2017/06/21(水)俗にいう「北条早雲」は、同時代で何と呼ばれていたか

後北条氏初代に数えられる伊勢盛時(早雲寺殿)が、同時代の文書でどう呼ばれていたかを、手持ちのデータからまとめ。

本人は一貫して「宗瑞」と署名している。

山内上杉は顕定・憲房ともに「早雲」は使っていない。今川方の伊奈・大井は「早雲」を用いている。扇谷上杉方だと、三浦道寸は「伊勢入道」と呼ぶが建芳は「早雲庵」としている。また、伊勢盛時との対陣に言及している三不軒は「早雲」と3回も呼んでおり、敵味方で呼び分けがあった訳ではなさそう。

1496(明応5)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6406

1504(文亀4/永正元)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6439

年欠上杉顕定「伊勢宗瑞」神3下6478

1506(永正3)年伊奈盛泰「早雲」戦今182 大井宗菊「伊勢早雲庵」戦今183

1509(永正6)年三不軒「早雲」埼叢書12_27

1510(永正7)年上杉憲房「伊勢新九郎入道宗瑞」駿河台大学論叢第41号11 三浦道寸「伊勢入道」埼叢書12_46

1511(永正8)年福島範為「早雲庵・早雲」戦今243

1517(永正14)年上杉建芳「早雲庵」埼叢書12_78

三不軒書状

追令啓候。屋形上州へ調儀無候、思慮候而大切存候処、思之外ニ急度之事、諸人大慶可為御歓喜候、殊可然之時節帰城、早雲致打向候事、言宣不及候、然候御一戦之有無者各実候旨、御心安候、早雲も徒送日在陣者如何、定而取除候、然者令入馬上上州以来、諸人被致休労、嘱可有調儀候歟、■相調候上、御吉事遂日可相重、端々被入馬者葛西へ可有与存候、今度早雲打押付候与申入体■而可有之候歟、此間御歓楽与申、御心尽察入■、至于我々も■上ニ、尚病重成候き、下口之事、何篇可有御心安候、遂然々与御様体不承候、別条儀不可有之候、恐々謹言、
八月廿日/三不軒聖■(花押影)/北へ参
埼玉県史料叢書12_0027「三不軒某書状写」(温故雑帖五)

2017/06/18(日)鵜殿氏記録まとめ 戦国遺文今川氏編

鵜殿氏は熱心な日蓮衆徒で、宗教的な記録が多い。

●1499(明応8)年

7月5日 鵜殿千々代丸に法名長祐が与えられる 125

●1506(永正3)年

6月 鵜殿地久・日濃が本興寺に妙法蓮華経を寄進 176

●1513(永正10)年

6月17日 鵜殿三郎長将に法名応仙が与えられる 267

●1545(天文14)年

2月15日 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の法華経願主に「藤原朝臣鵜殿長持・鵜殿玄長居士・鵜殿将元・鵜殿長景・鵜殿長親・鵜殿長治・鵜殿鶴寿丸・鵜殿地久息女富田殿・鵜殿藤助長忠のほか、松平玄蕃允息女竹谷殿・松平左馬助息女下殿」が見られる 770

2月 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の曼荼羅裏書に「施主 鵜殿家一族・藤原朝臣長持・藤原朝臣長忠・松平玄蕃允」が見られる 771

●1549(天文18)年

2月28日 法橋日治が権律師に任じられる。休庵に比定 890

●1552(天文21)年

11月15日 遠州本興寺の仏殿棟札に大檀那鵜殿長持とある 1112

●1560(永禄3)年

6月12日 氏真が鵜殿十郎三郎に11月19日・5月19日の戦功を賞す 1546

●1561(永禄4)年

4月16日 氏真が鵜殿十郎三郎に、休庵の報告で同名藤太郎が無二の馳走をしたと聞き知行を約す 1686

8月12日 氏真が藤太郎に、9日に岡崎人数を迎撃したことを賞す 1734

9月10日 吉良義昭が鵜殿十郎三郎に、形原での戦功を賞す(要検討) 1745

●1562(永禄5)年

2月6日 松平元康は、伴与七郎が鵜殿藤太郎を討ち取ったことを賞す 1791

6月11日 日扇が鵜殿八三に、藤太郎生害に言及。但し八三の父の死後連絡が滞っていたというので八三は藤太郎の息子ではない 1817

6月11日 日扇が鵜殿又三郎に、西郡落城と藤太郎生害に言及 1818

6月11日 長応寺真俗中に「西郡落城、鵜殿藤太郎殿御傷害、殊ニ真俗中御牢人被成御事」と言及 1821

9月13日 氏真が休庵に「其春同名藤太郎討死」の後も今川方に留まったことを賞す 1864

12月14日 氏真が岩瀬彦三郎に「鵜殿三郎於知行之内百貫文」を改めて支給 1883

●1563(永禄6)年

5月28日 氏真が遠州本興寺に檀那の休庵の口添えで権利保護を行なう 1919

●1565(永禄8)年

1月26日 氏真が鵜殿三郎に20日の吉田西手崎堤の戦功を賞す 2025

2月3日 氏真が吉田城兵粮で300俵のうち200俵は鵜殿休庵・大原弥左衛門が立て替えたと言及 2027

●1567(永禄10)年

7月3日 氏真が遠州本興寺に制札を出し、檀那の休庵を取次に指定 2135

●1568(永禄11)年

2月26日 家康が二俣に在城していた鵜殿三郎・藤九郎・休庵らに起請文と知行安堵を出す 2219

●年未詳

3月10日 日意が鵜殿玄長入道に、京都上洛中の奔走を謝す 1395

3月28日 鵜殿長持が安心を糾弾(要検討) 1008

5月13日 日覚が鵜殿玄長に返信して御国静謐を喜ぶ 1396

7月25日 日扇が又三郎に、返書の返書を送る 1819

2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。