有光友学氏・小和田哲男氏の著述を見る限りでは、今川氏が用いた印文「調」の朱印は義元のものとされている。僅か6例しか残されていないこの朱印状だが、以下の理由から義元が大規模な軍勢催促を予定していた証として援用されている
- 永禄2年8月に大井掃部丞に宛てた滑革・薫皮を急いで徴発したこと
- 永禄3年4月に伝馬手形を発行していること
しかし、これは「今川義元が永禄3年5月に尾張口で戦死したこと」を前提にしてしまっているのではないか。他例をきちんと読むと、これは息子の氏真が発行した確率が圧倒的に高いことが判る。
逐一追ってみる。
- 戦国遺文今川氏編1470「今川家朱印状」(静岡市葵区駒形通・七条文書)
於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、
永禄弐年八月八日/文頭に(朱印「調」)/大井掃部丞殿
これが最初の文書となる。義元が戦備に要したという考え方も可能だが、後に出てくる駿府浅間社での対応を見ると氏真が代替わりに当たって儀礼を整えるために徴発したという可能性もある。
- 戦国遺文今川氏編1475「今川家朱印状」(山形県鶴岡市・致道博物館所蔵文書)
為持仏堂立置賢仰院之事。右、陣取諸役可除之、并於有狼藉輩者、注交名可令注進、其上可加下知者也、仍如件、
永禄弐年八月廿八日/文頭に(朱印「調」)/酒井左衛門尉殿
宛所が酒井左衛門尉忠次である点から、三河での文書が多く残り、この時期三河にいた可能性がある義元発給と見るのが妥当ではある。但し、禁制は寺社が受給して伝来することが多いのに対し、この文書は酒井忠次が宛所だし、彼の家が保持していた。どことなく違和感がある文書ではある。
- 戦国遺文今川氏編1477「今川家朱印状」(静岡県葵区大岩町・臨済寺文書)
駿河国上原新在家之事。右、任天文廿年之判形、永不可有相違、但甘利藤一郎分依為料所、百姓桜井申様雖有之、既自新在家興行之刻、道下之分者彼在家中切発之上者、至于只今、給主方又者号料所之内、雖及異儀、永可為林際寺支配、雖然道上之儀者、重以公方人可定傍爾者也、仍如件、
永禄弐年己未九月廿六日/文頭に(朱印「調」)/林際寺(端裏書:林際寺 氏真)
ここでは決定的な文言があり、端裏書で差出人として「氏真」が記載されている。前の2文書と異なって、駿府に位置する今川氏最大の菩提寺臨済寺宛である点から、富士浅間社も駿府浅間社も氏真に切り替わっていたこの段階では氏真が発給したと見るのが妥当だろう。
- 戦国遺文今川氏編1499「今川家朱印状」(静岡市葵区宮ヶ崎町・静岡浅間神社文書)
浅間宮三月会装束目録。一、面、四人分。一、宝冠、紺段子後ニ付、四人分。一、光、銅滅黄、四人分。一、七条袈裟、此内三条金裯、切交、一条段子、切交、何モ緒紅、四人分。一、袍、地朽葉、四人分。一、牟志、面段子、裏朽葉、房浅黄、四人分。一、袴、面段子浅黄裏、絹、四人分。一、襪子、四人分。以上。右、前々道具令破損之条、今度改之、所被成新寄附、仍如件、
永禄参庚申年三月三日/文頭に(朱印「調」)蒲原右衛門尉元賢(花押)/宛所欠
ここでは前々の道具が破損したことを理由に装束を新調し寄附することが伝えられている。1558(弘治4/永禄元)年8月13日には氏真がこの駿府浅間社に対して「駿河国浅間宮御流鏑馬千蔵方郷役之事」を定めている(戦今1416)。この時には朱印の印文は「氏真」となっている。祭礼の復興を代替わりを契機に行なおうとしていた流れで考えると、これも氏真の発給と見てよいだろう。
- 戦国遺文今川氏編1503「今川家朱印状」(某氏書状文書)
参州当知行古部郷内蓬生分事。右、今度粟生将監依令検地、同蓬生村共可検地云々、蓬生分之事者為各別、自前々為屋敷分之間、所出置判形明鏡也、然間古部郷将監知行分計可改之、雖然蓬生分共雖相改之、為給恩増分之条、可令所務之、但将監於有申子細者、互遂糺明可加下知者也、仍如件、
永禄参年三月十八日/文頭に(朱印「調」)/小島源一郎殿
三河国内での裁定となり、義元の可能性がある。但し、検地増分に関わる訴訟への言及は、義元の場合永禄2年6月8日のものが終見(戦今1463)であり、この後は氏真が専ら対応している点を考えると何とも判断しがたい。
- 戦国遺文今川氏編1505「今川家伝馬手形」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎文書)
伝馬弐疋、無相違可出之者也、仍如件。足代玄蕃ニ被下之、
永禄参年四月八日/朝比奈丹波守奉之、文頭に(朱印「調」)/駿遠参宿々中
義元は永禄3年3月12日に中間藤次郎宛に判物を出している(戦今1501)。なので水運に関しては管理を手放してはいないが、同年4月24日に氏真が丸子宿に伝馬の定書を出している(戦今1508)。この時の朱印状は角型の「如律令」でそこに疑問は残るが、伝馬関連は氏真が担当したと見るのが妥当だろうと考えられる。
この翌月の5月19日に朝比奈丹波守親徳は尾張口で義元敗死の現場に居合わせるため、どうしても義元発給の印象が強くなったのだろうか。とはいえ1ヶ月以上のタイムラグはあるし、伊勢大湊から祭礼用の何かを取り寄せようとした可能性も高い。
また、足代氏は戦国遺文今川氏編でここしか登場していない。但し、氏真が伊勢に預けた道具の扱いをやり取りした文書伝来で名が出てくる。何れも1573(元亀4/天正元)年比定で時代は隔たっているものの、伊勢大湊に関係した足代氏と氏真の繋がりを窺わせる。
○永禄2年
- 8月8日 革納品を命じたもの どちらも可能性あり
- 8月28日 酒井忠次に賢仰院への禁制を出したもの 義元の可能性が高い
- 9月26日 臨済寺に裁定での勝利を伝えたもの 氏真の可能性が非常に高い
○永禄3年
- 3月3日 駿府浅間社の装束寄附 氏真の可能性が非常に高い
- 3月18日 小島源一郎に検地増分安堵 氏真の可能性が僅かに高い
- 4月8日 足代玄蕃に伝馬発行 氏真の可能性が高い
2番目にある酒井忠次宛のものだけがどうも奇妙な印象だが、3番目以降は全て氏真を指しており、そこから1番目も氏真発給である可能性が高いといえるだろう。
酒井忠次が禁制をもらった賢仰院が大樹寺内にあったことを重視するなら、もう一つの可能性が浮かんでくる。
永禄元年閏6月20日(大樹寺宛・戦今1403)~永禄3年5月2日(佐竹丹波入道宛・戦今1510)の間、発給文書が存在しない朝比奈泰朝が、この間は氏真側近として「調」朱印状を発給していた可能性も若干残されているかも知れない。
泰朝の父である泰能は大樹寺宛の文書も残していることから、忠次宛文書の謎も解明されるほか、同時期に氏真が「如律令」朱印を併用していた事象も説明が可能になる。臨済寺に「氏真から」と書いたのは、この印が泰朝を示すものではないという念押しだったともとれる。
泰朝は後年の永禄11年9月21日に「懸河」という八角形の朱印を発行していた(奥山左近宛・戦今2190)。
- 戦国遺文2190「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)
犬居可相通兵粮之事。右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
永禄十一年辰九月廿一日/文頭に(朱印「懸河」)/津留奉行中(上書:奥山左近方へ)
ただ、泰朝が老獪だった訳ではなく、永禄元年4月22日に初見史料(戦今1392)が見られるから氏真よりむしろ後発であった点はネックになる。若い氏真と共に試行錯誤していたか。
そもそも今川家当主の印文は名前であることが前提で、属人的意味合いが非常に強い。義元と氏真は「如律令」ではあるものの、印の形がそれぞれ異なる。
- 今川氏親:未詳○・未詳□・氏親□・紹僖□
- 今川義元:承芳□・義元(1型□・2型▯縦長)・如律令○
- 今川氏真:氏真○・如律令□
○は丸印、□は角印。但し義元2型のみは縦長の矩形。
例外となるのは氏親室の寿桂が用いた「帰」の角印で、これは「当主ではない」という意味で一文字の抽象的文字を用いたのだろうと考えられるかも知れない。但し権限は強かったようで、当主氏輝の名が入っていながら無花押の文書に「帰」を押して効力をつけた例がある。
であれば、家督移行期に極めて短時間に登場した「調」も、誰かが代行した可能性があるだろう。矩形の角を切り取った特殊な八角形である点も、並行して押された義元2型印が縦長矩形の特殊形であったこととあいまって、正規の矩形印である氏真の「如律令」を侵害しない意向を示すのかと推測できる。
以下にこの時期の義元・氏真と「調」の発行時系列を挙げる。末尾は戦今の文書番号。
- 閏06月02日・朝比奈泰朝判物 ※参考
- 08月13日・氏真○1416
- 09月02日・義元2▯1425
- 12月12日・氏真○1437
- 12月17日・氏真○1438
- 12月17日・氏真○1439
- 12月某日・義元2▯1441
- 某月19日・義元2▯1442
- 03月18日・義元2▯1451
- 05月20日・如律令□1456
- 05月23日・義元2▯1458
- 06月10日・如律令□1464
- 08月08日・調◇1470
- 08月28日・調◇1475
- 09月26日・調◇1477
- 11月28日・如律令□1482
- 02月22日・如律令□1497
- 03月03日・調◇1499
- 03月18日・調◇1503
- 04月08日・調◇1505
- 04月24日・如律令□1508
- 05月10日・朝比奈泰朝判物 ※参考
- 05月13日・如律令□1513