江御報 戦国遺文後北条氏編1746「北条氏照書状」(高橋義彦氏所蔵文書) 1574(天正2)年
29 GS 軍事 向白川御出馬之由、其聞候■無御心元旨、義重へ以使申届間、可然様御指南、可為本望候 二月十二日/氏政(花押)/佐竹中務太輔殿 小田原市史小田原北条1143「北条氏政書状写」(諸家文書) 1574~1576(天正2~4)年
30 NS 久闊 去頃氏政其口へ調義之由、無心元候処、別而無子細之段、其聞簡用至極候 極月廿六日/義重(花押影)/太田新六郎殿 埼玉県史料叢書12_0465「佐竹義重書状写」(神保家文書) 1575(天正3)年
31 GS 健康 疵如何候哉、無御心元候 八月廿一日/日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀060「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
32 G1 健康 仍疵御煩之由、従上京辺申越候、如何無御心許候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
33 N1 健康 いろゝゝと機遣なと候てハ、養性之儀無心元候 九月十六日/惟任日向守光秀(花押)/小畠左馬進殿御宿所 八木書房刊明智光秀061「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書) 1575(天正3)年
34 NS 久闊 去比者、道無相違帰国候つる哉、無心元候 三月廿五日/氏照(花押)/釣月斎 戦国遺文後北条氏編1977「北条氏照書状」(木村定三氏所蔵文書) 1578(天正6)年
35 GS 軍事 扨亦御進退之儀、無御心元迄候 霜月八日/源政景判/武参 埼玉県史料叢書12_0544「梶原政景書状写」(藩中古文書十二) 1579(天正7)年
36 GS 状況確認 御在庄之模様、依無御心許、為使僧申入候 潤三月廿日/正木左近将監時長(花押)/河津人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4488「正木時長書状」(正木文書) 1580(天正8)年
37 N2 軍事 定貴国被及聞召、無心許可思召候間、令啓候、 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
38 N2 軍事 殊甲州筋之様子無心元候 七月五日/義頼(花押)/松田尾張守殿 戦国遺文後北条氏編4489「里見義頼書状」(稲子正治氏所蔵文書) 1580(天正8)年
39 NS 軍事 陣中手成無心元由候而、預脚力候之、祝着之至候之 四月四日/義重(花押)/梶原源太殿 埼玉県史料叢書12_0588「佐竹義重書状」(古典籍展観大入札会目録平成十四年) 1581(天正9)年
40 NS 健康 殊ニ被為御手負之候由、一段無心元候 五月十五日/清上康英(花押)/山太御宿所 戦国遺文後北条氏編4144「清水康英書状」(越前史料所収山本文書) 1581(天正9)年
41 NS 軍事 不応於甲府被相押籠居之様、無心元候之刻、此国へ乱入 三月廿五日/御名御判/水谷伊勢守殿 記録御用所本古文書2128「徳川家康書状写」(水谷家文書) 1582(天正10)年
42 GS 状況確認 然則向御当地候、万々無御心元令存候 十月廿四日/氏政(花押影)/芳春院 埼玉県史料叢書12_0646「北条氏政書状写」(秋田藩家蔵文書三十八) 1582(天正10)年
43 NS 状況確認 御公事之儀如何候、無心許候 五月廿一日/正以(花押)/宛所欠(上書:内宮■波殿まいる御宿所 神戸慈円院正以) 証言本能寺の変第2章16「慈円院正以書状」(神宮文庫所蔵) 1582(天正10)年
44 NS 軍事 将又秩父谷之注進、無心元候 二月三日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2301「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
45 NS 軍事 信州表之儀如何、無心元候 二月九日/氏政(花押)/安房守殿 戦国遺文後北条氏編2304「北条氏政書状」(三上文書) 1582(天正10)年
46 NS 軍事 如何様之御番手候哉、模様無心元候、承度存候 五月廿三日/安氏邦(花押)/大駿御返事 戦国遺文後北条氏編2342「北条氏邦書状」(小田原城天守閣所蔵安居文書) 1582(天正10)年
47 GS 状況確認 余無御心元候故、自是申達候キ 八月廿五日/氏政(花押)/寒松斎 戦国遺文後北条氏編2403「北条氏政書状写」(相州文書所収淘綾郡荘左衛門所蔵文書) 1582(天正10)年
48 GS 軍事 御陣中無御心元候間、自小田原以使可申候 霜月十二日/松田尾張入道憲秀(花押)/上野筑後守殿御陣所 戦国遺文後北条氏編2446「松田憲秀書状」(高橋義隆氏所蔵文書) 1582(天正10)年
49 GS 健康 近日御煩御平臥之御様候歟、一段無御心元存候 四月九日/各ゝ/奥州御報人ゝ御中 戦国遺文後北条氏編4510「足利家奉行人連署書状案」(喜連川家文書案二) 1583(天正11)年
50 N3 久闊 其以後者遙々絶音問候、内々無心元候刻 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
51 N3 健康 御人衆手負鑓疵切疵数多負候由、一段無心元候 七月十三日/氏照(花押)/阿久沢彦次郎殿 埼玉県史料叢書12_0721「北条氏照書状」(阿久沢文書) 1584(天正12)年
52 NS 軍事 御備之様子朝暮無心元存許候 七月廿六日/北美氏規(花押)/酒左御陣所 戦国遺文後北条氏編2691「北条氏規書状」(本光寺所蔵田島文書) 1584(天正12)年
53 GS 状況確認 為如何今度者無御出陣候哉、無御心元候 十二月十日/氏直(花押)/小幡兵衛尉殿 小田原市史小田原北条1716「北条氏直書状」(千葉県千葉市立郷土博物館小幡文書) 1585(天正13)年
54 NS 軍事 万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者 九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿 戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書) 1585(天正13)年
55 NS 状況確認 何も及御報候間、参着如何無心元存候 六月朔日/氏照書判/片倉小十郎殿 戦国遺文後北条氏編3332「北条氏照書状写」(片倉代々記二) 1586(天正14)年
56 NS 軍事 重而早ゝ可申越候、一段無心元候 卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書) 1587~1590(天正15~18)年
57 NS 状況確認 去秋不入斎為指上候以来様子、無心元候条 極月十四日/政宗(花押)/羽柴筑前守殿 神奈川県史資料編3下9419「伊達政宗書状」(島田耕作氏所蔵文書) 1588(天正16)年
58 GS 状況確認 貴辺副状無之候、一段御心元候処 卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書) 1588(天正16)年
59 NS 久闊 其以来一切無音之間、無心元候処 卯月十六日/氏政(花押)/宛所欠 戦国遺文後北条氏編3306「北条氏政書状」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎氏蒐集文書) 1588(天正16)年
60 NS 状況確認 次片倉小十郎方他行故此度不預書状候、無心元候 七月廿九日/氏照(花押)/原田左馬助殿参 戦国遺文後北条氏編3478「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
61 GS 久闊 又不蒙仰候、内ゝ無御心元候刻、態氏直所へ預御状候 十二月廿七日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参 戦国遺文後北条氏編3591「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵伊達文書) 1589(天正17)年
62 NS 軍事 小屋共作籠かや家之事候間、火之廻無心元候 五月廿一日/松佐渡守康成(花押影)/山信濃守殿参御宿所 埼玉県史料叢書12_0921「松浦康成書状写」(越前史料所収山本文書) 1590(天正18)年
63 GS 久闊 実城御帰之以後者、是非御左右不承届候、無御心元存候 正月廿五日/平七助利(花押)/下野守殿御宿所 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p27「簗田助利書状写」(下総旧事三) 1590(天正18)年
64 NS 軍事 那波衆之内無心元■■■之由 ■月廿三日/氏政(花押)/■津木下総守殿 小田原市史小田原北条2068「北条氏政判物」(大坂城天守閣所蔵宇津木文書) 1590(天正18)年
65 GS 軍事 御物主者御幼少ニ候へ者、奥方御苦労中ゝ無御心元候之処 三月朔日/覚全(花押)/彦部豊前守殿御報 戦国遺文後北条氏編3665「千葉覚全書状」(肥田文書) 1590(天正18)年
66 N4 健康 其方手きすハ如何候哉、無心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
67 G4 状況確認 長尾方申越候間、奉待候処、于今御延引無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
68 G4 状況確認 進愚書候処、不参着候由大蔵寺被申候、無御心元候 二月廿三日/美濃守顕資(花押)/謹上印東殿御宿所 埼玉県史料叢書12_付037「太田ヵ顕資書状」(松野文書) 年欠
69 NS 健康 相煩之由、無心元候 七月五日/氏照「花押」/間宮若狭守殿 埼玉県史料叢書12_付138「北条氏照書状写」(勝沼斎藤家文書) 年欠
70 NS 久闊 近年相違無心元候 七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守) 埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)戦国遺文後北条氏編4200に別翻刻あり 年欠
71 NS 軍事 火手見候上無心元候間 三月晦日/顕定(花押)/三田弾正忠殿 駿河大学論叢40号24「三田弾正忠宛書状」(谷合島太郎氏所蔵文書) 年欠
72 NS 健康 近日胤富煩之由、一段無心元候 三月七日/義氏(花押)/千葉新介殿 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p52「足利義氏書状」(千葉市立郷土博物館寄託田丸哲也氏所蔵文書) 年欠
73 NS 軍事 其地之様躰、如何無心元候 六月廿日/氏照(花押)/横地監物殿 戦国遺文後北条氏編3906「北条氏照書状写」(佐野家蔵文書) 年欠
74 GS 軍事 爰元御動御模様、余無御心元存候間、昨日着陳申候 九月一日/黒沢上野守繁信(花押)/鑁阿寺御衆中貴報 戦国遺文後北条氏編4118「黒沢繁信書状」(鑁阿寺文書) 年欠
75 GS 健康 御帰路之刻より少御煩之由一段無御心元存候 十一月八日/大新直昌(花押)/太民御報 戦国遺文後北条氏編4158「大道寺直昌書状写」(新編会津風土記六) 年欠
76 N5 軍事 自何機嫌如何、無心元候、御出馬廿日之由聞候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
77 N5 軍事 真候哉、無心元候 廿三日/国繁(花押)/宛所欠(上書:大沢下総守殿・同彦次郎殿 従桐生) 戦国遺文後北条氏編4239「由良国繁書状」(大沢武一氏所蔵文書) 年欠
78 GS 状況確認 とかくそこもと御心もとなく候まゝ、申とゝけまいらせ候 六月廿九日さるのこく/たね富(花押)/ひら川こうしつへ 戦国遺文後北条氏編4982「千葉胤富書状写」(豊前氏古文書抄) 年欠
79 N6 久闊 如何様之模様候哉、一段無心元候 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
80 N6 軍事 二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処、無恙帰府 六月十三日/信玄御書印/岡部五郎兵衛尉殿 戦国遺文今川氏編1547「武田信玄書状写」(静岡県岡部町・岡部家文書) 年欠
81 GS 軍事 然者薩多陣之様躰、近日之儀如何無御心元計候 二月廿九日/胤富(花押)/豊前山城守殿 戦国遺文今川氏編2735「千葉胤富書状」(松戸市立博物館所蔵間宮家文書) 年欠
82 NS 健康 煩由無心元候 六月廿九日/光秀(花押)/宛所欠(表書:三■■■殿 光秀) 八木書房刊明智光秀148「明智光秀書状」(尊経閣文庫所蔵) 年欠
83 GS 状況確認 猶無御心元候間、先以飛脚申候 十月十九日/宗瑞(花押)/謹上小笠原左衛門佐殿御宿所 戦国遺文今川氏編0186「伊勢盛時書状」(早雲寺文書) 1506(永正3)年

2017/12/02(土)逼塞の用例(毛利元就)

元就が用いた「ひつそく」

『日本国語大辞典』に用例として毛利元就の用いた「逼塞」がある。但し、同辞書の初版では「謹慎すること」、第2版では「内心推量すること」と変わっている。

これには充分な解釈論拠があるのだろうか。実は、小和田哲男氏の著作では「逼塞」を「内に秘める」と解釈している。

恐らく小和田氏は「逼塞」という語の近世的意味から「秘める」というニュアンスを籠めたのかも知れない。

『戦国武将の手紙を読む』(小和田哲男・中公新書)

翻刻

一此間も如申候元春隆景ちかひの事候
共隆元ひとへニゝ以親気毎度
かんにんあるへく候ゝ又隆元
ちかひの事候共両人之御事者御した
かい候ハて不可叶順儀候ゝ
両人之事ハ爰元ニ御入候者まことに
福原桂なとうへしたニて何と成とも
隆元下知ニ御したかひ候ハて叶間しく
 候
間唯今如此候とてもたゝゝ内心ニハ
此御ひつそくたるへく候ゝ

現代語解釈

一 この間も申しあげましたが、元春・隆景が隆元と意見が違うことがあった場合、隆元が堪忍することも大事ですが、元春・隆景も兄の意見に従うようにして下さい。両人が従えば、福原や桂といった重臣たちまで隆元の下知に従うことになるでしょう。意見が違うことがあっても、できるだけ表には出さず、内に秘めるようにして下さい。

後北条氏の例との比較

この元就の例は、私が調べた東国の用例とは別個の語義として存在するのだろうか。試みに当てはめてみようと思う。

前の投稿で挙げた「逼塞」の語義案のうち、1の「心が近く通い合っている状況」が元就のものと合致するように思う。

この元就書状の他の文言を見ても、元就が息子たちに伝えたかったのは兄弟が結束することの重要性なのは明らかである。弟2人が兄に従えば被官たちに示しもつくぞと利点を挙げている。ここに繋げる言葉として、2つを比べてみる。

  • 小和田氏案:内心対立があっても隠せ
  • 日国案:内心推量せよ
  • 高村案:内心では心を一つにせよ

ここで解釈を、なるべくニュートラルでやり直してみる。

一、この間も申したように、元春・隆景が違う意見を持っていても、隆元はひたすら親心で毎度許すように。また、隆元が違う意見が持っていても、両人がお言葉にお従いしなくては、順の儀は適いません。両人が、こちらに入っていれば、本当に福原・桂などが上下関係でどうなったとしても、隆元下知にお従いしなければ適わなくなるのですから、現在こうなっているのだとしても、ただただ、内心はこの『ご逼塞』でありますように。

「ただただ」という表現からは、やはり「心を近しく一つにする」が最も妥当だと考えられる。推量や隠蔽をわざわざ指示する意図が把握できない。

この文書の他の条項を見ても三人の「心持ち」が重要だと何度も念を押している。また、「三人之半少ニてもかけこへたても候ハゝ、たゝゝ三人御滅亡と可被思召候ゝ」→「3人の仲が少しでも懸子・隔意となったなら、ただただ3人はご滅亡すると思っておいて下さい」とも書いている。

ここから見ても、やはり逼塞は心を一つにする用法でよいのではないかと思う。