羽柴秀吉の新出文書で「五人扶持」を支給せよという指示があり、報道記事では「五人扶持は現在の100万円ほどの価値」とあった。ちょっと疑問に思ったので検証。
『豊臣秀吉文書集』をざっと見たところ、簡易な記述で宛行いをしているものが複数あったが、何れも「石」を単位としている。「扶持」による記載は福島正則へ渡す米についてのもの。
- 豊臣秀吉文書集0193「羽柴秀吉切手」(青木氏蒐集文書・東大史影写)
ふちかた八木出来事。四人、五十日分、馬之大豆三斗、福島市松
此ほかにまめ壱石とらせ可申候、
天正七年五月十四日/秀吉(花押)/藤右衛門
ここでは4人分・50日分と明記している。これだけで藤右衛門が諒解して支給できるというのは、ある程度時価によらない「人扶持」基準があったのだろう。と思っていたら、次の文書を見つけた。
- 豊臣秀吉文書集0583「御次衆扶持方判物」(大阪城天守閣)
御次様衆扶持方十日分かし候
三百拾人、田中小十郎
三百人、谷兵介
三百人、藤懸三蔵
百八拾人、石川小七郎
六拾人、渡部勘兵衛
百人、高田小五郎
以上、千弐百五拾人
此米、六拾弐石五斗
天正十一年二月六日/秀吉(花押)/宛所欠
御次様衆に対して10日文の貸しとして米を渡すように指示している。1250人で米が62石5斗。
6250升÷10日=625升/日
625÷1250人=0.5升=5合/人
つまり、1日・1人当たりに換算すると5合の米が「扶持」として与えられたことになる。これを福島正則に当てはめると100升=1石となる。
新出文書では「五人扶持」としか書かれていないが、特に明記がなければ1年分となるのが後北条や今川で見られる形なので、とりあえずそう考えてみる。
0.5升×5人×354日=885升=8.85石(1人は1.77石)
そもそも、経済と生産の状況が全く異なる戦国期の「扶持」を現代の価値に置き換えること自体に無理がある(というか破綻している)と思うのだが、強引に計算を続けてみよう。
米の価格は玄米60kgが平成28年度の全国平均で1万4千円程度。これを1俵=4斗と考えると40升だから、1升は350円。885升では309,750円。むしろ100万円にもならない。
石高を使っていない、今川・後北条での「扶持」を見てみる。一人当たりに換算したもの。
- 5貫文「其時五拾貫拾人扶持分」戦今634・天文8年
- 6貫文「乗組四十人、此扶持給弐百四拾貫文」戦北1742・天正3年
- 5.9貫文「拾人、鉄炮衆(中略)五拾八貫六百七十文」戦北2734・天正12年
- 5貫文「百貫文、鉄炮衆弐十人之扶持給、但、一人四貫文之給、壱貫之扶持也」戦北3312・天正16
このように、時代を問わず5~6貫文が1人扶持となる。
但し、後北条氏では一騎合は「壱人拾貫文積」(戦北1233)としているから馬上の扶持は10貫文としている。その一方で「歩鉄炮廿人」は100貫文積であって5貫文の原則は守っている。このことは、明智光秀の「馬上は2人分にカウントする」とも合致し、全国的に相場が合っていたという点で興味深い。
ではこの1人扶持は実際にどの程度の財産だったのか。金山在城を指示した後北条氏の朱印状に明細が載っている。このときの1人当たりの扶持は2.4貫文で、臨時に4~6ヶ月分の扶持を支給したものと思われる。
- 2.4貫文「弐拾四貫文、同心上下廿人扶持銭、於館林麦百六十四俵二斗、大藤長門守・森三河両人前より、可請取之」戦北2882・天正13年
同心上下20人の扶持銭として24貫文が支給されているが、具体的には館林に行って、大藤長門守・森三河守から麦164俵2斗を受け取れとしている。
後北条氏は1俵が3斗5升(戦北3055)となる。俵から升へ換算してみると、
ここに2斗を追加
1文当たりの麦容量を計算
-5,760升÷2,400文=2.4升
在城期間は具体的に書かれていないが、この文書は3人の被官に全く同一金額が明示されているから、何らかの基準に沿って導き出されたと考えてよいだろう。
年間扶持給での麦容量に換算してみる。
-2.4升×5,000文=12,000升=約343俵
-2.4升×6,000文=14,400升=約411俵
5~6貫文の年間扶持は、麦に換算すると大体343~411俵。これを升に直して1日当たりの分量に変えてみる。
- 34,300升÷354日=約97升/日
- 41,100升÷354日=約116升/日
秀吉の例で見た、米5合/日が、関東での麦だと970~1,160合と、200倍にもなってしまう。麦と比較することに無理があるのか……。
気を取り直して、兵粮として米を扱っている場合の価格を探ってみる。
「陣中兵粮ニ詰、野老をほり候てくらい候よし申候、兵粮一升ひた銭にて百文つゝ、是もはや無売買由申候」(戦北3691)は、天正18年に関東に押し寄せた羽柴方が兵粮に窮していると松田康長が評したもの。「米1升が鐚銭100文もしたのが、いよいよそれも売られなくなった」と書いている。誇張表現だろうが、1升100文が法外な価格であるという認識は採用できる。
以下の文書では、22人・2ヶ月分の兵粮が20俵12升=712升となる。
- 戦国遺文後北条氏編0459「北条家朱印状」(鳥海文書)
峯上尾崎曲輪下小屋衆廿二人之内、二ヶ月分兵粮廿俵十二升、此内拾俵六升、只今出之候、残而十俵六升、来三月中旬ニ可出之候、当意致堪忍、可走廻候、猶致忠節ニ付而者、始末共ニ給恩重而可相定者也、仍如件、
二月廿七日/(虎朱印)/尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助
1人・1日に換算する。
これは秀吉の場合の扶持と近似する。となると関東の米価が大きく異なった訳ではなく、麦の価格が米の1/200だった可能性が考えられる。
間に兵粮という概念が入っているので確証はないが、今川・後北条が5~6貫文とした扶持が、秀吉の1.77石と合致すると想定してみて、米1升の価格を計算してみる。
- 5,000文÷177升=約28文/升
- 6,000文÷177升=約34文/升
松田康長は「鐚銭で100文」と書いており、鐚が1/4程度の価値だとすればむしろ安価ではないかと考えられる。ここは難題。ただ、東西で鐚銭・精銭の考え方が異なったという永原慶二氏の指摘もあり、遠征した羽柴方が使ったのが西国で主流の宋銭で、それが康長には鐚と認識された可能性もある。