2023/03/26(日)辞書との付き合い

独学での辞書利用

私が文書の解釈を独学で始めた際に使ったのが『古文書古記録語辞典』(阿部猛)だった。その後で『音訓引き古文書字典』(林英夫)を入手して、併用している。かなり幅広い言葉が収録されているため、随分と勉強になったのだが、この辞典は私が調べている戦国期に限定したものではない。だから頻出する語でも掲載されていないことが多かった。専門書を読んでも、古文書の細かい部分までは解説されておらず、通説がどのような根拠で形作られているかが把握できなかった。

ここから発想を変えて、コーパスを自力で作るしかないという結論に至った。他の文書を多数データ化して用例を一から調べて確定していく方法だ。参考になったのは三省堂の『例解古語辞典』。この冒頭に掲げられた「古典へのいざない ―豊かな鑑賞は正確な解釈から―」に大いに啓発された。この文章は具体的な解釈事例を挙げた長文なのだが、ごく一部を抜粋してみる。

辞書というものは全国的に信用されいますが、実のところ、それは専門家に対する買いかぶりなのです。国語辞典の場合でも、適切ではない説明や、ときには、明らかな誤りがありますが、古語辞典となると、説明の基礎となる、古文の解釈が十分にできていないために、残念ながらそれがかなり極端なのです。

古典を読んでいて、その文章の中に、見馴れないことばやわからないことばが出てきたとき、この辞書を引くことになります。しかし、その場合、最初の部分に並べられているいくつかの語義の中から、いちばんよくあてはまりそうなものを選んで、それでわかったことにしてしまったのでは、いけません。たしかに、そういうやり方でもひととおりの口語訳ぐらいは、なんとかできるでしょうが、文章の内容まではとうてい理解できません。

その語源がどこにあるかではなくて、実際の場面で、どのように使われているかを調べるのがほんとうだということなのです。その考え方の原則は、いつの時期のことばについても変わるはずがありません。《例解》方式は、演繹によらず、あくまでも帰納に徹して解釈を施し、推定された語源からその語の意味を考えたりすることをしりぞけています。

これを読んでなるほどと納得した。語源と語義の乖離は現代語を見ても明らかで、その時代、その土地の人がその言葉をどういう意味で使っているかはデータの蓄積でしか明らかにできない筈だ。これ故に、辞書で書かれた語義を参照にしつつも鵜呑みにせず、あくまでも他例を優先して解釈していく方針が決まった。

以上のことから導き出された参考例は戦国期の古文書を解釈する基本的なことにまとめた。

専門家解釈への疑問を越えて

とはいえここに至るまでは紆余曲折があり、自らの不見識によって誤読しているのではないか、という疑問を感じている期間は長く、2016年にはかなり煮詰まっていたことがある。

今考えれば「真手=両手の指=十指」という語義があるのだから「真手者=真田の手の者」という解釈が突飛なものだと断言できるのだが、当時はどうにも自信がなかった。しかし、他でも専門書・辞書でおかしな解釈は多々あって、間違っているものは間違っているという境地に至った。

「併」は順接か逆説か

たとえば「併」。私は最終的に「あわせて」と読み、意味も現代語と同じく「同時に・加えて」で全く問題なく解釈しているのだが、解釈を始めた頃は辞書に振り回され、順接・逆説どちらにもなると考えて混乱していた。

実際に辞書を引いてみると、この辺の言葉の説明は入り乱れている。

『音訓引き古文書字典』

  • 併:しかし。然とも書く。そうではあるが。けれども。
  • 雖然:しかりといえども。そうではあるが。そうはいっても。しかし。

『古文書古記録語辞典』

  • 併:しかしながら。併乍、然乍とも書く。ことごとく、全部、さながら、結局、要するに。「だが、しかし」という意味ではない。
  • 然而:しかれども。されど、しかしながら。

そもそも現代語の「しかし」が逆説になっているのが奇妙で、「然り」「然して」は順接で「然れ共・然し乍ら」と書いたら逆説になるのが本来の姿。この語義を無視して「しかしながら」の後半を省略してしまったのが現代語「しかし」だろう。

また、当時の「而」の用法を見ると「~して」「~て」とする表音文字としての例が殆どとなる。「重而=かさねて」「付而=つきて・ついて」「船ニ而=ふねにて」「切而=きりて」「残而=のこりて」「随而=したがいて」「定而=さだめて」など枚挙にいとまがない。

以上から考えると「然而」は「しかりて」と読むのが正しいだろう。

「手前」は第一人称になるか

また、近世以降では第一人称としても使われる「手前」を援用して北条氏直の弁明状を誤解釈している例がある。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

名胡桃のことは一切知りません。城主とされる中山の書付を提出します。すでに真田の手元へ渡しているものですから、取り合うものではありませんが、越後衆が途中まで出撃し、信濃国川中島と知行替とのことだったので、ご糺明の上で沼田よりそれ以後で加勢したとの報告を受けています。

  • 小田原市史資料編小田原北条1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

これを「すでに真田が手前(氏直)へ渡しているものですから」と解釈した著作を見かけたことがある。これを解釈に組み込むと、真田氏自らが名胡桃城を氏直に渡した主張になる。

ところが、当時の「手前」は「(対象人物の)手元」という意味でしかない。つまり、真田氏へ譲渡したことは認めつつも、名胡桃城主からの要請で沼田城から軍事支援して制圧したことを堂々と書いていることになる。

このように、他例を蓄積する例解方式でその時代・地域の語彙を集積して解釈することは重要だろうと思う。この方式で語義を探ったのが以下の記事。

補足『戦国古文書用語辞典』

この書籍はかなり精度が低い。同時代史料からの語彙と、後世の軍記物が混交しているほか、どこからその意味が出てきたのか疑問に思うような語義が見受けられる。読んで得られるものがないので精読はしていないが、目につく事例を紹介してみる。

塩味

えんみ【塩味】1潮時。機会を見失ってはいけない。「不可過御塩味候」 2相談のこと。斟酌する。 3手加減。斟酌する。
しおみ【塩味】潮時。「不可過御塩味」は、機会を見失ってはならないという意。

2つの項目が連携していない上、潮時・斟酌に拘泥して意味が引きづられている。私のコーパスからの推測では「熟慮」の意味。

長々

おさおさし【長々し】それから受ける感じが、侮りがたく、無視できないさまである。

「長々」は非常に例が多いが「ながながと」という意味で問題ない。「おさおさし=長々敷」とすると、1581(天正9)年1月25日の織田信長朱印状しかないが、これも「信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候」とあり、「長々しく交戦していることは、見栄えが悪く悔しい」という意味合い。「長々敷」は現代語の「長々と」と同じで構わないように思う。

戸張・外張

とばり【戸張】戸の張り物。とばり【外張】軍隊の周囲から遠いところ。

外張11例は全て城郭の防御線を指す。戸張は25例あり、名字が8例あるものの、他は全て城郭防御線。

若子

わこ【若子】身分の高い人の男の子ども。

意味自体は問題ないだろうと思うが、引用している例がおかしい。

「若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候」(北条家朱印状)

ここで例に出された虎朱印状は1551(天文20)年に西浦百姓中に出されたものだが「若子共を他人之被官ニ出候に付而者」は、前後の文脈から「もし子供を他人の被官に出し候につきては」と読むのが正しいと思う。

若子は高貴な男児であるとするなら、西浦百姓らの子はそもそも該当しない。念のため原文全てを記す。

  • 小田原市史資料編小田原北条0273「北条家虎朱印状」(伊豆木負大川文書)

    西浦五ヶ村あんと拘候百姓等子共、并自前ゝ舟方共、地頭・代官ニ為不断、他所之被官ニ成候事、令停止候、若子共を他人之被官ニ出候に付而者、地頭・代官へ申断、徹所を取而可罷越候、致我侭候者共召返、如前ゝ五ヶ村へ可返付者也、仍如件、
    辛亥六月十日/日付に(虎朱印)/西浦百姓中・代官

2023/03/23(木)公開したデータ一覧

今までに公開してきたデータのリンク。データに誤りがあった際はコメントを送って下さい。

古文書・古記録のデータ

コーパス

これまでに入力した11,437件の史料(古文書・古記録)をリスト化したもの。月日についてはソート順を保つため「★01_閏月01日」という記載にしている。

言継卿記に関するデータ

言継卿記(今川分国部分)人名データリスト

山科言継が駿府に滞在した記録に出てきた人名の中で、本人特定が可能な者をデータ化。

言継卿記(今川分国部分)フルテキストドキュメント

山科言継が今川氏分国に滞在した1556(弘治2)年9月18日~1557(弘治3)年3月16日をテキストデータ化したもの。

後北条氏関係者人名

後北条氏関連人物過去帳 人名データリスト

高野山高室院の過去帳データをまとめたもの。高野山高室院月牌帳(寒川町史)と、北条家過去帳(平塚市史)のそれぞれでデータを分けている。

後北条氏家臣団辞典索引 人名データリスト

『後北条氏家臣団辞典』の索引にある人名を列挙したもの。仮名・官途で検索できる。

後北条氏所領役帳

所領役帳 フルテキストドキュメント

後北条氏が1559(永禄2)年に作成した被官の知行高を列記したもの。直轄領は含まれていない。

所領役帳 データリスト

所領役帳に載っている数値部分を集約し、被官人ごと、衆ごとにまとめたもの。動員兵数の推測つき。

所領役帳の給地一覧 マップ

GoogleMapを使用して、各衆別に所属被官の給地をポイント。

その他

史料辞書

古文書を入力する際に使っていたユーザー辞書。元号と西暦の変換、略称によるショートカットなどがある。

織田信長の贈り物

織田信長の返礼状から、もらった物を列挙してみた。結構細かい物資もある。

rek_wp_version

2007年8月~2017年3月までの古文書データ、解釈記録を記したもの。

Twitterアカウント

思いつきをそのまま呟いたもの。あまりまとまっていないので要注意。

パラ∥フレーズ~史料探偵の異解釈 知識ゼロの高校生が『歴史』を変えるまで~

いわゆる桶狭間の合戦や、北条氏政妻の行方などをあれこれ推理していく小説。引用した史料は全文と解釈をつけている。

2023/01/24(火)上杉南下に対しての、今川・武田の後北条支援

後北条・今川の反応と経緯

永禄3年9月23日に義氏が沼田口に越後方が来ると報じたのが最初で、この時氏康は上野国での迎撃を企図していた。その後12月2日に河越籠城の準備に入ったが、切迫感はまだない。一方の西三河では、12月24日に武節城が攻められており、挙母から北方へ戦線が移っている。ただ、その後合戦に関する氏真文書は発せられておらず、戦線は膠着したか。氏政が後に小倉内蔵助へ「旧冬以来至当夏河越籠城」と書いているのと合わせて考えると、この頃に今川方援軍が河越に入ったのだろう。

事態が大きく動いたのは翌年2月25日、浦賀に移る予定だった吉良氏朝を玉縄に入れるよう指示。ここから緊急モード移行。

武田からの援軍

武田晴信の3月10日書状が興味深い。加藤丹後守が由井へ進駐しようとしたところ謝絶の返答があったらしく混乱。小田原には既に跡部二郎衛門尉が入ったので上口から進軍しようとしたが、葛山の返答が曖昧だったため、下口からの進入を図って御厨周辺の調整をしている。上口は箱根口、下口は河村口を指すようだ。

  • 戦国遺文今川氏編1656「武田晴信書状」(2012年国際稀覯本フェア日本の古書・世界の古書)1561(永禄4)年比定

加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原へ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如申候、被聞届注進待入候、恐々謹言、
三月十日/信玄(花押)/宛所欠

この段階で今川方の葛山氏元は小田原支援に消極的だった。3月24日の宗哲書状で氏真自身が出馬するだろうとあるが、氏真の文書を見てもその動きはなく、義元敗死に伴って急遽もたらされた当主継承を受けて、分国統治に向けての経営に専念している。

氏真の対応をまとめると、西三河が一息ついた12月下旬に旗本衆の何人かを小田原に派遣、但しその後は積極的に動かずという動向だと思われる。

1560(永禄3)年

  • 9月23日「就越国之凶徒沼田口令越山」義氏
  • 9月28日「上州沼田谷越衆出張、依之至于河越出馬候」氏康
  • 12月2日「就此度河越籠城赦免条ゝ」氏康・氏政
  • 12月27日「不断勤行、本意祈念可有之者也」氏康
  • 12月28日「今月廿四日武節本城へ敵取懸之処」氏真

1561(永禄4)年

  • 2月10日「今度当城楯籠可走廻候由候」氏政
  • 2月25日「今朝直ニ申付候蒔田殿浦賀御移之事」氏康
  • 3月10日「加藤丹後守由井へ相移候之処」晴信
  • 3月24日「今川殿近日可有出馬候」宗哲
  • 4月8日「為駿府御加勢、旧冬以来至当夏河越籠城」氏康・氏政