2017/05/16(火)後北条氏が今川領を組み込む文書を解釈してみる

どんな文書?

1569(永禄12)年12月28日に出された虎朱印状を読んでみる。既に北条氏政の息子国王丸が今川氏真の養子となり、駿河の領有権を得てはいるのだが、在地の抵抗を考慮した書き方をしているようだ、というのが事前知識。

逐語で解釈

岡宮浅間領并朝比奈左馬允拘分、

「岡宮浅間」とは、文書の伝来した沼津市岡宮の岡宮浅間神社のことで、この神社の領地を指す。「并=ならびに」は並列を示すので、「朝比奈左馬允」が「拘=抱える=保持する」領地に関しての記載であることが、まず提示される。知行についての文書では、このように最初に知行概要を書き出すことが多い。

駿・甲弓矢之間者、

駿河=今川氏真、甲斐=武田晴信が「弓矢=戦争」となっていることが書かれる。「間」は「期間」を指す場合と、「~なので」という場合がある。この場合は、前者だと「駿甲が弓矢の期間中は」となり、後者では「駿甲が弓矢なので」となるが、どちらともいえないので一旦保留。最後の「者」は「~は」の当て字で、現代語と同じ。

興国寺城領ニ相定畢、

「興国寺城の領地に決まった」とあるのは、この城の支配下に決まったということ。「畢」は「おわんぬ」で過去完了。もう既に決まったことだと強調している。

駿州衆催促候共、

駿河の国衆が、物や税を「催促=取り立て」をすることに続けて「共」とあるが、これは「~すれども」という、後ろに向けての逆接を示している。

一切不可致許要、

「一切・べからず・致す・許容」で現代語に並び替えると「一切・許容・致す・べからず」となる。「許要」は誤字。

急度興国寺へ可相納候、

「急度=きっと=取り急ぎ」「興国寺へ納めるべく候」とあるので、明確には書いていないが興国寺城への納税を指示している。

此上若難渋之百姓有之者、

「このうえ・もし・難渋の百姓・ある・これ・は」の最後の部分だけ並び替えをして「難渋の百姓、これあらば」という表現。「いないだろうけどもしいたら~」という感じの文。

可被処罪科旨被仰出者也、

「べく・られ・処す・罪科」「旨」「られ・仰せ出し・ものなり」

「罪科に・処せ・らる・べく」「旨」「仰せ出・され」「ものなり」

「旨」や「事」などは名詞化を促すので、ここで一旦言葉がまとまることが多い。「処」は「~のところ」と読めば名詞化促し系だが、この「処」は「処す」という動詞で「処罰=罰を処す」という意味なので違う語。

ここまで読むと、元々今川分国だった知行を強制的に後北条氏が支配することが窺えてくる。なので「駿・甲弓矢之間者」は「少なくとも武田と交戦している期間中は」が近い印象はある。ただ決定的とはいえないので類例を検索してみると、「之間者」は幼少の者が家督を継ぐまでの期間を指す例が複数見つかる。なので、これをとりあえず採用する。

解釈全文

岡宮浅間神社領・朝比奈左馬允の知行分。駿河・甲斐が交戦中は、興国寺領に決まっている。駿河国衆が催促したとしても、一切許容してはならない。取り急ぎ興国寺へ納付するように。この上でもし難色を示す百姓がいたとしたら、罪に処す旨を仰せ出されています。

原文

岡宮浅間領并朝比奈左馬允拘分、駿・甲弓矢之間者、興国寺城領ニ相定畢、駿州衆催促候共、一切不可致許要、急度興国寺へ可相納候、此上若難渋之百姓有之者、可被処罪科旨被仰出者也、仍如件、
巳十二月廿八日/(虎朱印)江雪奉之/岡宮神主・百姓中
戦国遺文今川氏編2430「北条家朱印状」(沼津市岡宮・岡宮浅間神社文書)

2017/05/11(木)仮説の導き方

自己流だけど、史料を読む際の段取りを挙げてみる。全ての読み込みでこの手順を徹底している訳ではないけど、主要な解釈ではなるべくカバーするよう心掛けている。

他に要素がありそうな気もするけど、とりあえず。後で足すかも。

留意点

  • 同時代史料のみを使う(発生から20年前後)
  • 古記録より古文書を優先
  • 人名・地名の比定を他史料で確認
  • 後世編著と専門家解釈はあくまで参考例
  • 結論ありきの推論にしない→証明不能でもよい

手順

  1. 前後1年以上の流れ、もしくは関係者の動きを史料で細かく見る
  2. 類似した例がないかを調べる
  3. 収集した史料の原文と解釈文をデータ入力
  4. 一旦ストーリーを組み立て仮説にする
  5. 確定できる点と曖昧な点、仮説にそぐわない点を整理
  6. 「自分の仮説は成り立たない」という前提で反論者として考え直す
  7. 文章として構成する

2017/05/09(火)「とにかく一刻も早く帰還せよ!」命令

北条氏文書写に、不気味な文書が遺されている。

「用事がなければ人衆は、夜中であっても早く帰して下さい。返す返すも人衆を在所へ帰して下さい。以上。(追記:返す返すも帰して下さい。返す返すも帰して下さい)」

宛所はなく、差出人も氏政とされているものの、埼玉県史料叢書12では氏邦かと推測している。これは、同じ10月20日付けで氏邦が岡谷隼人に部隊の一部を帰すように命じた文書があったからだと思う。

しかし、謎の文書と氏邦文書には差異があって安直に氏邦とは考え難いようにも思う。

  1. 氏政は「用事がなかったら」と条件は挙げているが細かくは書いていない
  2. 「夜中も」とあって、夜間であっても一刻も早く帰るよう指示している
  3. 本文で2回、追記で2回繰り返して強迫するかのように「帰せ」と書いている

  1. 氏邦は「馬廻衆30名を城の番にして、残りを戻せ」としている
  2. 氏邦が指示した戻り先は「陣場」であって「在所」ではない
  3. 氏邦は「明日」と指示している

上記から考えると、月日は同じであっても、氏邦はごく常識的な指示。氏政が出したと思われている謎の文書はけたたましく叫んでいるような筆致で、むしろ関連があるとは思えない。

では氏政と思われる人物がこのヒステリックな書状を送ったのはいつのことだろうか。兵力を移動させるのではなく、とにかく武装を解除して各部隊を在所に帰還させることが目的で、それは結構特殊だと思う。

思い当たるのは、1569(永禄12)年。

越相同盟の交渉過程で北条氏照は関宿城攻めからなかなか手を引かなかった。「とにかく一刻も早く帰還してくれ」という文面は適している。

5月7日に氏照は柿崎景家・山吉豊守に「同盟成立が起請文で成されれば山王砦を破却して撤退する」と伝えている。そして閏5月5日に簗田晴助は父子が直江景綱・山吉豊守に「昨日山王砦が破却された」と書いている。この撤退劇では、氏康・氏政とは異なり氏照が独断で関宿に留まっていることが考察されていることから、5月20日にこの催促状が出されたとする考え方もできるだろう。

但し、「五」と「十」の誤写は考えづらい。とすれば、「七」の誤写ではないか。

同年7月17日に氏照は輝虎に宛てて「御不審之由」を聞いたと弁明しているが、既に関宿攻囲を解いたこの段階でも輝虎は氏照を警戒し、氏照の動向に気を配っていた。7月20日以前に氏照が何らかの動きをして輝虎から苦情が入り、氏政が慌てて撤退を呼びかけたという考えも可能だと思う。

  • 原文

北条氏政(?)が某に部隊の早急な帰還を命じる

 返々人衆かへり候へく候、返々人衆かへすへく候、
用所なくハ人衆、夜中も早々かへり候へく候、返々人衆さいしよへかへすへく候、
 以上
十月廿日/氏政書判在/宛所欠
埼玉県史料叢書12_付214「北条氏邦ヵ書状写」(北条氏文書写)

北条氏邦が岡谷隼人に、馬廻衆30名以外の帰還を命じる

其方召連候人衆之内、馬廻衆卅召連、其地実城之外張番申付、然与可有之候、残人衆ニ者明日陣場へ可相返候、何分ニも対馬守■■有談合、可被走廻候、以上、
十月廿日/氏邦(花押)/岡谷隼人佐殿
戦国遺文後北条氏編3998「北条氏邦書状」(岡谷文書)