2017/10/15(日)織田になりたかった信康
「織田信康」という概念
信康が、松平なのか徳川なのかというのは専門家が検討しているところだと思うが、信康本人は「織田信康」になりたかったんじゃないかと、ふと思ってみた。後北条でいうと娘婿とはいえ被官だった綱成が、その息子の代に一門格になった例もあるから、それを狙ったんじゃないかと。
織田分国における後継者レースと考えると、天正3年に信忠合力で出張したがった信康の意図が判るような気がする。だがそれは信長に謝絶されてしまう。その辺は下の史料で判る。
-愛知県史資料編11_1114「織田信長黒印状」(野崎達三氏所蔵文書) 1575(天正3)年比定
廿五日折紙今日廿八到来披見候、仍武節落居候段、誠以早速入手候事、感悦無極候、併無由断情を入如此候条珍重候、殊即至岩村出陣事、尤以可然候、旁祝着不斜候、度々如申菅九郎若年之間、万々肝煎専一候、就其松平三郎出張事、於此上者不入事候、被相留候由近比可然候、我々昨日廿七京着候、岩村表事節々注進簡要候、恐々謹言。猶々炎天之時分、方々辛労ニ候、 六月廿八日/信長(黒印)/佐久間右衛門殿
25日の書状、今日28日に来て拝見しました。武節が落居し、本当に素早く入手できたとのこと。感悦極まりありません。そして油断なく精を入れてこのようになったのは、珍重です。特に、すぐに岩村に出陣したことは、もっともで然るべきことです。色々と祝着なのは斜めならざることです。度々伝えているように、菅九郎は若年ですから、全てにわたって肝煎が大切です。それについて松平三郎が出張することは、この上においては要らざることです。お留めになるのが、近頃では然るべきことでしょう。私は昨日27日に京に着きました。岩村表のことは、細かく報告するのが大事です。 なおなお、炎天の時分で皆さんご辛労です。
この年の12月に水野信元が死に追いやられている。信元・家康の認識では、水野・徳川は織田の同盟相手だった。家康は微妙に従属を認めていたものの、信元は、被官になることを明白に拒絶し殺されたのではないか。信元の死に当たって、同じような曖昧な隙間にいた久松俊勝は隠居したとも伝えられ関連が想像される。
信康は焦ったのではないか。信元の死によって事実上の被官化を認めさせられた徳川にあって、信忠はさておき、信孝・信澄・信孝に水を明けられた状況が、信康の反抗を促し、信長娘との不和を招いたか。
若手の競合
信康が競合相手と見なす候補は4人いる。
生年
信忠 1557(弘治3)年
信澄 1558(永禄元)年?
信康 1559(永禄2)年
信雄・信孝 1570(元亀元)年
初陣
信忠 1572(元亀3)年
信康 1573(天正元)年?
信孝 1574(天正2)年
信澄 1575(天正3)年
信雄 1574(天正2)年
この5人の出世レースはかなりシビアだったのかも知れない。信康が「不覚悟」で失脚したのも、信雄が焦って伊賀に攻め込んで敗退したのも、明智光秀が信長を討った際に「信澄が噛んでいる」という噂がしきりに出たのも。
図抜けた存在のはずの信忠ですら、甲信攻めでは拙速で功を求めている。「そろそろ戦乱も終わりそう」という時代の空気が、こういった若手の内部闘争を引き起こしたのかも知れない。。