2017/10/13(金)六郎と氏忠が同一人物かどうか

1575(天正3)年に比定されている虎印判状で、宛所の「六郎」と文中の「氏忠」が別人物と解釈できることから「北条六郎」という、氏忠ではない人物がいると黒田基樹氏が指摘したが、その後『』で両者は同一人物であると再比定されている(p79)。

ただ、ネット上ではいまだに「六郎と氏忠は別人」という古い指摘が流布している。改めて、史料から比定を検討して、黒田氏再比定が妥当であることを検証してみようと思う。

そもそも、六郎と氏忠が別人物だとすると「本しやうつほね書状」(埼玉県史料叢書12_0408・岩本院文書)で、氏政・氏照・氏真・氏規・氏邦・氏光と並んでいる「六郎殿」が誰だか判らなくなってしまう。

うちまささま、うちてるさま、うちさねさま、五郎殿・六郎殿・大郎殿・四郎殿

黒田氏が別人説を当所見出した懸案の文書は以下のとおり。

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

    (前欠)小曲輪 十人、内村屋敷へ出門 十人、板部岡曲輪 十人、関役所二階門 六人、同所蔵之番 十人、鈴木役所之門 以上 一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事 一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事 一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事 一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事 一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事 一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事 一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事 以上 右、定所如件、 乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

注意書きの部分を解釈してみる。

一、各門の開け閉めは、朝は六つ太鼓を打ったあと、日の出を見て開くように。晩は入会の鐘が終わってから閉めるように。この開け閉めの規則を破った者は、この曲輪の責任者が重く罰すること。但し、やむを得ない用事がある場合は、責任者で協議して一筆書き出し、日誌につけておき、帰陣した時に提出するように。隠れて脇から出し入れしたことが判明したら、処罰の対象とする。 一、当曲輪の毎日の掃除は厳密にするように。竹木は何があっても切ってはならない。 一、たとえ代理の者が出てきたとしても、病気になったりして欠勤する際、または所定の人員に不足があった際は、氏忠へ申請し、氏忠の考えに添うように。 一、夜間は、どの設備も6時まで寝ずの番をして土塁警邏をするように。但し、土塁や堀の裏へ上がったら芝を踏み崩してしまうので、芝生の外を歩くこと。 一、鑓・弓・鉄炮をはじめ、各自の道具を集め、今日23日に全ての設備に配置、具足・甲などまで迄、しっかりと置くこと。 一、番衆の中で不埒な者がいれば、たとえ主人だったとしても容赦なく、糊付けにして氏忠に報告すれば、褒美を出すだろう。もし御褒美がなければ、帰還後に目安として大途へ申し上げるように。望みの通り御褒美を加えられるだろう。 一、日中は朝の五つ太鼓から八つ太鼓までの三刻、その曲輪より3分の1ずつ休息するように。七つ太鼓以前には、全員が着到通りに曲輪へ集り、夜中はしっかり詰めておくこと。

ここで「氏忠」が出てくるのは、欠勤や兵員報告の向き先、かつその対処を一任されている存在として、また、密告者の情報の向き先である。

恐らく「六郎」が「氏忠」であった場合、「密告しても氏忠が褒美をくれなかったら、後で氏政に直訴せよ」と規定している点からだろうと思う。氏忠本人にこれを言うだろうかと疑問に思うのも無理はない。だが、それは近代的な文書様式による偏見に過ぎない。

この時代は、その文書によって利益を受ける人間がそれを保持する。利益を侵害されそうになった際に、文書を見せて権利を守るためだ。この場合、軍律を守ることが六郎の利益であり、それを支えるために発給されたのであれば、六郎=氏忠で特に問題はない。

六郎=氏忠が、指示に従わない者にこれを提示したシーンを思い浮かべてみよう。


あれこれ規則を読み上げるが、皆はうんざりして「まあ守れるようなら頑張ろうかな」ぐらいの温度だったとする。ところが、密告推奨の条文の辺りで舌打ちをしただろう。しかも「氏忠が応じなくても氏政が応じる」という念押しまである。現場の見逃しで氏忠をごまかせても、やたら細かい氏政は徹底的な調査を命じるだろう。

押し黙る部下を前にして、氏忠は「私自身にも密告はどうにもならぬ。せめて厳密に守備をしよう」と、物主たちの肩を叩いて励ます。

そして、宛所では仮名や官途で呼ばれながら、文中ではその本人を実名で呼ぶこともまた多い。

解釈を浅めに捉えて、六郎と氏忠が別人と考える論も全く無理ではないのだが、それに伴って「六郎と氏忠が別人だと、その他の解釈がより自然になる」という展開は特に見当たらない。むしろ「じゃあ六郎って誰?」になってしまい、それは比定の方向として宜しくない。

2017/10/11(水)史料解釈の混乱~武田義信室の伊豆逗留~

なぜか注目されていない史料

三国同盟崩壊の前奏曲

武田義信室は夫の死後に駿河国に戻るが、その途中、後北条氏が伊豆国三島に引き取ったという文書がある。余り言及されることはないものだが、翻刻に問題があったので史料がどう紹介されたかを時系列で書き出してみる。

  • 戦国遺文後北条氏編1010「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄10年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西降をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

三島における御新造の宿のこと。護摩堂に落着しました。相応の普請となるように直接見届け、指示して下さい。先日の湯道具の時にお伝えするのを忘れていました。『西降』を護摩堂に新設するようご指示下さい。

1990年刊行の戦国遺文後北条氏編によると『西降』という謎の言葉が出てくる。また、北条氏政の花押型から永禄10年と比定しているのだが、氏政の花押はちょうどこの頃に形態を変えている。

北条氏政花押

小田原北条氏花押考(田辺久子・百瀬今朝雄)1983年

  • 一類二型 永禄5年4月19日~永禄10年8月25日
  • 一類三型 永禄10年9月10日~永禄13年4月20日

文書は2月21日だから、永禄10年比定なら一類二型、永禄11年比定なら一類三型となる。この見分け方は判り易い。左下にある横棒が、縦棒とぶつかって突き抜ければ二型、手前で留まれば三型以降となる。

ところがこの翌年に刊行された小田原市史で状況が変わる。

  • 小田原市史小田原北条710「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄11年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西浄をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

まず翻刻だが「西降」となっていたものが「西浄」になっており、注釈がつけられている。

  • 西浄「禅院で西序(首座・書記等)の用いる厠」

つまり、氏政がうっかり伝え忘れたのは厠の新設指示だったとなる。とすればその手前にある「湯道具」も茶の湯や炊事というより、入浴用の備品か設備を指すように見えてくる。つまり、義信室と娘はある程度の期間滞在することが見込まれていたのだろう。

小田原市史では他の史料から、この護摩堂は三島大社別当の愛染院と比定し、永禄6年11月9日に後北条氏が「拾貫文之田地、百姓共ニ」を復活させていると指摘している(市史578/579)。この知行を愛染院が失ったのは天文12年と史料に書かれているから、20年ぶりに回復させたことになる。

愛染院は、今では溶岩塚しか残されていないが、近世までは結構規模の大きい真言寺院だった。

2月21日に氏政が工事を急がせていることから、3月には義信室が後北条分国に引き取られることになったのかも知れない。そこで氏政は寄り道としては最短になる三島を用意した。この位置は永禄12年以降戦場になるから、比定として永禄11年にしたのは無理がない。

義信室はいつまでここに滞在したか

下の文書は、今川被官の三浦氏満・朝比奈泰朝が、上杉被官に状況の説明をしたものだが、「以前に何でも情報共有するとの取り決めだったので報告します」という説明を足しつつ、北条氏康父子が仲介した義信室の駿河帰国に当たって、武田晴信が誓詞(起請文)を求めたことを書いている。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

    態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、 四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

恐らく、この4月15日以前に誓詞取り交わしが終了していて、それを上杉被官に知らせたのだと思う。とすると、4~5月のどこかで駿府に移ったと考えてよさそうだ。

問題となるのは、花押型が異なる永禄11年に新たに比定されたこと。小田原市史資料編小田原北条は、当主発給文書に採集を絞ってより厳密に比定をしている点から、花押型は一類三型であるという判断があったのだろうと思う。

『後北条氏家臣団人名辞典』(2006年)も『戦国時代年表後北条氏編』(2010年)も永禄11年比定となっている。

と、ここで収束するはずなのだが、この後がどうも混乱している。

ここからが問題点

戦国遺文今川氏編2165でこの文書が採集され、永禄11年比定となっているところまではよいのだが、翻刻が『西降』のままになっている。この史料集は2012年刊行で、明らかに小田原市史を参照せず、家臣団辞典か年表だけを見て比定年を修正しつつ、戦国遺文後北条氏編の翻刻をそのまま記載したのではないか。

更に翌2013年に『北条氏年表』が刊行されるが、ここではこの文書については触れられず、近世編著から全く史料と合わない記述をしている。

  • 永禄10年11月19日

    氏康・氏政の仲介によって、武田信玄の嫡子義信の妻であった今川氏真妹の駿河帰国が実現している[武徳編年集成]」

考証が進んでいるだろうという仮説に基づいて、刊行年が後の書籍を重視していたのだが、この考え方は改めないといけないようだ。先行研究を重視し、拙速よりは巧遅を尊ぶのが専門家の流儀かと考えていたのだが……。

2017/10/09(月)氏康が左京大夫から相模守になった時期

氏康と氏政はいつ官途を変えた?

永禄2年12月に隠居した氏康はその後も左京大夫の官途を使い続けている。比定ではない確実な史料で見ると、永禄11年に官途の入れ替えが確認できる。私の調査不足かも知れないが、年が判るものは今のところこれだけ。

  • 永禄11年2月8日の吉田兼右書状案(戦北4445)で「北条相模守」、同日吉田兼右書状案(戦北4446)で「北条左京大夫」。これは日記内に記載で年比定は確実。

年比定の文書でもうちょっと検討。

「左京大夫氏康」

  • 永禄3年8月8日の伊達晴宗宛ての書状(戦北638)
  • 永禄3年9月22日の蘆名修理大夫宛ての書状写(戦北642)

「北条左京大夫」

  • 永禄4年1月20日の足利義輝御内書(戦北4435)

「左京大夫氏康」

  • 永禄4年2月18日の佐々木近江守宛ての書状(戦北1521)
  • 永禄8年3月23日の上杉輝虎宛ての書状(神三下7433「足利義輝御内書」/7435「大館晴光添状」)
  • 永禄12年1月2日の松本石見守・河田伯耆守宛ての書状写(戦北1134)※初信のため旧官途を名乗った?

「相模守」

  • 永禄9年5月晦日の足利義氏書状(戦北4443)

「左京大夫」

  • 永禄9年6月27日の足利義氏書状写(戦北4444)
  • 永禄10年6月27日の足利義氏条書(埼玉県史料叢書12_314)※同書は氏康比定

「左京大夫氏政」

  • 永禄10年8月25日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1033)
  • 永禄11年5月26日の足利義氏宛ての書状(戦北1075)
  • 永禄12年3月26日の細川兵部大輔宛ての書状写(戦北1193/1194)
  • 永禄12年4月23日の伊達輝宗宛ての書状(戦北1199)
  • 永禄12年12月26日の上杉輝虎宛ての書状(戦北1365)

「相模守氏康」

  • 永禄12年3月21日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1185)

「北条左京大夫・北条相模守」

  • 永禄12年11月23日の上杉輝虎覚書写(戦北4459)

もう少し検討。

永禄12年1月2日の書状写を除外すれば、永禄8年3月23日~永禄9年5月29日の間に官途の変更というのが、年比定文書からの検討結果となる。その間にあった出来事のうち、氏康引退に関係しそうなものを列挙してみる。

  1. 永禄8年8月24日の武蔵御嶽出陣が氏康最後の出征となる
  2. 永禄9年3月13日に武田晴信が倉賀野攻囲で氏康・氏政が出陣予定と記述
  3. 永禄9年3月20~25日に上杉方が臼井攻囲に失敗
  4. 永禄9年3月28日に足利義氏が臼井後詰で氏康・氏政が出陣予定だったと記述
  5. 永禄9年5月13日に氏康隠居印「武栄」が現われる

1、3も契機になりそうな感触はあるが、4で出陣予定が語られていることから、5の直前ではないかというのが妥当かと思う。当初は永禄2年の隠居の後で様子を見てと思っていたのが、越後からの侵攻でそれどころではなくなり、臼井城からの撤退で上杉方が関東の中心部から撤退したのを見届けて官途の差し替えをしたのかなと。