2023/01/24(火)上杉南下に対しての、今川・武田の後北条支援

後北条・今川の反応と経緯

永禄3年9月23日に義氏が沼田口に越後方が来ると報じたのが最初で、この時氏康は上野国での迎撃を企図していた。その後12月2日に河越籠城の準備に入ったが、切迫感はまだない。一方の西三河では、12月24日に武節城が攻められており、挙母から北方へ戦線が移っている。ただ、その後合戦に関する氏真文書は発せられておらず、戦線は膠着したか。氏政が後に小倉内蔵助へ「旧冬以来至当夏河越籠城」と書いているのと合わせて考えると、この頃に今川方援軍が河越に入ったのだろう。

事態が大きく動いたのは翌年2月25日、浦賀に移る予定だった吉良氏朝を玉縄に入れるよう指示。ここから緊急モード移行。

武田からの援軍

武田晴信の3月10日書状が興味深い。加藤丹後守が由井へ進駐しようとしたところ謝絶の返答があったらしく混乱。小田原には既に跡部二郎衛門尉が入ったので上口から進軍しようとしたが、葛山の返答が曖昧だったため、下口からの進入を図って御厨周辺の調整をしている。上口は箱根口、下口は河村口を指すようだ。

  • 戦国遺文今川氏編1656「武田晴信書状」(2012年国際稀覯本フェア日本の古書・世界の古書)1561(永禄4)年比定

加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原へ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如申候、被聞届注進待入候、恐々謹言、
三月十日/信玄(花押)/宛所欠

この段階で今川方の葛山氏元は小田原支援に消極的だった。3月24日の宗哲書状で氏真自身が出馬するだろうとあるが、氏真の文書を見てもその動きはなく、義元敗死に伴って急遽もたらされた当主継承を受けて、分国統治に向けての経営に専念している。

氏真の対応をまとめると、西三河が一息ついた12月下旬に旗本衆の何人かを小田原に派遣、但しその後は積極的に動かずという動向だと思われる。

1560(永禄3)年

  • 9月23日「就越国之凶徒沼田口令越山」義氏
  • 9月28日「上州沼田谷越衆出張、依之至于河越出馬候」氏康
  • 12月2日「就此度河越籠城赦免条ゝ」氏康・氏政
  • 12月27日「不断勤行、本意祈念可有之者也」氏康
  • 12月28日「今月廿四日武節本城へ敵取懸之処」氏真

1561(永禄4)年

  • 2月10日「今度当城楯籠可走廻候由候」氏政
  • 2月25日「今朝直ニ申付候蒔田殿浦賀御移之事」氏康
  • 3月10日「加藤丹後守由井へ相移候之処」晴信
  • 3月24日「今川殿近日可有出馬候」宗哲
  • 4月8日「為駿府御加勢、旧冬以来至当夏河越籠城」氏康・氏政

2023/01/18(水)永禄初期の鉄炮配備数

永禄4年の小田原城に鉄炮はいくつあったか?

永禄4年3月24日、北条宗哲が小田原籠城の戦況として「鉄炮五百丁籠候間、堀端へも不可寄付候」(戦北687)と書いている。上杉方を撃退しながら小田原へ接近している大藤政信への連絡なので誇張はしていないように見えるものの、実際の手配ではない。本当に500もの鉄炮が小田原城にあったのだろうか。

永禄4年の牛久保城

その少しあとの永禄4年7月20日、今川氏真は岩瀬雅楽介へ戦功を賞す朱印状を発し、その中で雅楽介が塩硝・鉛100斤を牛久保城に搬入したことを記している(戦今1726)。

岩瀬雅楽介以外に鉄炮・弾薬を搬入した者がいた可能性は皆無ではないが、城米置き換え作業と合わせた報告を朝比奈摂津守が氏真にまとめて報告していることを考えると、これが牛久保城全量と見てよいと思う。

この記載によると塩硝と鉛が合計100斤だろう。他例を見ても玉薬と鉛は同数で送っているから、それぞれ50斤ずつになる。ここから鉄炮配備数を割り出せるかを試してみる。

天正11年の吉村又吉郎への支援

天正11年4月18日、織田信雄は吉村又吉郎へ鉄炮の薬20斤と弾丸1000を送っている(愛知県史12_110)。玉薬と鉛は基本的に同数だから、玉薬20斤は1000回の射撃分と見てよいだろう。

とすると、玉薬と鉛はそれぞれ1斤で50回射撃分となる。

つまり、牛久保城へ搬入された50斤の塩硝と鉛は2500回分の弾薬となる。

天正16年の権現山城

ここから鉄炮の数を割り出すため、後北条氏の権現山城配備数を参照する(戦北3380)。城内の小鉄炮は50で玉薬が1200、弾丸が2250(これ以外にも鉛・塩硝を未生成で保持)。

  • 鉄炮1に対して玉薬24、弾丸45。

このほかに、増援で到着したらしい新左衛門尉が持ち込んだ鉄炮が25、玉薬1500(+塩硝1箱)に弾丸3200。

  • 鉄炮1に対して玉薬60、弾丸128。

玉薬が時間で劣化するから作り置きを避けた可能性が高そうなこと、最前線の権現山が既に戦闘を行なって兵器・弾薬を消費していた可能性があることを考えると、援軍として持ち込まれた新左衛門尉の鉄炮1:弾薬128が標準的な割合として妥当だろう。

とすれば牛久保城へ配備想定された鉄炮は、2500÷128で約20の鉄炮だと仮定できる。

権現山城で増援に入った新左衛門尉が一人で鉄炮25を持ち込んだことを考えると、かなりの乖離がある。

岩付城の例

もう一つ城の鉄炮配備数を見てみよう。

天正5年に定められた「諸奉行定書」(戦北1923)によると、岩付に配備された兵員1580のうち、鉄炮数は50で約3%。

  • 小旗:120
  • 鑓:600
  • 鉄炮:50
  • 弓:40
  • 歩者:250
  • 馬上:500
  • 歩走:20

まとめ

情報を取りまとめてみると以下になる。

  • 1561(永禄4)年:牛久保城:20
  • 1577(天正5)年:岩付城:50
  • 1588(天正16)年:権現山城:75

ごく限られたデータだが、時代を追うごとに鉄炮配備数は上がっている。ここから考えると永禄4年当時の小田原城で500配備されていたのは信憑性がなく、せいぜいが50程度だろうと思われる。

2023/01/14(土)「宗瑞敗北」とある足利政氏書状の解釈

足利政氏書状の解釈は結構難解なので、現状での解釈覚書。

文書の基本データとその解釈

原文

  • 戦国遺文古河公方編0349「足利政氏書状」(簗田家文書)1494(明応3)年比定

    去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、顕定申旨候、因茲延引、然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、被進勝計候事も非関覚悟計候、委旨五郎可申遣候、謹言、
    十一月十七日/(足利政氏花押)/簗田河内守殿

読み下し

去る十三日、政能方へ折紙到来の間、翌日必ず旗を進めるべきのところ、顕定申す旨に候、ここにより延引、しかして十四日未刻、伊勢新九郎退散の由、その聞こえ達続、御本意に属するべきの時節、純熟候か、目出たく候、宗瑞敗北、ひとえにそのほう岩付へ合力急速ゆえ候、戦功に感悦候、よって凶徒高坂張陣の時、差し懸けられずの段、書中顕に候あいだ、まずもって理り候、しかりといえども顕定調儀を庶幾わず更に成しがたく候、ここもと推察せしむるべく候、惣別悠のさま候、吉事の上において、無曲の子細出来すること、これあるべく候や。勝計を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するにあらずして候。委しき旨は五郎を申し遣わすべく候、謹言、十

解釈

去る13日、本間政能へ送った書状が来ましたので、翌日必ず進軍しようとしたところ、上杉顕定が意見を言ったので延期となりました。そして14日未刻に、伊勢新九郎が退却したという報告が相次ぎました。本望を達成する機運が熟してきたのでしょうか。おめでたいことです。宗瑞の敗北は、ひとえにあなたが岩付へ援軍を急いでくれたからです。戦功に感悦しました。さて、凶徒が高坂に陣を張った時に攻撃しませんでした。書中に書きましたからまずは説明します。とはいえ、顕定が作戦を希望しないのですから更に難しいのです。こちらの事情をお察し下さい。総じてゆったりしています。吉事の上ではつまらない事情が出てくるのでしょうか。勝計を進められるのは覚悟だけあればいいというのではありません。詳しくは五郎に申し使わせましょう。

文章ごとの逐次解釈説明

文章を意味の区切りに応じて小分けし、解釈の根拠を書き出してみる。

去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、

この書状は11月17日なので、その4日前に簗田河内守(成助ヵ)から本間政能へ折紙が来たことが契機となり、その翌日に旗を進めようと政氏は考えていた。恐らく河内守からの情報が政氏本陣を即座に動かす内容だったことを示しており、この後の政氏の言い分を見ていると、この書状で河内守は政氏出撃を強く要請したものと推測される。

顕定申旨候、因茲延引、

ところが、上杉顕定が意見した内容によって延期になってしまう。

然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、

そうして14日の未刻(14~16時頃)になると、伊勢新九郎が退却したという報告が連続してあった。つまり、敵兵力を撃滅できる好機を逸し、挟撃もしくは追撃をしなかったことが判る。

可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、

「本意」は望みを叶えること、「純熟」は機が熟したことを示すので、政氏・顕定としては目的を達成が間近だという書き方になっている。そしてそれを「目出たい」と書き記し、現状に不満がないことを表現している。

宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、

ここで、なぜ河内守の報告が政氏出撃の契機になりえたかの説明が入る。河内守が岩付への援軍をすぐに出したから伊勢宗瑞が敗北したのだとして、その戦功を褒め称えている。

仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、

ここからがこの書状の本題になる。「凶徒」は伊勢宗瑞自身とも、その同盟勢力である上杉朝良とも取れる。地理的に考えるなら、宗瑞が岩付、朝良が松山へ同時攻勢に出たところ、簗田河内守がいち早く岩付へ支援に入ったため宗瑞が敗走した。それをすぐに政氏に伝えたものの、高坂にいる朝良に対して同時反撃を行なわなったという状況になるだろう。

「差懸」は「指懸」と同じで「攻撃」を示し、「書中」はこの書状自体を表す。また「理」は上意下達の意図を含む説明行為を示す。文頭にあった攻撃の「延引」の具体的な内容を述べて「これは先に書いているから説明する」と付け加えているのは、自らの不手際を渋々認めているように見える。

必死に戦って情報提供を迅速に行った河内守に対して、政氏・顕定は何もしておらず、その体裁を取り繕いたいのがこの書状の主目的になっていることが判る。

雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、

この「調儀」は調略ではなく実戦行為を指すだろう。ここで政氏は顕定に責任をかぶせようとしている。自分は攻撃したかったが顕定が乗り気でなかったのだ。そちらは遠方で判らないかもしれないが、察してほしいと。

惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、

ここからは政氏・顕定陣営のゆるい雰囲気を説明していて、そこに続けて、吉事の最中でも何か不都合が起きるものではないかと、言外にもっと慎重に備えるべきだと訴える。なかば居直りの気配が感じられる。

被進勝計候事も非関覚悟計候、

「勝計」はこの他に7例を見つけたが、どれも感状などで功績を賞する際に「不可勝計=これ以上ない」という意味で使っており、全て「不可」が頭につく。従って「勝計」が別の意味で用いられているか、翻刻が間違っているかだろう。

Twitterで指摘されている「勝陣」と読むのは、「進」と「陣」の組み合わせが多数あるため納得がいく。「勝計」を「勝利の計策」とすると「計策・計略・籌策」は「廻」か「乗」ものであって「進」とは合わせない。

しかし一方で「勝陣」という表現は他例がない。

原文を見ていないので推測でしかないが、「計」と「陣」が取り違えられるほどに崩れた文字ならば「勝」ではなく「御」だったという可能性もあるのではないか。「御陣を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するに非ず=公方・管領の部隊を進めるのは、腹をくくった覚悟があればいいというわけでもないのだ」と考える方が文意がすっきりする。

「伊勢新九郎」と「宗瑞」の実体

この文書では「伊勢新九郎」と「宗瑞」が出てくることから、両者が別人で伊勢新九郎が氏綱だという仮説もある。しかし、この時氏綱は数えで8歳なので、参戦どころか元服すらしていない。物理的に考えてどちらも伊勢盛時と考えてよいだろう。同一人物を文書内で別表記するのはありえない話ではないし、当時は突如登場した「伊勢新九郎・宗瑞・早雲」に混乱していた事情もある。

1496(明応5)年7月24日の上杉顕定書状(神3下6406)では、宗瑞の弟に関して2箇所表記があるが、それぞれ微妙に異なる。

為始伊勢弥次郎家者、数多討捕、験到来本意候並伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自落

また、駿河台大学論叢第41号11の上杉憲房書状写では、当該文書に似た表現構造が見られる。

(抜粋)伊勢新九郎入道宗瑞、長尾六郎と相談、相州江令出張、高麗寺并住吉之古要害取立令蜂起候、然間建芳被官上田蔵人入道令与力宗瑞

最初に「伊勢新九郎入道宗瑞」とフルネームで記し、そのあとは「宗瑞」と略しているのだが、これは政氏書状で最初に出てくる「伊勢新九郎」は当初「伊勢新九郎入道宗瑞」とすべきところを書き損じたという可能性を示唆する。