2017/10/25(水)『桶狭間』で今川方は壊滅したのか?

鳴海原合戦による死亡者

通説では、今川義元の討死に伴って多数の戦死者が出て今川氏権力が弱体化したとされる。但し、以下の点から甚大な損害とは言い難いようにも思う。

  • その年のうちに後北条氏へ援軍
  • 翌年には松平元康と内戦開始

そこで、今川氏が義元の死で人的資源をどの程度失ったかを改めて調べてみた。戦国遺文今川氏編より、主だった人物を抽出。永禄3年6月以降に登場しなくなった人物は死亡と見なした。

不在だった者も交えた死亡率

  1. 三河:11%(1/9)
  2. 遠江:30%(3/10)
  3. 駿河:28%(5/18)
  4. 総数:24%(9/37)

24%という数値が高いか低いかは、他の例と比較しないと判らない。今川義忠の討死が近いかも知れないが、史料が足りない。後北条でいうと三船台・蒲原が決定的敗戦だが、当主の討死は伴っていない。

三河が平均の半分程度となる。これにより人的資源の不均衡が生じ、三河国衆を駿遠の国衆が抑制できなくなったのかも知れない。

具体的人名

参戦・死去

  • 遠江:松井宗信
  • 駿河:今川義元

参戦不明・死去

  • 三河:戸田伝十郎
  • 遠江:井伊直盛・二俣扶長
  • 駿河:関口氏純・由比光綱・山岡景隆・長谷川以長

参戦・生存

  • 三河:菅沼久助
  • 遠江:天野藤秀・天野景泰
  • 駿河:朝比奈親徳・岡部元信

参戦不明・生存

  • 三河:奥平定勝・鵜殿長照・松平元康・牧野保成・菅沼定盈・田島新左衛門尉・大村綱次
  • 遠江:匂坂長能・飯尾乗連・朝比奈泰朝・小笠原氏興・小笠原元詮
  • 駿河:三浦元政・三浦正俊・朝比奈元徳・瀬名元世・四宮輝明・福島伊賀守・糟屋備前守・興津清房

不参戦・生存

  • 駿河:今川氏真・三浦氏満・葛山氏元

2017/10/22(日)今川義元は大規模な軍事動員をしたのか?

朱印「調」は本当に今川義元の印判か?

有光友学氏・小和田哲男氏の著述を見る限りでは、今川氏が用いた印文「調」の朱印は義元のものとされている。僅か6例しか残されていないこの朱印状だが、以下の理由から義元が大規模な軍勢催促を予定していた証として援用されている

  1. 永禄2年8月に大井掃部丞に宛てた滑革・薫皮を急いで徴発したこと
  2. 永禄3年4月に伝馬手形を発行していること

しかし、これは「今川義元が永禄3年5月に尾張口で戦死したこと」を前提にしてしまっているのではないか。他例をきちんと読むと、これは息子の氏真が発行した確率が圧倒的に高いことが判る。

逐一追ってみる。

1559(永禄2)年

8月8日

  • 戦国遺文今川氏編1470「今川家朱印状」(静岡市葵区駒形通・七条文書)

    於当国滑革弐拾五枚・薫皮弐拾五枚之事右、来年可買分、如相定員数、只今為急用之条、無非分様可申付者也、仍如件、
    永禄弐年八月八日/文頭に(朱印「調」)/大井掃部丞殿

これが最初の文書となる。義元が戦備に要したという考え方も可能だが、後に出てくる駿府浅間社での対応を見ると氏真が代替わりに当たって儀礼を整えるために徴発したという可能性もある。

8月28日

  • 戦国遺文今川氏編1475「今川家朱印状」(山形県鶴岡市・致道博物館所蔵文書)

    為持仏堂立置賢仰院之事。右、陣取諸役可除之、并於有狼藉輩者、注交名可令注進、其上可加下知者也、仍如件、
    永禄弐年八月廿八日/文頭に(朱印「調」)/酒井左衛門尉殿

宛所が酒井左衛門尉忠次である点から、三河での文書が多く残り、この時期三河にいた可能性がある義元発給と見るのが妥当ではある。但し、禁制は寺社が受給して伝来することが多いのに対し、この文書は酒井忠次が宛所だし、彼の家が保持していた。どことなく違和感がある文書ではある。

9月26日

  • 戦国遺文今川氏編1477「今川家朱印状」(静岡県葵区大岩町・臨済寺文書)

    駿河国上原新在家之事。右、任天文廿年之判形、永不可有相違、但甘利藤一郎分依為料所、百姓桜井申様雖有之、既自新在家興行之刻、道下之分者彼在家中切発之上者、至于只今、給主方又者号料所之内、雖及異儀、永可為林際寺支配、雖然道上之儀者、重以公方人可定傍爾者也、仍如件、
    永禄弐年己未九月廿六日/文頭に(朱印「調」)/林際寺(端裏書:林際寺 氏真)

ここでは決定的な文言があり、端裏書で差出人として「氏真」が記載されている。前の2文書と異なって、駿府に位置する今川氏最大の菩提寺臨済寺宛である点から、富士浅間社も駿府浅間社も氏真に切り替わっていたこの段階では氏真が発給したと見るのが妥当だろう。

1560(永禄3)年

3月3日

  • 戦国遺文今川氏編1499「今川家朱印状」(静岡市葵区宮ヶ崎町・静岡浅間神社文書)

    浅間宮三月会装束目録。一、面、四人分。一、宝冠、紺段子後ニ付、四人分。一、光、銅滅黄、四人分。一、七条袈裟、此内三条金裯、切交、一条段子、切交、何モ緒紅、四人分。一、袍、地朽葉、四人分。一、牟志、面段子、裏朽葉、房浅黄、四人分。一、袴、面段子浅黄裏、絹、四人分。一、襪子、四人分。以上。右、前々道具令破損之条、今度改之、所被成新寄附、仍如件、
    永禄参庚申年三月三日/文頭に(朱印「調」)蒲原右衛門尉元賢(花押)/宛所欠

ここでは前々の道具が破損したことを理由に装束を新調し寄附することが伝えられている。1558(弘治4/永禄元)年8月13日には氏真がこの駿府浅間社に対して「駿河国浅間宮御流鏑馬千蔵方郷役之事」を定めている(戦今1416)。この時には朱印の印文は「氏真」となっている。祭礼の復興を代替わりを契機に行なおうとしていた流れで考えると、これも氏真の発給と見てよいだろう。

3月18日

  • 戦国遺文今川氏編1503「今川家朱印状」(某氏書状文書)

    参州当知行古部郷内蓬生分事。右、今度粟生将監依令検地、同蓬生村共可検地云々、蓬生分之事者為各別、自前々為屋敷分之間、所出置判形明鏡也、然間古部郷将監知行分計可改之、雖然蓬生分共雖相改之、為給恩増分之条、可令所務之、但将監於有申子細者、互遂糺明可加下知者也、仍如件、
    永禄参年三月十八日/文頭に(朱印「調」)/小島源一郎殿

三河国内での裁定となり、義元の可能性がある。但し、検地増分に関わる訴訟への言及は、義元の場合永禄2年6月8日のものが終見(戦今1463)であり、この後は氏真が専ら対応している点を考えると何とも判断しがたい。

4月8日

  • 戦国遺文今川氏編1505「今川家伝馬手形」(慶応義塾大学図書館所蔵反町十郎文書)

    伝馬弐疋、無相違可出之者也、仍如件。足代玄蕃ニ被下之、
    永禄参年四月八日/朝比奈丹波守奉之、文頭に(朱印「調」)/駿遠参宿々中

義元は永禄3年3月12日に中間藤次郎宛に判物を出している(戦今1501)。なので水運に関しては管理を手放してはいないが、同年4月24日に氏真が丸子宿に伝馬の定書を出している(戦今1508)。この時の朱印状は角型の「如律令」でそこに疑問は残るが、伝馬関連は氏真が担当したと見るのが妥当だろうと考えられる。

この翌月の5月19日に朝比奈丹波守親徳は尾張口で義元敗死の現場に居合わせるため、どうしても義元発給の印象が強くなったのだろうか。とはいえ1ヶ月以上のタイムラグはあるし、伊勢大湊から祭礼用の何かを取り寄せようとした可能性も高い。

また、足代氏は戦国遺文今川氏編でここしか登場していない。但し、氏真が伊勢に預けた道具の扱いをやり取りした文書伝来で名が出てくる。何れも1573(元亀4/天正元)年比定で時代は隔たっているものの、伊勢大湊に関係した足代氏と氏真の繋がりを窺わせる。

足代文書

  • 戦国遺文今川氏編2542「塙直政書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    尚以道具之事、氏実被預候ハゝ、随其代物可被召ニ候、内々候之節目候事候、若非分なる儀にて其方ニ候ハゝ、又随其何之道ニも無理ニ可被召置にてハ無之候、有様可被申候、此外不申候。急度申候、仍氏実茶道具当所在之事、必定旨申ニ付て津掃被遣候、有様ニ被申、不被進付てハ、可為曲事由御意ニ候、具掃部可被申候、恐々謹言、
    十月廿五日/塙九郎左衛門尉直政(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2543「房兼・教兼連署状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    就関東船上下之儀、従濃州条々被仰越候間、則自是被出使者候、然者氏実当郷廉屋七郎次郎許へ預物之儀被相改候、追可致合意由可被申付候、万一至及異儀者、濃州被仰合、即時ニ可被加御成敗候、委曲尚口上被仰出候由所候也、恐々謹言、
    十月廿九日/房兼(花押影)・教兼(花押影)/大湊中

  • 戦国遺文今川氏編2544「大湊老分衆書状写」(賜蘆文庫文書三十三所収足代文書)

    角屋七郎次郎許へ御尋物之儀申付候処、彼御預ヶ物之儀、去秋中 氏実様江送申、其上七郎次郎儀も○[此一儀付、]十日以前ニ浜松へ罷下候由、親之七郎左衛門尉申事候、并浜松より御道具下候へ由之書状為御披見懸御目候、塙九郎左衛門尉殿へも御報可申上候へ共、此之趣可預御心得候、以上、
    天正元十一月五日/老分/津田掃部助殿・鳥屋尾石見守殿

まとめ

「調」の内容は氏真を示唆

○永禄2年

  • 8月8日 革納品を命じたもの どちらも可能性あり
  • 8月28日 酒井忠次に賢仰院への禁制を出したもの 義元の可能性が高い
  • 9月26日 臨済寺に裁定での勝利を伝えたもの 氏真の可能性が非常に高い

○永禄3年

  • 3月3日 駿府浅間社の装束寄附 氏真の可能性が非常に高い
  • 3月18日 小島源一郎に検地増分安堵 氏真の可能性が僅かに高い
  • 4月8日 足代玄蕃に伝馬発行 氏真の可能性が高い

2番目にある酒井忠次宛のものだけがどうも奇妙な印象だが、3番目以降は全て氏真を指しており、そこから1番目も氏真発給である可能性が高いといえるだろう。

酒井忠次が禁制をもらった賢仰院が大樹寺内にあったことを重視するなら、もう一つの可能性が浮かんでくる。

朝比奈泰朝である可能性

義元でも氏真でもない?

永禄元年閏6月20日(大樹寺宛・戦今1403)~永禄3年5月2日(佐竹丹波入道宛・戦今1510)の間、発給文書が存在しない朝比奈泰朝が、この間は氏真側近として「調」朱印状を発給していた可能性も若干残されているかも知れない。

泰朝の父である泰能は大樹寺宛の文書も残していることから、忠次宛文書の謎も解明されるほか、同時期に氏真が「如律令」朱印を併用していた事象も説明が可能になる。臨済寺に「氏真から」と書いたのは、この印が泰朝を示すものではないという念押しだったともとれる。

泰朝は後年の永禄11年9月21日に「懸河」という八角形の朱印を発行していた(奥山左近宛・戦今2190)。

  • 戦国遺文2190「朝比奈泰朝ヵ朱印状」(奥山文書)

    犬居可相通兵粮之事。右、毎月五駄充、奥山左近方為湯分差越之間、森口・二俣口雖為何之地、無相違可令勘過者也、仍如件、
    永禄十一年辰九月廿一日/文頭に(朱印「懸河」)/津留奉行中(上書:奥山左近方へ)

ただ、泰朝が老獪だった訳ではなく、永禄元年4月22日に初見史料(戦今1392)が見られるから氏真よりむしろ後発であった点はネックになる。若い氏真と共に試行錯誤していたか。

「調」と「帰」

そもそも今川家当主の印文は名前であることが前提で、属人的意味合いが非常に強い。義元と氏真は「如律令」ではあるものの、印の形がそれぞれ異なる。

  • 今川氏親:未詳○・未詳□・氏親□・紹僖□
  • 今川義元:承芳□・義元(1型□・2型▯縦長)・如律令○
  • 今川氏真:氏真○・如律令□

○は丸印、□は角印。但し義元2型のみは縦長の矩形。

例外となるのは氏親室の寿桂が用いた「帰」の角印で、これは「当主ではない」という意味で一文字の抽象的文字を用いたのだろうと考えられるかも知れない。但し権限は強かったようで、当主氏輝の名が入っていながら無花押の文書に「帰」を押して効力をつけた例がある。

であれば、家督移行期に極めて短時間に登場した「調」も、誰かが代行した可能性があるだろう。矩形の角を切り取った特殊な八角形である点も、並行して押された義元2型印が縦長矩形の特殊形であったこととあいまって、正規の矩形印である氏真の「如律令」を侵害しない意向を示すのかと推測できる。

以下にこの時期の義元・氏真と「調」の発行時系列を挙げる。末尾は戦今の文書番号。

1558(永禄元)年

  • 閏06月02日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 08月13日・氏真○1416
  • 09月02日・義元2▯1425
  • 12月12日・氏真○1437
  • 12月17日・氏真○1438
  • 12月17日・氏真○1439
  • 12月某日・義元2▯1441
  • 某月19日・義元2▯1442

1559(永禄2)年

  • 03月18日・義元2▯1451
  • 05月20日・如律令□1456
  • 05月23日・義元2▯1458
  • 06月10日・如律令□1464
  • 08月08日・調◇1470
  • 08月28日・調◇1475
  • 09月26日・調◇1477
  • 11月28日・如律令□1482

1560(永禄3)年

  • 02月22日・如律令□1497
  • 03月03日・調◇1499
  • 03月18日・調◇1503
  • 04月08日・調◇1505
  • 04月24日・如律令□1508
  • 05月10日・朝比奈泰朝判物 ※参考
  • 05月13日・如律令□1513

2017/10/15(日)織田信長への皆川広照初信

織田信長の対応

下記は全て1581(天正9)年に比定されている、皆川広照関連文書。

  • 増訂織田信長文書の研究0959「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶心候、馬形・乗以下無比類、彼是秘蔵不斜候、仍褶百瑞・虎革五枚・紅緒五十結相送之候、祝儀計候、謹言、 十月廿九日/信長(朱印)/長沼山城守殿

  • 増訂織田信長文書の研究0960「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

此使者至常州蜷川差越候、相模へ相送、自其彼方へ参着様、馳走専一候、此旨相州へも能々可申越候、猶西尾可申候也、 十月廿九日/信長(花押)/滝川左近殿

皆川広照は、その初信において「長沼」という本姓を名乗った。葦毛の逸物だったようで、形や乗り心地にまで珍しく言及している。そして信長は滝川一益に、この使者を相模まで送り、相州=北条氏直にも保護を通達するように指示している。

そして、「皆川」を「蜷川」と呼び間違えている。聞き違ったのと、それほど関心がなかったように見える。

取次の堀秀政の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p650「堀秀政副状」(下野・皆川文書二)

珍札令披見候、仍上様江為御礼、御馬三疋御進上候、即令披露候之処、被成御祝着候、殊葦毛別而御自愛候、委細以御書被成仰出候、次私へも同一疋栗毛、被懸御意候、寄思召御懇信珍重候、向後於此地相応御用被仰越、不可有疎意候、猶智積院前坊令申候間、不能審候、恐々謹言、 十月廿九日/秀政(花押)/皆川山城守殿御返報

秀政は信長と同日付で「馬3疋を進上したところ、葦毛を特別に気に入ったようだ。私にも栗毛馬をいただき光栄です。更に智積院が申します」と書いている。さすがに秀政は正しく「皆川」と呼んでいる。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p651「堀久太郎覚書案」(下野・皆川文書二)

覚。下つけの国みな川と申もの、いまた御礼不申上候、冥加の為ニ御座候条、御馬三進上申度候由候てひき上申候、その内くろあしけの御馬、関東においてすくれたるはや道之由申候、残二疋之儀ハよくも御座なく候へ共、はしめて進上仕候ニ、一疋ハあまり物すくなニ御座候とて、右分ニ御座候此御使ハみな川おぢ坊主智しやく院と申候、廿ヶ年はかり以前よりねころへかくもんに罷越在之を、去年わさとよひくたし、只今又さし上申候、然ハこゝもと一円無案内ニ御座候ニ付而、前坊を以申上候、以上、

これは秀政が使者に渡した覚書のようだ。ここでは種明かしがされていて、本当は葦毛の1疋を贈ろうとしたが、数が少ないのも如何なものかと3疋贈ったと書かれている。また、使者の智積院は広照の「おぢ=伯父・叔父」で20年前から根来にいたという、彼を去年下野に呼んで、今年また上方に上らせたとある。

徳川家康の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p652参考「徳川家康書状」(下野・皆川文書二)

今度安土江御音信、馬御進上候、遠路之儀、御造作令推察候、併信長馬共一段自愛被申、御使者等迄、各馳走可申候由被仰付、東海道公儀之上、無異儀帰路候、か様被入御念御懇之儀、於爰元始而之御儀候、於上方之御仕合共様子、彼使者淵底存知之事候、我々迄大慶ニ候、然者此方之儀、幸上辺路次中之儀候条、相応之儀ハ、不仰共不可有疎心候、次為書音之、乍さ少無上三斤、進覧候、委曲関口石見守令言上与口上候、恐々謹言、 十一月十二日/家康(花押)/蜷川山城守殿

相模までの路次保証を命じられた一益から要請を受けたのか、家康が広照に挨拶している。ところが、信長が始めた聞き違いが一益経由で家康にも及んでいて、やはり「蜷川」と呼んでしまっている。