2017/08/07(月)特殊な兵士への言及

特殊な兵士とは何か

  • 一般的な足軽などが夜襲・奇襲をかけるために伏せる「伏兵」

  • 最初から特殊な部隊と認識されている「透波」

  • 戦今2415は「従前々花島為同心之処、今度懸川伏致内通」と、敵城内の内通者の状態を指して「伏す」と表現していて特殊。

言葉のつながり

確実に関連している言葉

  • すつは(透波)=しのひ(忍)

  • 伏兵=くさ=草

状況から近しいと判断できそうな言葉

  • 岡谷隼人の足軽が命じられる想定の「かまり」は伏兵ではないか。

  • 山岳地帯での招集が目立つ「野伏」は透波に近いのではないか。

具体的にどんな行動をしていたのか

特殊部隊が活躍したというと、何か変わった作戦をとったという予想もできる。ということで、文書によく出てくる「計策」の具体例があったので書き出してみた。

「今度松平左衛門督逆心之刻、兄弟八人相談、九久平仁中条与三郎・松平田三左衛門尉楯籠之処、間廻計策城主市兵衛尉共立出」(戦国遺文今川氏編1113「今川義元判物写」)

「先年松平左衛門督逆心之刻、父六郎左衛門尉同前ニ廻殊策、松平伝左衛門尉・中条与三郎人数楯籠之処、城主市兵衛共立出」(戦国遺文今川氏編1671「今川氏真判物写」)

  • 松平左衛門督が反乱→松平田(伝)左衛門尉・中条与三郎が九久平に籠城

  • 鱸越前守・六郎左衛門尉ら兄弟八人が計策を巡らせる→城主市兵衛と一緒に脱出

後世の人が考えるような「計策」ではなく、単純に機転を利かせて城主と一緒に脱出したというだけの話だったりする。その他の例を見てもそのレベルだろうと思われ、本田某がやり遂げた葛西城の忍びによる奪取は相当なレアケースだったように思われる。

原文

●かまり

一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、一、かまりありて事も岡谷下知之ことく、備をあけへく候、一、いつれのものなりとも、そなへはにをゐて、かりそめの事なり共、致雑談ましく候、はやと一人斗物を可申付事、以上、拾三ヶ条、すこしなり共そむくニ付而ハ、なにせうしんも入ましく候、くせことなるへき者也、仍如件、
五月十日/北条氏邦朱印在/岡谷隼人殿・東根小屋衆中・猪俣代
戦国遺文後北条氏編3982「北条氏邦朱印状写」(北条氏文書写)

●すつは(透波)・しのひ(忍)

只今注進之処、自信濃、すつは共五百ほと参、其地可乗取之由、申来候、昼夜共ニ能ゝ可用心候、きてゝゝ江何時も、宵あかつき夜明番、肝要ニ候、何時も一番九ツと之間あけ出、此用心尤ニ候、只今さむ時ニ候間、月夜ならては、しのひはつく間敷候、何れも物主共、覚番ニ致、夜之内三度つゝきてゑ、石をころはし、たいまつをなけ、可見届候、為其申遣候、恐ゝ謹言。追而、時分柄ニ候間、火之用心尤候、何れも昼ねて、夜可踞候、如法度、敵之足軽出候者、門ゝをとち可踞候、此一ケ条きわまり候、又足軽ふかく出間敷候、以上、
月日欠/差出人欠/宛所欠
戦国遺文後北条氏編2431「北条氏邦書状写」(諸州古文書十二武州)

葛西要害以乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事。一ヶ所、曲金。二ヶ所、両小松川。一ヶ所、金町。以上。一、代物五百貫文、同類衆中江可出事。以上。右、彼地可乗取事、頼被思召候、此上ハ不惜身命、可抽忠節者也、仍状如件、
永禄五年三月廿二日/氏康(花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0750「北条氏康判物」(本田文書)

●草(くさ)

昨日者入来、遥ゝ有之而遂会面、満足ニ候、殊昨夜を被出、敵十余人被討捕族生捕、奥州へ被差越候、心地好仕合ニ候、今日小田原江罷帰之間、委細ニ可申上候、猶関山口上ニ申候、以上、
霜月廿八日/氏邦(花押)/宛所欠(上書:大藤式部丞殿参安房守)
戦国遺文後北条氏編2292「北条氏邦書状」(大藤文書)

●伏(伏して)

従前々花島為同心之処、今度懸川致内通、忠節之至也、然間彼跡職出置之上、永不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件、
永禄拾二己巳年七月廿九日/家康(花押影)/天野宮内右衛門尉殿
戦国遺文今川氏編2415「徳川家康判物写」(東京大学史料編纂所架蔵遠江国風土記伝巻八)

●野伏(のぶし)

此度従日尾野伏相触処ニ、何も罷出走廻由、諏方部主水助申越候、肝要候、帰城之上可褒美者也、仍如件、
未七月廿七日/(北条氏邦花押)/山口物主上吉田壱騎衆其外衆中
戦国遺文後北条氏編1496「北条氏邦感状」(山口福一郎氏所蔵文書)

今度信玄出張之刻、野伏以下相集、抽走廻之由、諏方部主水助申上候、誠以感悦候、弥向後武具等相嗜、走廻ニ付者、可扶持者也、仍如件、
元亀二年辛未極月三日/氏邦(花押)/高岸対馬守殿
戦国遺文後北条氏編1563「北条氏邦感状」(高岸文書)

改年之御慶賀雖事旧候、猶更不可尽端候、従甲・佐節々雖御通用候、在存分弥々与不被申合候、就之此度使以被申入候、万端可然様ニ御取合専肝存候、一、当月至于下旬、正大居住之地へ可被押詰分ニ候、累年自相州房総被懇望候間、正大引汲、此節後詰可有之内存被承届候、年来太田江被申合御首尾候間、至于其義者相州へ被及御行候様御調相極候、猶甲府へ茂此旨趣使者以被申述、御父子被遂御談合御馳走所仰候、一、義頼手前被明隙候者、幸甲・佐江被申合迄者在御内談、関東御静謐不可有程候歟、此等之儀不及申展候、御分別過間敷候、一、長・万之義、証人指越被申、無二被守当方候、可御心安候、一、去秋已来甲・佐両野州被立御馬如思食御静謐、於于当方茂本望被存候、一、旧冬極日号吉宇与地へ正大自身夜中ニ被動候処、兼日無手透被申付候間、引■ニ野伏掛五十余人討捕候、其外敗北候、味方手負一人茂無之候、可為御大慶候、此上小滝本意之儀不可有程候、一、大田以愚札被申達候、并北殿へ被及書札候、宜御取合頼入之段被申候、一、老父以書中可申達候へとも、亀山之地ニ踞候間、無其義候、非無沙汰候、委細彼使口門被申含候条、不能具候、恐々謹言、。追啓、甲府へ之使者路次中被入御念義、頼入之由被申候、将又御老母御達者御義承度候、老父不踞候間、為介不申候、御心得奉頼候、以上、
正月十一日/岡本兵部少輔氏元(花押影)/梶原殿参御宿所
埼玉県史料叢書12_0582「岡本氏元書状写」(賜蘆文庫文書四十五)

<抜粋>廿本、鑓、野伏
午ノ二月廿五日/(朱印「翕邦把福」)/秩父孫二郎殿・同心衆中
戦国遺文後北条氏編2316「北条氏邦朱印状写」(彦久保文書)

●伏兵

向多留致伏兵、城主始牧和泉守次男数多討捕由、対安房守注進状遂披見候、誠心地好高名感悦候、弥無油断可抽粉骨候、謹言、
三月十四日/氏政(花押)/富永能登守殿
戦国遺文後北条氏編2151「北条氏政感状」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

去月廿四日、向足利伏兵之砌、終日抽而走廻之由、神妙候、弥可相稼候、謹言、
二月二日/氏直(花押)/桜井武兵衛尉殿
戦国遺文後北条氏編3637「北条氏直感状」(島根県松江市・桜井元昭所蔵)
※「一、足利ニ而くさノ時、朝より昼比まて仕合御座候、其時われらはしりめぐり候、氏直かん状ヲ持申候事」(群馬県史資料編3_3693「桜井武兵衛覚書」)と符合。

今度上野表就令出馬、為物見遣候刻、伏兵起候処、即時追散太刀討之、高名誠以神妙之至也、依之、為加増百貫文宛行者也、弥可被尽粉骨候、仍如件、
弘治二年霜月十三日/氏康/佐久間左近殿
戦国遺文後北条氏編0531「北条氏康判物写」(浅羽本系図十三)

武州河越籠城之内走廻、特ニ去正月松山筋伏兵之砌、敵以多勢雖馳向候、旁ゝ尻持被成之故、無相違候、誠以神妙之至候、帰宅之上、氏政江取合可申、為証文、判形進置候者也、仍如件、
永禄四年辛酉壬三月廿七日/左衛門佐氏尭(花押)/畑彦十郎殿
戦国遺文後北条氏編0693「北条氏尭判物」(福田文書)

今度越国人数、向小田原相働之刻、為加勢申付候処、以一身之覚悟、武州河越令籠城、数度竭粉骨、殊於河窪口伏兵砌、抽諸勢、渡辺三蔵両人入馬、彼敵押立候、軽身命、被鑓手二ヶ所之段、太以所無比類也、其上於平方口、最前ニ敵之備へ馳入、頸一討捕候、同三月十八日、於高麗郡遂一戦、令殿、人数無相違引取之旨、氏政感状明鏡也、誠可為後代之亀鏡歟、弥可抽戦功之状如件、
永禄四年四月廿五日/氏真御判/小倉内蔵助殿
戦国遺文今川氏編1691「今川氏真感状写」(小倉文書)

今廿八日、於薩埵山敵置伏兵、玉縄衆尺木剪追上候処、其方抽而被走廻、追崩、敵数多討捕候、誠高名之至感悦候、弥可竭粉骨状如件、
永禄十二年己巳二月廿八日/氏政判/間宮彦次郎殿
戦国遺文今川氏編2295「北条氏政感状写」(国立公文書館所蔵記録御用所本古文書九)

廿六日之一札、昨晦日到来候、抑自当府之誓詞、松本請取、越山候哉、殊誓詞到来、則時ニ可為出張旨、誠以簡要候、畢竟其方馳走故候、弥無手透被打出候様ニ、可被相稼候、将亦如度ゝ申候、追日当陳任存分候、去廿八於山手懸合有之而、信玄親類ニ、長円寺弟号本郷八郎右衛門人を為始、十余人討捕候キ、其一両日以前も新太郎人衆河原ニ置伏兵、敵廿余人討捕候、至于今日勝利連続候、淵底自其地之人衆見聞之間、一ゝ可有注進候、将亦信州衆動之由得其意候、菟角其口之儀候間、指引可然様ニ貴所御馳走専肝候、恐々謹言、
年月日欠/差出人欠/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1165「北条氏政書状写」(歴代古案四)

其地無事之由肝要候、仍去廿一夜、出伏兵塩荷通用之者、数多討捕之由、因茲敵往復相留段、誠馳走無是非趣、相州へも可申届候、弥無由断被申付専一候、各へ異見尤候、恐々謹言、
六月廿五日/氏真(花押)/大藤式部少輔殿
戦国遺文今川氏編2404「今川氏真書状」(大藤文書)

2017/08/06(日)10年前の解釈議論をあえて蒸し返してみる

古文書を本格的に読み始めてちょうど10年ということで思い出した。

解釈を始めたばかりの頃、かぎや散人氏と下記の文書の「別可馳走」の解釈を巡って真剣に議論をしたのだった。当時はせいぜい100件以内の守備範囲での議論だったので、今から振り返ると引き出す用例が少なくて心もとない。

用例が増えた現状で再び試みてみようと思う。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

原文では、山口左馬助について今川義元が与えた指示が主な内容になっている。といっても、宛所は左馬助ではない。寺と武家が併記されるちょっと奇妙な構成だ。

ここで「山口左馬助別可馳走之由祝着候」をどう捉えるかが重要になってくる。

  1. 「可」は未来に向けて開かれた状態だから「山口左馬助が特別に馳走するだろう」という予定を義元が聞き「祝着」と言っている。

  2. 「可」は誤字で「別可」ではなく「別而」。「山口左馬助が特別に馳走した」という経緯を義元が聞き「祝着」と言っている。

前者なら、妙眼寺・阿部は山口の調略をしていたことになる。後者だと山口は既に調略済みで活動していたことになる。

この後の文章では「でも刈谷の水野とは和睦しちゃうから。味方の中で反対する奴がいないように山左に言っておいて」と義元がしれっと書いている。これはどちらの状況でも説明がつくので、後半の文では決め手にならなない。

かぎや氏は前者のように「馳走するべく」と読むべきで、山口左馬助はこの時点では馳走を期待される存在だったと解釈した。

一方で私は「可」は「而」の誤字で、馳走は既に行なわれていたものの、織田信秀の悃望によって刈谷の赦免が決定してしまい、山口左馬助の努力が無駄になったと解釈した。

改めて考えるに当たって、まずは「別可」は脱字でも誤字でもなく、そのまま「別可」を使用していたかを調べてみると、他例の検索では下記のようにこの組み合わせは使われていなかった。やはり何らかの脱字・誤字を疑った方がよいようだ。

別可 3例
(当該以外は別義→為各別可相除・以分別可被申与之由承候)

脱字・誤記について何パターンか検討する。

1)「而」が脱字していると考えて「別而可馳走」とする仮説

別而可 17例

「別して~べく」の用例は上記のように普通に存在する。しかし一方で、

可馳走 1例(当該のみ)
「可[^、]+馳走」 0

「可馳走=馳走すべく」はこの例でしか見られず、他の語を挟んでも存在は見られなかった。

可有馳走 3例
可令馳走 2例
<以下は1例ずつ>
可被馳走
可致馳走
可在其方馳走
可然様ニ馳走・可然様ニ貴所御馳走

上記の結果を見ると、可と馳走は直接繋がらず「有・令・被・致・在」を間に挟むようだ。

このことから、「可馳走」は成り立たず、更に別の脱字を想定しなければならない。

ちなみに、可と走廻は直接繋がる。

可走廻 130例

そして間に語を挟む例も存在する。

可被走廻 20例
可為走廻 2例
可有御走廻 2例
可然様ニ走廻 1

2)「可」が「而」の誤記か誤翻刻と考えて「別而馳走」とする仮説

「可[^、]+馳走」でGrepすると、「別而」と「馳走」の組み合わせは8例ある。

別而馳走 6例
別而御馳走 1例
別而此節之間御馳走可申候 1例
別令馳走 1例 <後述>

この想定だと、「可」と「而」の取り違えだけで説明可能。

参考:走廻の場合

別而走廻 6例
<以下は全て1例>
別而可被走廻
別ニ抽而被走廻
別而可走廻
別而無油断走廻
別而成下知走廻

3)「可」が「令」の誤記か誤翻刻と考えて「別令馳走」とする仮説

「別令馳走」は以下の文書でしか見られない。

沓掛・高大根・部田村之事右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文十九十二月朔日/治部大輔(花押)/丹羽隼人佐殿
戦国遺文今川氏編0989「今川義元判物」(里見忠三郎氏所蔵手鑑)

類似で「爰元能ゝ為御分別令啓達候候」というものはあるが、これは「御分別」と「令」の組み合わせなので異なる。「令馳走」は10例あることから、「別而令馳走」だったのが「而」が欠け、「令」が「可」に誤読されたと考えことが可能。

結論:1~3を比較・検討する

  1. 「別(而)可(有)馳走」 2箇所の脱字発生を想定
  2. 「別(可→而)馳走」 1箇所の誤字発生を想定
  3. 「別(而)(令→可)馳走」 1箇所の脱字・1箇所の誤字発生を想定

最もシンプルな修正で済ますのであれば、2の「而を可と誤記か誤読した」という解釈にするのが、最も妥当と考えられる。

最後に改めて

当時の解釈と今の解釈を並べてみた。昔は結構たどたどしかったなあと、感慨深い。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、
十二月五日/義元(花押)/明眼寺・阿部与五左衛門殿
戦国遺文今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

  • 過去の解釈

山口左馬助が、今度際立って活躍したのはとても祝着です。とはいえ、織田備後守が色々と陳情してきた事情もありますので、刈谷は赦免させました。この上は、味方筋の無事・無異議を山口左馬助が申し整えるよう、ご両人からご意見なさいますように。

  • 現在の解釈

今度山口左馬助が特別に奔走したとのこと、祝着です。とはいえ織田備後守が懇望した状況がありますので、刈谷は赦免させていただきます。この上は、味方の中から和平に反対する者が出ないように、山口左馬助へ両人から意見して下さい。

補足:宛所について

  • 明眼寺

安城と岡崎の間にあって松平氏と非常に縁が深いが、刈谷の水野氏から寄進を受けたこともあって、「苅屋令赦免」の仲介役として見てよいと思う。

  • 阿部与五左衛門

史料がこれしかないので不明だが、ちょうど同じ頃に活動していた阿部大蔵の一族かも知れない。大蔵は松平氏被官だけど、もうこの頃は今川被官に近くなっている。ただ大蔵は動いていない。

まとめると、松平でも水野でもない周縁的位置で、ほんの少し松平寄りな特殊な構成といえそうだ。妙眼寺はこれ以外で政治に関わった経歴はないし、与五左衛門はここにしか出てこないから、かなり特殊なメンバー。

2017/08/05(土)史料データの更新

ここまでまとめてきた文献データ2,140件をアップロード。

CSVファイルを表計算ツールなどで開く、もしくは、TSVファイルをコピー&ペーストでGoogleスプレッドシートへ貼り込むといった方法で使える。前回までのバージョンでは文書番号に不備があったり重複したりというところもあったが、今回は締めくくりということでかなり改善した、と思う。

historical_resource05

2007年8月27日に最初の解釈文をブログにアップしているから、私が古文書の解釈に取り組んでおおよそ10年。データ化できたのは2,140件。目視したのは大体1.5~2万件ぐらい。

余りにも少ないが、一旦ここで締め括る。当初から「10年を目途に情報を集めよう」という目標があり、後北条・今川に関しては一通り目を通せたから予定通りではある。

ただ2013年末からずっと「専門家解釈との乖離」に悩まされていて、この誤差はひどくなるばかり。データの母数を稼ぐためにデータ化する量を増やしてみたものの、全く改善が見られない。

専門家の史料解釈は完全に無謬ではないとは思うが、我々より圧倒的に莫大な知識を持つ専門家は、素人から見たら完全(素人の知識量では誤りを見つけられないレベル)であるはず。もし専門家の解釈が誤っていてそれが素人にも判るのであれば、知識を増やしても解釈の精度が上がらないこととなり、それは皮肉にも素人たちの「知識を増やせば読みの精度は向上する」という当て推量も同時に不成立になることを示してしまう。つまり、史料を通読して知識を増やすことと、解釈の精度が向上することに相関関係はないことになる。

逆に、専門家の解釈は誤っていないとする。その解釈へ至るロジックが判らないのは素人の知識が至らぬためで、知の体系に異変はないという考え方もある。ただそうなると、レベルの隔絶によって素人が解釈の真贋を判断することすらできないことを意味し、素人の言説は惑説を生み出すことでしかなくなる。

どちらを選択するにしても、結論は同じ。

「素人がこれ以上学術の真似事をしてはならない」

ということで、本来であればこの後に史料を読んでいって仮説を作っていく作業を想定していたんだけど、そこには至らないままで終わるのかも知れない。