2017/09/24(日)戦国期の「嗜」の意味

後北条氏の例

個別の用例

被官に知行を宛行う際に、厳密な嗜みを求めたものがある。

  • 戦国遺文後北条氏編0506「北条家朱印状写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)

    伊波知行之書立。百九拾壱貫五百文、富田九拾壱貫六百文、生沢七拾壱貫文、宮分四拾九貫六百卅二文、杉崎分卅九貫百文、千津嶋之内、三浦分、以上四百四拾弐貫八百卅二文、此人数廿八人、此内六騎馬乗、大学、廿八人、同、修理、以上五十六、此内十二騎馬乗、右、人衆之嗜、如此可致、毎陣両人互相改、厳密ニ可申付、少人衆不定、又者武具以下嗜至于無之者、其者を払、後年ニ者一人ニ可申付者也、仍如件、
    弘治二年丙辰三月八日/(虎朱印)/伊波大学助殿・同修理亮殿

ここで「人衆之嗜」とあるのは、決められた動員数を揃えることを指す。次にある「武具以下嗜」は武装品を用意することを指している。この「用意」が数を示すものか、内容(外見・稼動可能性)を指すのかはここでは不明。

次に、大藤式部丞が着到定を出されたものを見る。この時は武田晴信との合同作戦が想定されていて、より厳密な規定が下されている。

  • 小田原市史小田原北条0504「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵桐生文書)

    今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗此時一廉可嗜事。一、本着到、百九十三人也、此度四十四人不足、大藤、本着到、七十四人也、此度三十五人不足、富嶋、本着到、五十四也、此度二十八人不足、大谷、本着到、八十壱人也、此度三十一人不足、多米、本着到、六十人也、此度廿二人不足、荒川、本着到、卅人也、此度七人不足、磯、本着到、廿二人也、此度無不足、山田、本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、
    十月十一日/(虎朱印)/大藤式部丞殿・諸足軽

「この時だからこそ一層嗜むように」という指示の前には「一騎一人でも集めよ」という動員数での要望と「鑓・小旗・馬鎧などを美麗にせよ」という武装の外見向上の要望がある。恐らくこの2項目をまとめての嗜みなのだろうと考えられる。動員数については、この後の文で「前回動員時に不足していた人数」が事細かに書き出されている。

動員数厳守・武具美麗のほかの用途もまだあって、息子に「嗜みがなければ話にならない」と諭す氏康の書状もある。

  • 埼玉県史料叢書12_0362「北条氏康書状写」(新田文庫文書)

    (抜粋)一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候

この場合、氏邦からの矢・鉄炮の要請に対して「際限なく使うからだ、馬1疋、太刀1腰も入れられないとは、どうにも嗜みのないことだろうか。是非に及ばない」とある。前文が切れていて正確な情報は確定できないが、武具の数的準備不足を「嗜無之」としている。

一方で、武具については「稼動可能にするため」もしくは「外見を整えるため」のメンテナンスを嗜みとする例が多い。

  • 戦国遺文後北条氏編1696「北条氏邦朱印状」(逸見文書)

    (抜粋)いか様ニも兵粮を嗜

  • 戦国遺文後北条氏編1923「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)

    (抜粋)無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候

  • 戦国遺文後北条氏編3237「北条氏照朱印状写」(武州文書所収多磨郡木住野徳兵衛所蔵文書)

    (抜粋)天下御弓矢立の儀ニ候間、諸待之嗜此時候、鑓・小旗を始、諸道具新敷きらひやかに可致事

前述した大藤式部丞での例では、着到で定めた定員を厳守することが嗜みだったが、これに加えて「嗜み」として自発的に動員することも指していて例が多い。

  • 戦国遺文後北条氏編2316「北条氏邦朱印状写」(彦久保文書)

    (抜粋)秩父差引之外嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3380「権現山城物書立写」(諸州古文書十二武州)

    (抜粋)新左衛門尉嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3790「北条家朱印状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)

    (抜粋)着到之外、少ゝ相嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3229「北条氏政着到書出写」(井田氏家蔵文書)

    (抜粋)来春夏之弓箭専一之間、縦五十人之間ニ候共、着到之外被相嗜者、可為真実之忠信候

  • 戦国遺文後北条氏編3261「北条氏忠朱印状写」(諸州古文書五)

    (抜粋)然者着到之人衆之儀者不及沙汰、此時ニ候間一騎一人も相嗜可走廻

まとめ

  1. 動員数の厳守
  2. 武具の数値的準備
  3. 武具のメンテナンス確保
  4. 規定動員数以外の動員

後北条以外の例

葛山氏元の場合

後北条氏の例で分類した、武具の数値的準備を指していると思われる。但し、100貫文を宛行って具足・馬などの嗜みを求めるが、数値は決めていない。

  • 戦国遺文今川氏編0959「葛山氏元朱印状」(沼津市獅子浜・植松松徳氏所蔵文書)

    今度尾州へ出陣ニ、具足・馬以下嗜之間、自当年千疋充可遣之、弥成其嗜可走廻者也、仍如件、
    天文十九年庚戌八月廿日/(朱印「万歳Ⅰ型」)/植松藤太郎殿

これは相手によって要望が制限されているようで、後北条氏もこの植松藤太郎には厳密な数値は決められなかった。

  • 戦国遺文今川氏編2395「北条家朱印状」(沼津市獅子浜・植松文書)

    五十貫文、給。此内、廿五貫文、段銭にて被下。廿五貫文、於神山之内給田ニ被下。右員数、葛山一札之任筋目遣之候、無相違可請取、猶弓矢方相嗜走廻次第、可被重御恩賞者也、仍如件、
    巳閏五月十四日/(虎朱印)/植松右京亮殿

念のため同じ時期の清水新七郎宛のものを見ると、きっちり軍役の賦課数が決まっていた。これは清水が既に後北条被官だったからで、植松の場合は今川被官との両属状態にあったためだと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編1233「北条氏政判物写」(高崎市清水文書)

    感状之知行書立之事、千八百七拾四貫文、葛山領佐野郷弐百貫文、ゝ、葛山堀内分百貫文、ゝ、清五郷以上弐千百七拾四貫文此内、千貫文 先日感状之地、千七拾四貫文、一騎合百六騎但、壱人拾貫文積、百貫文、歩鉄炮廿人。右、以今度之忠功如此申付候条、父上上野守走廻間者別様ニ致立、其方一旗ニ而可取、以恩賞之地致立人数、可及作謀者也、仍而状如件、
    永禄十二己巳壬五月三日/氏政公御有印綬有/清水新七郎殿

明智光秀の場合

光秀は被官の野村七兵衛尉の戦功に対して「勝利したのは連綿と嗜んだから」と賞している。この嗜みは、後北条でいう動員数厳守を指すように見える。

光秀についてはもう1例ある。

  • 八木書房刊明智光秀039「明智光秀書状写」(松雲公採集遺編類纂・野村文書)

    今度者、各依粉骨得勝利候、連々嗜之様現形候、仍疵如何候哉、時分柄養生簡要候、早々可越候之処、爰元取乱遅々相似疎意候、尚追々可申候、恐々謹言、
    九月廿五日/十兵衛尉光秀(花押)/野村七兵衛尉殿

これは家中軍法で触れられた「嗜」で、着到定めの定員を決めた後に「さらに相嗜みは寸志でも見逃せない」となっている。「寸志」の他例が手持ちになくて、現代語と照合すると規定外動員の推奨にもとれる。但しこの後に、分際(恐らく動員数)に満たない者は応相談としている。

このことから、一先ずは動員数の厳守と規定外動員の推奨を兼ねた文言だと考えておきたい。

蛇足だが、これに続けて「外見を省みないとは言ったが~」と書かれていて、事実、後北条のように軍備の美麗さや寸法などは規定にないことから、光秀の軍はこの辺はバラバラだったと考えられる。

  • 八木書房刊明智光秀107/108「明智光秀家中軍法」

    (抜粋)猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗以掠 公務、云袷云拾存其嘲対面々重苦労訖、所詮於出群抜卒粉骨者、速可達 上聞者也

2017/09/24(日)織田信長は家臣の築城場所を決めていた?

織田信長から長岡藤孝への書状

奥野高広氏が『増訂織田信長文書の研究』で「信長の許可がなければ、その家臣は築城できない」ということを指摘している。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p526

    居城は新しく宮津に築きたいとの希望と、普請を急ぎたいとの上申を諒承した。そして「惟任光秀(光秀は丹波亀山城にあった)の方にも朱印状を発給したから相談をし、堅固に築城することが肝心である。」と指令し、次に十五日に大坂に行き、畿内地方の城郭の大略を破却した旨を附加している。宮津城は宮津市の東方宮津湾の湾首に位置している。信長の指示によって惟任光秀の方から人夫を多く送った(『丹州三家物語』等)。大名が居城を築くに当たっても信長の許可を要したことが看見される。そして畿内地方で城破りが実行されている。

ところが、その根拠となる文書を見てみると、そうは言っていないようにも受け取れる。

  • 増訂織田信長文書の研究0889「織田信長黒印状」(肥後・細川家文書二)

折紙披見候、仍其面之儀、無異儀之由、尤以珍重候、然者、居城之事、宮津与申地可相拵之旨、得心候、定可然所候哉、就其普請之儀、急度由候、則惟任かたへも朱印遣之候間、令相談丈夫ニ可申付け儀肝要候、次去十五日至大坂相越、幾内ニ有之諸城大略令破却候、漸可上洛候之条、猶期後音候也、謹言、
八月廿一日/信長(黒印)/長岡兵部太輔殿

お手紙を拝見しました。さてそちら方面のこと、異常はないとの由、ごもっともで素晴らしいことです。ということで居城のこと、宮津という地にお作りになるとの旨、心得ました。きっと適した所なのでしょうね。その普請についてお急ぎとの由、すぐに惟任方にも朱印状を送りましたから、相談していただき、頑丈に指示することが重要です。次に、去る15日に大阪へ行き、畿内にある諸城を大体破壊しました。何れ上洛するでしょうから、更に後の連絡を期します。

藤孝が信長に「宮津に城を築きます。急いで作りたいので物資徴発の許可を下さい」という連絡をしたのだろう。だから信長は応じて光秀にも助力の指示を出した。宮津に築城することを決めたのは藤孝であって、それを信長と情報共有はしているが、追認すら得ようとはしていない。

ここを詳しく見て、奥野氏が何故読み違えたのかを検討してみたい。

宮津与申地可相拵之旨、得心候

「与」は仮名の「と」と同じ。ここの「可」は命令という場合と、未来予測という場合、両方で解釈が可能だが、この後の「得心候」がここで変わってくる。

宮津という地にお作りになるべきとの旨、心得ました。

  1. 宮津という地にお作りになるようにとの旨、決裁しました。
  2. 宮津という地にお作りになるだろうとの旨、承知しました。

どちらかはまだ決められないのだが、しかし次の文で信長は重要なことを書いている。

定可然所候哉

「定」は「定而」の略で「明らかに・必ずや・きっと」。「可然所=しるべき所」はより適した場所を指す。これに「哉」で疑問形にしている。自問しているような形で「~なのだろうね」という言い回しでも使う。

つまり、独り言のように「きっといい場所を選んだんだろうなあ」と書いている。宮津築城が信長の指示によるものだとしたら、この書き方はおかしい。たとえば藤孝が宮津築城を申請して信長が決裁するのだとしても、無責任な言い方になってしまう。

そもそも信長が行なった具体的支援は普請へのリソース確保だけで、強力な統制をかけたとはとても言えない。近世に行なわれた「一国一城令」や、徳川家の大名統制を念頭に置いて読んだために、奥野氏の解釈は偏ってしまったのではないか。

北条氏政の場合

最後に、北条氏政が猪俣邦憲に出した書状を見てみる。ここで氏政は「状況が判らなくて不審だ」「兵数が足りていないだろうから、普請を安心してやらせるために、真田は置くな」「絵図に描いて再度報告しろ」と書いている。

  • 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書)

書状具披見候、なくるミへ矢たけ之権現山取立儀、難成子細候、度ゝ模様不審ニ候、留守中ニ而、自元人衆も可為不足候、普請心易させて、真田者置間敷候、如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候、謹言、
卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿

これに比べれば、先の信長の書状は放任に近いようなものだろう。

2017/09/06(水)今川攻めで徳川が武田を利用した可能性

井伊谷占領時の但し書きに武田が出てくる件

1568(永禄11)年に今川氏真を攻める際、徳川が遠江、武田が駿河という分割協定があったと通説で言われているが、史料を見るとそんな単純な話じゃないように見える。

12月12日の起請文・判物で、徳川家康は井伊谷侵攻に当たり、武田晴信から何を言われようと与えた知行は保証するとしている。

  • 戦国遺文今川氏編2200「徳川家康起請文写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若自甲州彼知行分如何様の被申様候共、進退ニ引懸、見放間敷候也、其外之儀不及申候」

  • 戦国遺文今川氏編2201「徳川家康判物写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也」

これは、今川攻めが武田主導で行なわれていて、三河に隣接する井伊谷ですら家康が保証できるか不透明だったことを示す。

武田晴信の怒り

その後家康は後北条と手を組んで、武田とは敵対する。この裏切りへの怒りを、晴信は織田信長にぶちまける。

  • 戦国遺文今川氏編2371「武田晴信書状」(神田孝平氏所蔵文書)

態令啓候、懸川之地落居、今河氏真駿州河東江被退之由候、抑去年信玄駿州へ出張候処、氏真没落、遠州も悉属当手、懸河一ヶ所相残候キ、経十余日、号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ、其已後、北条氏政為可救氏真、駿州薩埵山へ出勢、則信玄対陣、因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故、懸河落城候上者、氏真如生害候歟、不然者三尾両国之間へ、可相送之処ニ、小田原衆・岡崎衆於于半途、遂会面、号和与、懸川籠城之者共、無恙駿州へ通候事、存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候、此所如何、信長御分別候哉、但過去之儀者不及了簡候、せめて此上氏真・氏康父子へ寄敵対之色模様、従信長急度御催促肝要候、委曲可在木下源左衛門尉口上候間、不能具候、恐ゝ謹言
追而、上使瑞林寺、佐々伊豆守越後へ通候、津田掃部助者為談合、一両日已前着府候、
五月廿三日/信玄(花押)/津田国千世殿・夕庵

「遠州も悉属当手」とは、武田主導で今川を攻めたのだから遠江は武田のものという認識。

「号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ」は面白い。家康は信長の先方衆として出陣したという指摘がまずある。晴信としては信長との共同作戦という座組みがまずあって、その中で家康が一部隊として動いたという認識だ。そして事前の約束として、家康が遠江の人質等を回収することを希望したので任せた、ということになる。

その後、北条氏政が駿河に出てきて晴信が手間取っている間に、家康は後北条と「号和与=和睦と称して」掛川で籠城していた者を逃がしてしまった。これを晴信は

「存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候」

「思ってもみなかった状況だ。氏真・氏康・氏政への和睦をしないことは、既に家康の起請文で明らかだ」

と糾弾する。これを信長はどう考えるのか、とまで詰め寄った後で一転して、とはいえもう過ぎてしまったことだから、これからはせめて家康に、今川・後北条と敵対するよう指導してくれと依頼している。

家康は、晴信を利用して遠江を奪い、武田が駿河で敗色濃厚と見るや、掛川を確保するために独断で後北条と結んだ。結果が全ての戦国期でも、さすがにあざとい動きでこれは見事。ただ、その反動は後々まで残って、武田が遠江と三河へ執拗に攻撃をかけるようになる。

限られた史料ではあるが、このように理解するとすっきりする。

だけど、近世の価値観では「神君がそのような卑怯な行動はしない」と躍起になったのではないか。通説だと「晴信が先に遠州にちょっかいをかけたので、家康は報復として氏真を助けた」みたいに書かれている。

その以前に家康が今川氏真に逆心した時のことを「あれは仕方がなかった」というストーリーに仕立てた近世編著からしたら、この逆心もあれこれ捻じ曲げた解釈を広めた可能性があるだろう。

人質の安否

家康が今川・後北条と和睦するに当たり、徳川から武田に渡されていた人質はどうなったのだろうか。2月23日に出された山県昌景書状がその時の様子を少し窺わせている。この書状で昌景はごまかしているが、武田方は敗色が濃厚になっていて駿府を一時奪われている。

昌景書状によると、酒井忠次から「人質替=人員変更」に関して武田方に申し出たものの返信がなかったのがまずあったようだ。昌景は担当の3人(上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守)が安部山地下人の反乱に連座して出仕を停止されていたとする。昌景自身はこの人質替の事情を知らなかったと弁明しつつ、「最終的には甲府のご息女はお返しするでしょうから、ご安心下さい」と結んでいる。

とすると、この人質替とは他例でいう人員変更ではなく、当座の人質を返還することを意味するようだ。忠次の娘が無事に帰れたかは判らないが、和睦と掛川開城が5月になったのはこの辺の事情もあったのかも知れない。

  • 戦国遺文今川氏編2280「山県昌景書状」(東京都・酒井家文書)

今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、最前之首尾相違、貴殿へ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之体、以此故不慮に三・甲可有御疑心之旨、誠於于其も迷惑に候、此度之様体者、当国安部山之地下人等企謀叛候之間、過半退治、雖然、山中依切所、残党等于深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之処に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於于甲州大細事共に不得下知而不構私用候、況是者敵味方相通儀に候之処、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間屢幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之体に候、元来於某人質一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐ゝ謹言、
二月廿三日/山県三郎兵衛尉昌景(花押)/酒井左衛門尉殿御陣所