2017/12/01(金)各種辞典にない戦国期「逼塞」の語義
「逼塞」の用例
近藤綱秀が片倉景綱に送った「何分ニも如御作事、逼塞可被下候」が不明で「逼塞」の用例を確認した。
- 埼玉県史料叢書12_0807「近藤綱秀書状」(片倉家資料)1587(天正15)年比定
如仰其以来者、懇之御音絶候、内々無心元存知候刻、御懇札本望至極候、然者従貴国小田原・奥州へ、御状則御取成申候、委細者御報ニ被申述候、尤前々之御筋目与申、無二被仰合候者、何分ニも如御作事、逼塞可被下候、此処御取成御前ニ候、随身之御奉公申度候、是又奉頼候、委曲彼御使僧へ被申渡候条、令略候、恐々謹言、
正月三日/近藤出羽守綱秀(花押)/片倉小十郎殿参御報
戦国期の「逼塞」(用例の抜粋は後述)
- 心が近く通い合っている状況 5例
- 追い立てられて苦しい状況 5例
1と2のどちらになるかという点は、前半の「なにぶんにも御作事のごとく」から類推可能だ。この「御作事」が何かというと、別文書にヒントがある。
- 戦国遺文後北条氏編3305「北条氏照書状」(仙台市博物館所蔵片倉文書)1588(天正16)年比定
今般従政宗、氏直へ態預御札候、先筋目候之処、貴辺副状無之候、一段御心元候処、境目ニ御在城之由候、一入苦労之至存候、向後者貴国当方無二御入魂可有之段、別而御取成尤候、当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候、為其申届候、恐ゝ謹言、
卯月十四日/氏照(花押)/片倉小十郎殿参
翌年4月に北条氏照が片倉景綱に宛てた書状で「当方弓矢之義者何分ニも政宗御作事馳走可申候」と書いた内容と同じだと思われる。後北条家の軍事行動は、何においても伊達政宗の御作事への馳走とするでしょう、という申し出だから、御作事=政宗の行動・作戦を示すと見るのが妥当。そして氏照と同じ趣旨を綱秀も語っていると考えるなら、1の用例になると結論が出せる。
Web上にある佐竹氏文書でも多数の「逼塞」が確認できるが、何れも1と2のどちらかで解釈可能だ。
ところが、ここで挙げた1と2の意味は古文書用の辞書に載っていない。
各辞典による解説
戦国期に限った辞典ではないためか、近世刑罰を念頭に置いたものが多い。何れも、戦国期史料とは合致してこない。
『同時代国語大辞典』
1)世間に出るのを憚って、自宅に籠っていること。2)内内心をひきしめ、自らを律すること。
『日本国語大辞典』
1)せまりふさがること。逼迫していること。2)姿を隠してこもること。3)刑罰。
『音訓引き古文書字典』
1)ひきこもること。姿を隠すこと。2)刑罰の一つ。武士や僧に科された謹慎刑。門を閉じ、昼間を出入りを禁じられた。※逼迫 1)行き詰まって苦痛や危機がせまること。2)さしせまること。困窮すること。
『古文書難語辞典』
近世、士分・僧侶に科せられた刑。一定期間門を閉じて自宅にこもる。ただし、夜間、くぐり戸からの出入りは許された。
『古文書古記録語辞典』
逼迫に同じ。1)謹慎している。2)零落して引きこもる。
原義から考え直し
辞書になければ、用例を列挙して文脈から意味を探るしかない。ひとまず文字の成り立ちを考えると、
- 「逼」何かと何かが近づいて迫る・寄る様子
- 「塞」塞がっている・閉じている様子
となり、密着・切迫を(する・される)という意味合いが考えられる。
これを元に2つの群に分けてみた。これが前段の1と2の語義となる。
1)心が近く通い合っている状況
北条氏繁が『岩崎』に、北条氏政が蘆名盛氏との対話を望む心底を強調する
「対盛氏無二可申談心底逼塞被申候」埼叢12_436
足利晴氏に対して忠誠心を強調する北条氏康
「若君様御誕生以来者、尚以忠信一三昧令逼塞候処」小田原市史212
那須資親に対して忠誠心を求める足利義氏
「此上無二忠信逼塞管要候」古河市史936
会田内蔵助の忠誠心を認める簗田晴助
「年来忠信令逼塞候之上」埼叢12_195
千葉覚全が彦部豊前守に、奥方の扱いでの助力で心を一つにしたいと望む
「奥方世上乱入候者、其地へ可罷移之由御内儀候共、誠ゝ、一力得申、向後者、其逼塞迄候」戦北3665
2)追い立てられて苦しい状況
武田との戦いのため切迫した心情で越相同盟を模索する北条氏康
「其上年来之被抛是非、越府與有一味、信玄へ被散鬱憤度、以逼塞、旧冬自由倉内在城之方へ内義被申候処、従松石・河伯以使被御申立之由候」神3下7665
戦乱で耕地を荒らされた領民に渋々援助をする北条氏忠
「進退之御侘言申上間、雖御逼塞候、五貫文ニ弐人ふち被下候」戦北1514
捨てた妻が心配で連絡したいものの悶々とする正木時長
「相・房御和睦以来、内ゝ疾可令啓達旨、雖令逼塞候」戦北4488
家中で反乱があり鎮圧を迫られていた里見義頼
「其上大膳亮拘之地催備、企逆儀候之条、不及是非候、因茲可加退治逼塞ニ候」戦北4489
小田城を追い出されていた小田氏治
「仍今度小田之儀、押詰可付落居由、逼塞之処、氏治彼地出城」埼叢12_297
補記『日本国語大辞典』での記載
コメントでご指摘をいただいた点を受け、上記では軽く記載したに留めた『日本国語大辞典』での記載を追加記述してみる。私は当初見たのは初版のみであった。ここでは意味2の謹慎用例として毛利元就書状が挙げられていた。ところが、第2版では元就書状が独立して意味を立てられていた。
初版
1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※毛利元道氏所蔵文書(弘治三年)11月25日・毛利元就自筆書状(日本の古文書)「ただただ内心には此御ひっそくたるべく候」 3江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。
第2版
1(ーする)せまりふさがること。逼迫していること。2(ーする)姿を隠してこもること。身をつつしむこと。謹慎すること。また、零落して引きこもること。落ちぶれて世間から隠れ住むこと。※仮名草子・智恵鑑(1660)1・11「御勘気をかうむり、ひっそくしおるものなどを」※浮世草子・武家義理物語(1688)2・1「其の身は遠所の山里にひっそくして」※浄瑠璃・大経師昔暦(1715)中「家屋敷をも人手に預けるひっそくの身」※六如庵詩鉦-二編(1797)三・寄題波響楼「神仙中人厭偪側高居常愛海上楼」※夢酔独言(1843)「おのしは度々不埒があるから先当分はひっ足して、始終の身の思安をしろ」 3(ーする)内心推量すること。※毛利家文書-(弘治3年)(1557)11月25日・毛利元就書状(大日本古文書2・405)「唯今如此候とても、ただただ内心には、此御ひっそくたるべく候」 4江戸時代の刑罰の一つ。武士・僧侶に科せられた自由刑で、門を閉じ昼間の出入りは禁ぜられたが、夜間潜り戸から目立たないように出入りすることは許された。50日、30日の二種類があり、閉門より軽く、遠慮より重い。
この元就書状の全文を改めて調べる必要があるが、「内心推量すること」が唐突に出現したことは、他の例や文字の成り立ちから見て違和感がある。とはいえ毛利家では東国とは異なる意味体系を持っていた可能性がある。ここは検討を続けたい。
2017/08/10(木)戦国期、人質のいた風景
とりあえず「証人」とか「人質」とか史料に書かれていたことのまとめ。引っかかった部分はほぼ列挙。
戦時の人質
撤退する際の保証としての存在
永禄12年に今川氏真が掛川から駿東へ退去する際、徳川方は酒井忠次を氏真に途中まで同行させ、安全の保証を行なっている。もし攻められたら忠次は殺される訳で、これが人質の最も原始的な形だと思われる。
就氏真帰国、家康へ以誓句申届処、御返答之誓詞、速到来本望候、殊氏真并当方へ無二可有御入魂由、大慶候、就中懸河出城之刻、其方至于半途為証人入来之由、誠以手扱喜悦候、自今以後者、家康へ別而可申合候条、可然様ニ馳走任入候、仍馬一疋黒進之候、猶弟助五郎可申候、恐々謹言、
五月廿四日/氏政(花押)/酒井左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編1229「北条氏政書状」(致道博物館所蔵酒井文書)
拠点防衛時の人質
北条氏照が陣中に向けて注意書きを出している。敵の出撃に伴ってその地域の人質を悉く集めろという指示が上から降りてきた、という前段の説明があり、続いて「預けられた足軽衆の人質なので、主な者数名から人質を取ればよい。その他の者は「間をなしてこれを取り=適当に間引いて人質を取り?」、「敵が動いている間は一ヶ所に集めておくのがよい」としている。全員から軒並み取る必要はないが、人質自体は厳しい監視下に置くようにという趣旨だろう。
敵動ニ付而、其地衆之証人悉被召上候、然ニ御預ヶ之足軽衆之証人之間、面立者、五三人取之尤候、其外之儀者、為間取之、敵動之時分者、一所ニ指置様ニ仕置、尤候、委細口上ニ申付候、恐々謹言、
二月晦日/氏照(花押影)/小田野源太左衛門尉殿・三上帯刀左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_付045「北条氏照書状写」(佐野家蔵文書)
占領後間もない城での人質
武田晴信が永禄12年に出した在城の定書によると、城内にいる人質には番(見張り?)がついているのが判る。但し「除人質衆、当国衆城内出入一切禁之畢」とあって、人質衆は城内出入り可能だったようにも読める。
武田晴信が同日付で穴山信君宛と「久能在城衆・番手衆」宛で定書を発給している。両者ともに在城時の規則を示したものだが、信君がいたのが久能城かは不明。
ほぼ同文なものの、3条目からが大きく異なる。信君には本城へは駿河衆を一切入れるなと厳命し、その後に決裁権限の範囲を表している。最後に「駿河衆との面会は三之曲輪に家を建ててそこで行なえ」と指示している。一方で、板垣某を物主とすると思われる久能在城衆・番手衆には人質の城内出入りは認めていて、なおかつ城中に家を作った者は単身なら居住を許可するとある。
両者を比較すると、かなり警戒の度合いが異なる。信君への定書には「本城」「三之曲輪」とあるから規模が大きな城で、その分だけ警備も厳重にする必要があったということか。駿府今川館か丸子城辺りだろうか。
定
一、城内之用心并門城戸之番、昼三度・夜三度可被相改事
一、諸城戸今日酉刻閉門、翌日辰巳両刻之間可開之事
一、本城之用心、別而肝要之間、不可有疎略事
一、駿州惣而城内江出入、分別之外候、就中本城ニ不断、先方衆居住堅禁之候、但於無拠用所之人者、昼計可出入、是も不可過十人候、従酉刻明巳刻迄者、一切本城江先方衆出入堅禁制之事
附、是旨無思慮出入之輩者、可為罪科之事
一、他人之同心・被官相頼候とも、不可有許容候、但寄親・当主人深令納得者、甲府江可被得内義之事
一、其方直之被官之外、縦雖有重科、信玄不能得下知而、為私不可被行法度事
一、金吾知行分之外、盗賊謀叛殺害罪科以下之糺明之義、久能之当在城衆可有談合之事
附、掛川・蒲原落居、世上静謐之砌、当国之法度可被行所、可令傍示之事
一、三之曲輪ニ被作家、当国衆参会尤ニ候
一、毎日金吾自身諸曲輪有見廻、堀築地尺木破損之所可有再興之事
一、敵取掛候砌、必城外之防戦禁止之候、於堀際可決勝負事
一、在城衆并番手衆、猥り城下徘徊堅停止之事
一、大酒禁法之事
附、在城之貴賤、両飯之外、猥り于不可食餅飯之事
一、人質之番、不可有疎略之事
一、於乱舞・博奕之輩者、可加成敗之事
一、在城并番手衆之貴賤、具足・甲・手巻・脛楯・弓・鉄炮・鎗・小旗・指物、節々可被相改之事
以上、
永禄十二年己丑四月十九日/在判/左衛門太夫殿
戦国遺文武田氏編1396「武田信玄判物写」(駿河国新風土記巻十九)
定
一、城内之用心并門城戸之番、昼三度・夜五度可被相改之事
一、諸城戸、今日酉刻閉門、翌日辰巳両刻之間ニ可開之事
一、除人質衆、当国衆城内出入一切禁之畢、但城中ニ小屋作候輩、主壱人者不及禁之事
付、小屋壱人之外不可入城中事
一、毎日板垣自身、諸曲輪有巡見、塀・築地・尺木破損之所、可有再興之事
一、敵取懸候砌、必城外之防戦禁止之候、於堀際可決勝負之事
一、在城衆并番手衆、叨ニ城外徘徊停止之事
一、大酒禁法之事
付、在城之貴賤、両飯之外叨ニ不可食餅飯之事
一、人質之番、不可有疎略事
一、於乱舞・博奕之輩者、可加成敗事
一、在城并番手衆之貴賤、具足・甲・手蓋・脛楯・弓・鉄炮・鑓・小旗・指物、節々可被相改之事
以上、
永禄十二年己巳四月十九日/(武田信玄花押)/久能在城衆・番手衆
戦国遺文武田氏編1397「武田信玄判物」(桑名市・森田家文書)
平時の人質
周囲に対して自重を求める
徳川方の人質として遠州衆が当府(小田原?)に来ている間の保護指令。後北条氏は他国衆保護指示を他にも出しているが、その指示よりも強めに自重を命じている。
遠州衆為証人在府ニ付而申断候
一、如何様之法外を致候共、他国衆之事ニ候間、当意遂堪忍、則様子可披露事
一、不論理非致于及喧嘩之者者、双方生害古今之掟ニ候、扨於此度之掟ハ他国衆ニ候間、一往可堪忍由遂下知処、至于背其法者妻子迄可行死罪事。右、定置所、如件、
八月三日/(虎朱印)/大道寺新四郎殿(上書:大道寺新四郎殿 自小田原)
戦国遺文後北条氏編3810「北条家朱印状」(大道寺文書)
1582(天正10)年比定の書状で大道寺政繁は、伴野藤兵衛の母をどこかに次原新三郎の元に送ると告げ、宿所の用意を依頼している。「他国衆だから」という理由で念入りに面倒を見るよう頼み込んでいるから、人質というより他国衆という方が「ちゃんと面倒を見なければ」という要求度合いが強かったのかも知れない。
伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、
十月二日/政繁(花押)/次原新三郎殿
戦国遺文後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)
近隣で紛争があった際に保護する
和田信業は、辛崎で喧嘩があったと聞き、そういう時は人がいなくなって不用心だから、「証人衆」を始めとして皆が市街地やその近くに行くことを禁止している。じっと御屋敷に籠って昼夜用心せよということで、これは逃亡を案じるというより、無用な争いで人質に危害が加えられることを心配しているように見受けられる。また、この場合の人質は「御屋敷」にいたようだ。
覚
一、誉斎御雑談之分ハ、何も無如在竟走廻之由本望ニ候、弥奉公肝要ニ候
一、御用心手堅ニ可被申付候、就中夜中之用心ニ相極候
一、御小荷駄遣候、如書付能ゝ請取事、不足事をハ節ゝ書付待入候
一、叨ニ無之様ニ、仕置可被申付候
一、如承及者、今度辛崎喧嘩候間、承及候、さ様之刻も無人而無用心に候間、証人衆も又旁も、必ゝ町立并近付之方へ罷越義、堅令停止、爾と御屋敷ニつめ候て昼夜共被用心手堅ニ可被申付候
以上、
拾一月十五日/信業(花押)/宛所欠(上書:石原作太夫殿・黒崎市兵衛殿・手島右近丞殿 自赤坂、右兵衛太夫)
戦国遺文後北条氏編4250「和田信業覚書」(石原文書)
人質の強奪計画
紛争地帯の領主である松平親乗の人質の話。1557(弘治3)年比定で、松平親乗が訴訟のため駿府へ長期滞在した際、息子が吉田に置かれている。ただ位置関係がちょっと変。
居城 - 吉田 - 駿府 (今川代官)(親乗息)(親乗)
今川分国の中心である駿府に当主親乗が行っていて、外縁部の居城に今川からの代官、田島新左衛門尉を置いている。その中間に息子がいるから、前線にいる者から人質をとって裏切りを防止するという目的ではないようだ。どちらかというと保護ではないかと思われ、親乗が留守の間に居城が不安定になることを見越して領内でも安全な場所に移したような感じがする。
文書では人質を「奪うなどという噂があるので宿など用心するように」との指示を出している。「宿等」を用心しろということは、強奪犯をいち早く察知せよという意味合いだと思う(親乗の息子が「宿」にいるとしたら「等」はつかないだろう)。
急度申候、松知泉長々就在府被成候、彼家中申事候哉、殊舎弟次右衛門方種々之被申様候、此方にてハ山新なと被取持、三内被頼入候、先日同名摂津守方被罷越候、内々談合ける由其沙汰候、雖然 上様御前無別条候、只今大給用心大切之旨、従其方田嶋方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候、其間御用心のために候、就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候、恐々謹言、
七月廿二日/朝丹親徳(花押)・由四光綱(花押)/良知善参
戦国遺文今川氏編1341「由比光綱・朝比奈親徳連署状」(田島文書)
かなり身構えた今川被官たちに親乗は「気遣いありがとう」と書いている。このことからも、親乗が息子を奪還するというよりは、他の勢力に誘拐されることを今川被官らは心配していたことが確認できる。反今川方の勢力かも知れないし、訴訟相手の弟次右衛門という可能性もあるか。
猶以御辛労難申尽候、時分柄と申、すいりやう申候、急度申候、仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移、外聞実儀畏入候、此等趣、良善へ申入候、定而可被仰候、然者竹千世・吉田之内節々御心遣、別而無御等閑しるし忝存、与風此苻へめし下候、御訴訟大方ニも候ハゝ、我等罷上御礼可申候、城中之者共、不弁者之儀共候、御異見頼入候、万吉左右可申入候、恐々謹言、
八月九日/松和泉守親乗(花押)/田嶋新左衛門尉殿まいる
戦国遺文今川氏編1345「松平親乗書状」(田島文書)
ちなみに、上記2文書を読んだ者が早合点して「家康(竹千代)は駿府に向かう途中で攫われて尾張に送られた」という伝承を作ったのではないかとも思える。両文書ともに年が入っていないため、下記の表現だけを読んで短絡すると、まあそんな伝承にもなるのかなと。
- 「然者竹千世・吉田之内節々御心遣」
- 「就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候」
人質を戻そうとした例
1562(永禄5)年比定の北条氏照書状で、「簗田晴助が人質を取り返すだろう」という伝聞情報が見られる。佐野に晴助が人質を出していて、それを戻したということだろうか。氏照はその情報の真否や、以前の約束で戻したのだろうかと問いつつ、「可有御前=手元に置くように」と意見を述べている。
去四日御注進状、同六日到着、然者長尾弾正少弼向其地、雖相動候、御備堅固故、無其功退散、誠以我ゝ一身満足候、一、自小田原之返礼、両通進置之候、一、此度其地へ敵取懸候処、後詰遅ゝ、無功之由蒙仰候、近比無御余儀候、雖然敵向其地相働候由、従忍申■候間、翌日後詰之様躰成下申合可致之由存、杣谷へ相移候、然者甲州衆も、小山田・加藤半途へ雖打出、敵退散候間、被打返候、一、氏康ニ、其地敵詰陣ニ付而者、以夜継日可申越候、河越へ打出、厩橋へ可及後詰由、雖被申越候、隔坂和田川陣取之由候間、出馬遅ゝ候処ニ、敵敗北無是非候、努ゝ非無沙汰候、一、東口御計儀如何処哉、承度存候、一、梁中者証人を被取返之由候間、如兼約可有之候哉、是又可被引付事、可有御前候、一、近衛殿、厩橋へ引取申候事、為如何仕合候哉、承度候、此上者、来調儀ニ極候、此方ニも其用意迄候、其内東口御調専要存候、一、赤文事、無是非存候、忍へ被移候由被申越候、其地へ可被引取候歟、承度候、猶於珍儀者切ゝ御注進可為専肝候、恐々敬白、
三月十四日/源三氏照(花押)/天徳寺参机下
戦国遺文後北条氏編0746「北条氏照書状」(栃木県涌井文書)
母親の病気で里帰りする人質
1583(天正11)年比定の虎朱印状で、後北条氏は人質の長尾鳥坊を里帰りさせて、矢野を代わりの人質とすることを承認している。この理由は「鳥坊老母煩に付」と挙げられている。
長尾鳥坊老母煩ニ付、鳥坊丸ニ矢野証人替相達有間敷者也、仍如件、
未十月九日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2580「北条家朱印状写」(上杉文書十一)
人質はどこにいたのか?
「境目」に預けた人質
天正14年比定の文書で北条氏照は「治部大輔方証人并其方証人境目之地在城候間=治部大輔の証人とあなたの証人が境目の地に在城しているので」と書いている。この地方では証人を境界に置く風習があったのだろうか。
其以後者無珍儀候間、遙ゝ絶音問背本意候、然者此度治部大輔為代官五郎兵衛参府、治部大輔被申上筋目、何も御同意ニ候、被聞届可為満足候、就中当秋一両月之間肝要之刻ニ条、治部大輔方証人并其方証人境目之地在城候間、御所望ニ候、委細御内儀之旨、五郎兵衛口上ニ申届候間、有支度重而従小田原御一左右次第御進上肝要候、為其申届候、恐ゝ謹言、
八月十四日/氏照(花押)/岡見中務大輔殿
戦国遺文後北条氏編2986「北条氏照書状」(岡見文書)
「又わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと」(埼玉県史料叢書12_0145「結城政勝書状写」)でも、結城政勝の妻子が、葛西の境、岩付の境にいると書いている。葛西と岩付それぞれに境という表現がついていることから、「葛西の境」「岩付の境」は併記された2つの場所を示している。
人質センター
今川氏の場合は街道筋で交通の便が良い吉田・牛久保に三河国衆の人質を集めていた記録がある。その一方で、1562(永禄5)年と比定される書状で北条氏邦は各証人を館沢に置けと指示している。この館沢を「たちさわ」と読むなら、皆野町立沢が比定候補に挙がる。秩父谷を入って更に山を登ったところにある立沢は、避難場所としては適している。一方で、右衛門佐の母が鉢形城下の昌龍寺(正龍寺)に逃げ込んだという報告を、氏邦は「自分は知らないことだが、とりあえずどこでも身を置いてよいだろう」としており、人質を強制的に集めたというよりも避難を呼びかけて安全な場所に誘導したという意味合いが強いように感じられる。
廿八註進状、朔日到来、委披見、仍憲政・景虎越国へ必帰候由承候、殊厩橋焼候哉、弥満足ニ可有之候、仍其地普請、如形出来、又水筋可然由、肝要ニ候、各証人衆之事、館沢尤ニ可有之候間、横地ニ申合、彼所ニ可置候条、可被存其旨候、御嶽ニハ、人数籠候歟、一段気遣候、昌龍寺辺へ打廻出候者、其擬可然候、然者、右衛門佐老母、昌龍寺へ被闕落候哉、不審成様躰候、自此方不知様、先何方ニ成共、可被置候、随而大鉄炮之義意得候、委三山可申、恐ゝ謹言
追而高松衆、別而走廻候哉、祝着候、進退不続候共、当秋迄■■も可堪忍之由、可被申、一廉可扶持候、
四月二日/乙千代(花押)/用土新左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編0752「北条乙千代(氏邦)書状」(逸見文書)
籠城時の人質
羽柴氏との全面対決直前に、後北条氏被官たちの証人が小田原城に集められた。この文書では、松田憲秀が取次を務める被官たちの証人が、小田原伝肇寺の家屋に収容されていたことが判る。
松田取次之証人衆、其療舎共ニ、此度一廻可指置候、若狼藉非分之儀有之者、速可有披露候、
庚寅二月晦日/(虎朱印)江雪奉之/伝肇寺
小田原市史小田原北条2035「北条家虎朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)
幼児は女性のもとに預けた
数え年で5歳の息子を人質にする際、幼少だから「坂下之御大方」に預けるから安心せよと北条氏忠が書いている。恐らく、坂下大方の自宅に引き取られたのだろう。
証人之儀申懸処、五才ニ成候息并父之入道與替ゝニ進上可申由、尤肝要候、先五ニ成候実子、明後十二日可被出ニ落着候、幼少之儀候間、坂下之御大方へ預ケ置可申、心安存可被出、仍自今以後之儀者、昌綱・宗綱御代ニ不相替、抽忠信可被走廻処、可為肝要者也、仍如件、
天正十四年丙戌十一月十日/氏忠(花押)/大蘆雅楽助殿
戦国遺文後北条氏編3023「北条氏忠判物」(小曽戸文書)
民間に丸投げ
上野国衆の由良氏が提出した人質だと思うが、本人と使用人の2名を伊豆国三島の町人に任せている。報告書の提出を義務付けているものの、ほぼ丸投げの委託といえるだろう。三島という地が、後北条分国からすると境目の地といえるのも興味深い。
新田証人上下弐人預ヶ被為置候、用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候、公用之義者、取越相調、重而以日記可申上、速ニ可被下者也、仍如件、
酉三月七日/(虎朱印)大草左近大夫奉/三嶋町瀬古
戦国遺文後北条氏編0675「北条家朱印状」(世古文書)
正木権五郎の例
1566(永禄9)年に登場する正木権五郎は、勝浦正木氏からの人質として小田原に滞在した人物。4月3日に北条氏政が正木左近大夫に対して「ご子息の権五郎は一段と成長しました」と報告しているから、これより前に権五郎は小田原にいた模様。
来札本望候、其以来万方無事候、定而其口不可有別条候、於珍義者、節々可承候、自是も可申候、委細源三可申届候条、不能重説候、恐々謹言。追而、御息権五郎方一段成人候、可御心易候、以上、
卯月三日/氏政(花押)/正木左近大夫殿
埼玉県史料叢書12_0298「北条氏政書状」(三浦英太郎氏所蔵文書)
続く5月13日には、取次に入った氏照から左近大夫への書状。小田・結城・小山・宇都宮の人質を取ったとし、正木十郎が11日から着陣して氏政が喜んでいる旨を報告している。
来翰披閲、此度其口御調義先雖可有之、上州口妄有之者、其表之御調義如何様ニ被思召詰候共、不成義候、当口於静謐者、其口行幾度も可有之候、然間以此塩味、此より一ニ被成、無所貽相調、為始小田・結城・小山・宇都宮証人悉被進置候、可御心安、然而十郎殿一昨十一御着陣、氏政一段御喜悦候、爰許涯分馳走可申候、可御心安候、委細期来信候、恐ゝ謹言、
五月十三日/氏照(花押)/正木左近大夫殿参
戦国遺文後北条氏編0948「北条氏照書状写」(楓軒文書纂六十六)
こうした正木氏の出陣と呼応するようにして、小田原で留守居をしている氏康が、権五郎の番をするようにと町人に命じている。
御陳御留守中正木権五郎番事
廿七日、六番、一日一夜人数二人充、宮前下町
右、宮前下町者之内、有分別かいゝゝ敷者を、五人も十人も書立、其内を二人、一日一夜充可申付、朝ハ五ツ以前致番替、前番衆を可返、晩景ハ石井可改間、彼日帳ニ可為載交名、聊も狼藉慮外成躰至于入耳ハ、可行死罪、如何ニもおんひんニ、権五郎有所次間ニ可致番、若不審なる様躰有之ハ、則以石井可申上、番之致様も、石井父子如申付可走廻者也、仍如件
虎印御陳へ被進間、本城ニて被為推印也、
寅五月廿二日/(朱印「武栄」)幸田与三奉之/宮前下町奉行賀藤
戦国遺文後北条氏編0950「北条氏康朱印状」(三島神社文書)
御陳御留守中正木権五郎番事
廿五日、四番目、一日一夜、人数二人充、今宿
右、今宿者之内、有分別かいゝゝ敷者を、五人も十人も書立、其内を二人、一日一夜充可申付、朝者五ツ以前致番替、前番衆を可返、晩景ハ石井可改間、彼日帳ニ可為載交名、聊も狼藉慮外成躰至入耳者、可行死罪、如何ニも穏便ニ、権五郎有所次間ニ可致番、若不審成様躰有之ハ、則石井を以可申上、番致様も、石井父子如申付可走廻者也、仍状如件
虎印御陳ニ進間、本城ニて被為推印也、寅五月廿二日/(朱印「武栄」)幸田与三奉之/今宿奉行宇野源十郎戦国遺文後北条氏編0951「北条氏康朱印状写」(諸州古文書相州豆州廿四)
町人は次の間に2人1組で当番に当たるのだが、ここで若干奇妙なのが、権五郎の脱走や奪還を心配しているにしては「如何ニもおんひん(穏便)ニ」という対処方法が指示されている点。揉め事を避けたいような言い回しで、引っかかりを覚える。軍事・政治での監視目的というより、通常近侍している武家がいなくなった穴埋めをしているような感じ。
その14年後の1580(天正8)年、成人して正木家に戻った権五郎らしき人物が登場する。正木左近将監時長は、小田原にいた頃は格別に世話になったことを「河津人々御中」に感謝し、菊松を引き続き養育してくれるよう依頼している。人質から戻った際に菊松を置いてきたことが判る。
相・房御和睦以来、内ゝ疾可令啓達旨、雖令逼塞候、去比以使脚申入候之処、被対拙夫御恨立故歟、無御許容之条、伺御心腹罷過候、然相・甲案外之御鉾楯、豆州忩劇、御在庄之模様、依無御心許、為使僧申入候、仍太刀一腰、木布五十端、并刀一盛光、段子三巻進覧、表御通信計候、於小田原在府之砌、別而蒙御懇恩候キ、毛髪不致忘却候、菊松事、不相替被加御不敏御養育之由、誠以先世之宿縁甚深歟、不浅次第候、世間之御和、天之与ニ候条、此刻致于被返還者、其御為進退与云、愚拙永代之御芳恩過之間敷候、万乙至于世上変化者、縦被思召寄候共、罷成間布候、愚意猶新福寺長者令説与口門候条、奉略候、恐ゝ謹言、
潤三月廿日/正木左近将監時長(花押)/河津人ゝ御中
戦国遺文後北条氏編4488「正木時長書状」(正木文書)
相模と安房がご和睦して以来、内心で早く連絡したいと思い、隠棲なさっているとはいえ、去る頃に使者を送って申し入れたところ、拙夫に対してお恨みがあるのでしょうか。許さないとのことでしたから、お元気かを伺うこともなく時が過ぎてしまいました。そして、相模と甲斐が思いもかけず戦争になり、伊豆が戦場となりました。お住まいの辺りはどんな様子でしょうか。使いの僧を送ります。太刀1腰・木綿50反と、盛光の刀1振、緞子3巻を進呈します。形ばかりのものです。小田原にいた時は、格別に親切にしていただきました。このご恩は毛頭忘れることはありません。菊松のこと、今までと変わらず憐れんでご養育いただいているとのこと、本当に前世からの宿縁がとても深いということでしょうか。浅からぬ縁です。(後北条氏と時長との)双方の和睦は天の与えるところで、この時にお還りいただけるなら、あなたの進退のおためにもなり、愚拙にとっても末永い御恩としてこれ以上のものはありません。よろず政情の変化というものは、たとえお考えに添わなくても、ままならぬものです。愚意をさらに新福寺長者がお話しするでしょうから、略させていただきます。
解釈して感じたのは、この書状の宛所は権五郎の妻(菊松の母)ではないかということ。後北条氏と勝浦正木氏敵対した状態で、父と兄が死去し後継者として権五郎は戻ったため、小田原離脱は友好的なものではなく、加えて妻の同意も得られずに単身戻っていったのではないか。その後、妻は子を連れて伊豆の河津に隠棲。のちに後北条との関係が戻った権五郎が連絡を取るも、きっぱり振られたと。
永禄12年には確かに武田方が伊豆に侵入しており、この時に居ても立っても居られず、権五郎は妻の元に使僧と贈り物を向かわせた。そして、何とか自分の元に避難してほしいと訴えている。文書を自然に読み下すとそういうシーンが浮かんでくる。
女性宛てなのに仮名書きではない不審だったりするが、これはむしろ距離感のある妻との関係を物語っているように感じる。仮名書きで露骨に妻宛にすると読まれないのではという危惧を持っていたのと、彼女の識字能力を熟知していたからできたことではないか。
書札礼から見ておかしな部分がある。通説で言われているように単純に蔭山氏広宛てだとすると「河津人々御中」とはしないように思う。普通に名字に官途名つきで「殿」をつければよい。
「場所+人々御中」の用例はかなり厚礼 融山→北条氏康「小田原人ゝ御中」 北条氏規→徳川家康「駿府貴報人々御中」 木曽義昌→武田晴信「甲府御陣所参人々御中」 正木時茂→上杉輝虎「越府人々御中」 垪和康忠→天神島僧侶「天神島人々御中」 ※「天神島」の背景には高位の寺院 鎌倉月輪院がいる。
元々身内への書状であれば書札礼に厳格ではないから、どんな宛所でも問題はないのだけど、誰に宛てたかを曖昧にするために「地名+人々御中」を用いていたのではないだろうか。
ちなみに、最初の第一人称が「拙夫」なのも意味がありそうな気がした。この文で断られた経緯を書きつつ、「この際だから」と同居を懇願する時は「愚拙」と変えていて「夫ではない」と印象付けようとしているのではないかと考えてみた。うがち過ぎかもしれないけれど。
まとめ
- 緊迫した戦闘状態以外では、人質は閉じ込めておくというよりも、保護する対象だった。
- 人質の行動を制限する場合は、人質自身に危害が及びそうな場合のみ。
- 人質を預かっている側の方が気を遣っている。
特に留意する点として、人質を殺した・殺されたという同時對史料を今のところ確認できていないことが挙げられる。それよりは有力な縁故を持つ者としてむしろ優遇するような措置もとられていたことが判る。勿論戦闘時には原理的なありようが顕在化して、人質の安全を盾にして行動することもあったろうと思う。
付け足し
人質は厚遇され、なおかつ家が敵対してしまったとしても帰国を制限されることもない。これは、牧野右馬允、四宮惣右衛門妻子の例で判る。むしろ受け入れ側でごたついていたりする。
今度右馬允殿就死去、跡職異儀有茂間敷之一札、家康被出候、任其判形、拙夫達而承候間如此候、若此上世上被申懸様共、岡崎任一札其旨可申候、此等之趣各江茂可被仰候、同右馬允殿御息涯分御上候様馳走可申候、一両年駿州ニ雖被留置候、跡等之事、異儀有間敷候、縦岡崎兎角之儀若被申候共、一札之上者、懸身上可申候間、不可有疎略候、家康へ達而可被申候、是又可被任置候、為其如件、
永禄九丙寅十一月日/水野下野守信元(花押)/牧野山城守殿・能勢丹波守殿・嘉竹斎・真木越中守殿・稲垣平右衛門尉殿・山本帯刀左衛門尉殿・同美濃守殿参
戦国遺文今川氏編2115「水野信元判物」(牧野文書)
於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、 三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿
戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)
また、先に見た正木権五郎の例を見ても、同じく家は敵対している状態で跡目相続のために帰国している。この場合妻は同行しなかったが、妻子と共に帰国することもあったかも知れない。
だが、人質の提出を拒むことも多かったようで、1586(天正14)年比定で、岡見氏の場合は治部大輔は人質供出を承認したのに、同族の中務大輔が拒否し、北条氏照が懸命に懐柔している。
急度申届候、然而従小田原御分国諸侍、証人御所望ニ候、依之其方証人御所望之処、難渋之内存之由、一段不可然候、年来境目之地ニ在城、抽而之忠信不浅候、此節被任御内儀、一月二月之間之儀候条、証人有進上而、治部大輔方自訴も無相違被達様ニ肝要候、必有支度、重而御一左右次第御進上尤候、為其申届候、恐ゝ謹言、
八月十九日/氏照(花押)/岡見中務少輔殿参
戦国遺文後北条氏編2987「北条氏照書状」(岡見文書)
内ゝ自是以使可申届候由覚悟候処、能以飛脚初鮭到来、先日者初菱食、此度初鮭、当秋者両様共ニ従其地、始而到来候、一入珍重候、一、西口一段無事候、此節御加勢之儀如何様ニも可申上候条、先日之御面約之筋目、三人之証人衆如此御内儀御進上尤候、迎者可進置候、早ゝ可有支度候、貴辺五郎右衛門尉事者相済候、中務手前一段笑止候、御疑心ハ雖無之候、仰出難渋者、外聞不可然候、五日十日之間成共、先進上被申様ニ、達而助言尤候、然而為迎明日使可進候間、早ゝ支度尤候、我ゝも三日之参府申猶可申調候、委曲明日以使者可申候、恐ゝ謹言、
八月廿六日/氏照判/岡見治部大輔殿
戦国遺文後北条氏編2989「北条氏照書状写」(旧記集覧)
何がそんなに嫌なのかと考えてみると、杉田清兵衛が氏照被官らから人質提出を求められた文書が目を引いた。
大途 御弓矢立ニ候間、小河内衆之証人、此度被召上候、然者、十二ニ成子所持申候由、被聞召届候、彼子を惣置ニ御扶持可被下間、速ニ証人被進上、心易谷中之走廻可致之、此度抽而走廻ニ付而ハ、随望知行可被下旨、被仰出者也、仍如件、
丁亥正月五日/奉 大石四郎右衛門尉・横地与三郎・狩野刑部大輔/杉田清兵衛殿
埼玉県史料叢書12_0808「北条氏照朱印状写」(杉田文書)
清兵衛の12歳になる息子がいると聞きつけた大石・横地・狩野は「惣置ニ御扶持可被下間=丸抱えで扶持を与えるから」といって人質に出すよう求めている。つまり被官として召し抱える前提で人質に入れてほしいという要望になる。これを岡見治部大輔は嫌ったのではないか。年若い息子を後北条の被官にしてしまうと、小田原に染まってしまう。そして後北条氏に依存するようになり、明確な主従関係を結ばれてしまう……相模にいる国衆ならともかく、牛久の岡見治部大輔にとってそれは大きな危険要素に見えたのだろう。
人質=被官青田買いという側面があるとすると、人質に知行を与えることも納得できる。1561(永禄4)年比定で、「嶺上証人衆跡」を宛行なっていて5人が8貫文ずつ持っていたものを、何故後北条氏が渡せるのだろうと不思議だったけれど、清田の息子を勧誘した際に扶持を出すと言っていることと合わせて考えると、これは元々後北条氏の蔵米か何かで、5人の人質状態が解除されたので浮いていた分だということで納得できる。
嶺上証人衆跡出置事
八貫文、吉田和泉守(跡・欠ヵ)
八貫文、武信濃守跡
八貫文、郷沢美濃守跡
八貫文、飯森三郎左衛門尉跡
八貫文、三平主税助跡
以上四拾貫文
右、五人跡出置之候、猶此上も抽而至于走廻、可被加褒美旨、被仰出状如件、
酉七月廿日/(虎朱印)遠山新四郎奉/古敷谷弾正忠殿
戦国遺文後北条氏編0709「北条家朱印状写」(相州文書所収三浦郡団右衛門所蔵文書)
人質については、厩橋城の那波家中で人質の交代があった際に「本人が人質」という記載があって少し混乱したことがある。
那波家中証人替之事、先番馬見塚対馬守、実子但男子、宮子清次、自身、井田遠江守、姉、今井藤左衛門、実子但男子、大河原新十郎、自身、已上、当番山王堂兵庫頭、実子但女子、久ゝ宇因幡守、おい、毘沙出右衛門尉、女子、馬見塚藤八郎、自身、五十嵐近江守、弟、已上、右、厩橋当番、安中七郎三郎・笠原越前両人ニ申断可相替旨、可被仰付候、仍如件、丁亥二月廿六日/(虎朱印)垪和伯耆守奉之/陸奥守殿戦国遺文後北条氏編3060「北条家朱印状」(宇津木文書)
この中で宮子清次・大河原新十郎・馬見塚藤八郎の3人は人質を「自身」としている。これは、他の者が血縁者を出したのに対して、自分自身が厩橋城に入ったことを指すのだろう。考えてみれば本人が人質になるのが一番なので、本人をずっと拘束はできないから、本人に準じる血縁者を特定の場所に留めておくのが人質な訳だ。だから、本人が人質というのは正しい。
2017/04/20(木)戦国時代の「折角」は「orz」を意味したか
越相同盟で氏康・氏政が多用した言葉に「折角」があって、ちょっと意味が現代語と異なるように感じたので、改めて調べてみた。
「折角」を辞書で引いてみると、以下の通り。
現代語(旺文社国語辞典)「そのことのためにことさら力を尽くすさま。骨を折って。わざわざ。めったにないことを大切に思うさま。十分に気をつけて。せいぜい」
- 音訓引き古文書辞典「苦労して。つとめて。わざわざ。とりわけ」
- 例解古語辞典「力を尽くすこと。ほねをおること」
- 時代別辞典「当面する事態が、その対処・解決にあたって、並並ならぬ尽力を要する特別のものであること。また、その問題となる事態をいう」
- 日匍「xeccacu・角を折る。労苦と困窮。用例『難儀、折角に遭う』労苦などに悩まされ、苦しめられる」
当時の用例を見ると、日匍辞典が一番的確だったように思える。現代でいうと「駄目だこりゃ」、ネット用語なら「orz」に近い。
以下の用例に当てはめてもらうとよく判ると思う。
晴信の駿河侵攻を歎く氏康「万民之愁歎、余多折角ニ候」戦北1145
晴信の東美濃介入を酷評する輝虎「無用之事仕出候間、信玄折角可申候」岐阜県史資料編古代・中世4_p864
味方が減っていくことを歎く氏康
「遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限」戦北1475
「只今可離氏政手前事、外聞令折角候」戦北1211
「今度氏政折角之段申越候、乍父子間之儀、彼所存無拠歟」戦北826
後北条が窮迫していると報告する芳綱「弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候」神3下7990
母の病状を憂う氏政「近日者、少見直候、折角可有推察候」戦北1712
酒井忠次に会えなかった氏規「此度者懸御目不申候事、折角仕候」戦北3548
小山城落城を目前にした氏照「敵者弥折角之躰」戦北2683
高野山の氏直一行「此方さむく候て、何共折角仕候間」戦北3951