2023/01/05(木)氏政妻付きの被官は存在したか

後北条氏の例を見ていると、男子が養子入りした際には決裁権を持った付き家老とでもいうべき被官がつけられて入部することが判っている。

では女子が後北条氏に嫁入りした際にこのような被官が付けられるのかを検討してみたい。

吉良氏朝妻の例

実例を見るとすれば、北条宗哲の娘が、当主氏康の養女として武蔵吉良の氏朝に嫁ぐ時に、実父の宗哲が与えた覚書(戦北3535)が参考になるだろう。

ここでは、儀式次第については大草康盛、台所の作法については久保某に彼女自身が質問することを前提した条項がある。これらは後北条家で事前確認する部分なので、お付きの被官とは関係がない。

  • 原文

    一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返たう候へく候

  • 解釈

    一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候

  • 原文

    祝言のときの状況は、あちらの世話人のいう通りにするように。大草などに質問したとしても、覚えががないと返答されるだろう。

  • 解釈

    きっと常の三献だろう。であれば、本式の三献ということだろう。ならば、久保によく質問して作法を間違えないようにしなさい。常の三献であれば、別儀はないだろうから、うるさく言わないことだ。

その一方で、水主杢助・比木図書は細かい案件を任せられるとし、その下の扱いになっている大屋・中田の両名についても折に触れて用事を頼むのがよいと告げている。

  • 原文

    一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候一、清水、笠原御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候

  • 解釈

    一、水主杢助・比木図書は、細かいことでも連絡すべきだろう。親しくするように。大屋・中田とも、被官なのだから、目をかけて用事を命じるように。一、清水・笠原がお礼に来たら、大人衆のように扱うように。一、お迎えに来た大人衆へは、次の日に杢助を使いとして呼び、気持ちを上臈から連絡してよいだろう。ただ、どうなのだろうか。高橋郷左衛門に相談するように。お礼をした後で使いを送るのだろうか。郷左衛門の意見に任せるように。

このことだけでなく、吉良家中で後北条氏に最も親しい高橋郷左衛門尉の意見を全面的に仰ぐように別条で伝えている。彼女の身近にいて諮問を受けられるのは郷左衛門尉という認識なのだろう。

ここで名が出た水主杢助・大屋・中田は後北条当主の虎朱印状の奉者として名が挙げられていて、それは宗哲娘が嫁した後も同じである。このことから、彼らは吉良家にはいなかったと見てよいだろう(小田原市史435・719・2114/戦北855・1076・1274・1621・1846・2225)。此木図書については史料になかったので不明だが、水主杢助と同じ立ち位置だろうと思われる。

気安く用事を言いつけるように言われた水主杢助や大屋・中田が、氏朝妻の近辺に常駐していた訳ではなく、小田原で当主に仕えている身であるものの、氏朝妻から連絡があれば対処する存在であったといえる。

以上をまとめると、氏朝妻に付けられた者に有力な被官はおらず、吉良家中の高橋郷左衛門尉に直接相談するか、実家の諸被官(水主杢助・此木図書・大屋某・中田某)に連絡するという状況にあったことになる。

氏政妻を巡る状況

では武田家から後北条家に嫁いだ氏政妻の場合はどうだったか。彼女に関しての史料はほとんど残されていないが、永禄2年の「武田家朱印状」(戦武655)で「就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也、仍如件。奏者、跡部次郎右衛門尉。天文廿四年三月二日、向山源五左衛門尉」とある。

ここをどう解釈すべきだろうか。「小田原南殿」は北条氏政に嫁いだ武田晴信娘で間違いないだろう。その奉公のため、向山源五左衛門尉は伝馬課税を免除されている。ここで判るのは、源五左衛門尉が月2頭までの伝馬課税を免除されていることと、その理由が氏政妻への奉仕によるもの、ということである。

先の北条宗哲覚書とを併せて考えると、源五左衛門尉は小田原で南殿に近習したのではなく、一族の向山又七郎と同じく小山田氏同心として氏政妻と甲府との連絡担当者として甲斐国内にいたと見るのが妥当だろう。

一方で、所領役帳に「向山」という人物がいたことから、向山又七郎か源五左衛門尉が氏政妻付きの被官として後北条家中に取り込まれたとする仮説を見かけたことがある。

しかし、役帳の「向山」は他国衆に属しており、小山田弥三郎・小山田弥五郎・飯富左京亮に続いて記載されている。役帳の他国衆というのは、後北条氏がその知行を把握できていない者達で、そのうちで後北条分国内での彼らの知行を書き記している特例の存在。小山田弥三郎は武蔵小山田庄を中心にした知行を持っているため、甲斐郡内に移る前の小山田氏本知行を維持していたものと思われる。しかし、小山田弥五郎は伊豆、飯富左京亮は小田原千津島、向山は小机に知行を持っている。これを合わせて考えてみると、弥五郎の本地を承認する一方で、彼の同心達には後北条直轄領を与えたと思われる。彼らが直轄領を手にできたのは、津久井衆の知行地に「敵半所務」が多数見られることと関係しているように思われる。散財する小山田氏との半所務を整理する中で、本来の知行を手放して区画整理に応じた見返りとして、後北条当主が知行地を与えたものではないだろうか。

それに加えて、氏政妻付きの被官が他国衆として知行を与えられているとすれば、今川家から嫁した氏康妻付きの被官がこの他国衆に見られないのは違和感がある(他国衆には今川系の人物が見当たらない)。

該当するとすれば御家中衆にいる「興津殿」だが、興津氏は花蔵の乱で今川義元と決別した一族がいたようで、この中の一人を縁戚に取り込んだものだろう。

  • 戦国遺文今川氏編0561「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

    其方扶助同者親類等、聊就有疎儀者、堅可加下知、万一於属他之手輩者、手分之事者御房可為計者也、仍如件、
    天文五丙申年十月十七日/義元(花押)/興津彦九郎殿

あなたが扶助する者と親類で少しでも疎意があるならば、堅く下知を加えるだろう。万一にでも他家に属す輩がいるなら、分離内容については御房(出家した先代の興津藤兵衛正信?)の計画通りにするように。

※宛所の彦九郎はこの文書を最後に今川家から姿を消し、正信から衣鉢を継いだ弥四郎が今川分国に留まる。その後、弥七郎は今川滅亡後の1571(元亀2)年に北条氏繁の被官として登場する。

まとめ

北条宗哲覚書には、後北条氏が現役の関東管領であり武蔵吉良は将軍御一家衆であると明言されている。このことから、後北条家と武蔵吉良氏との婚姻は太守間での婚姻に相当するものといえる。細かく見ると、娘(吉良氏朝妻)への忠告にも氏綱妻(養珠院殿)と氏康妻(瑞渓院殿)の行動が言及されており、氏朝妻が太守妻に比せられており、この見解を裏付けられる。そして氏朝妻には有力被官は付けられておらず、吉良家中に単身置かれていた(身分の低い小者はいただろうけれど)。

このことと、従来言われていた向山氏が氏政妻付きだったという仮説に確証がなく成り立たない可能性が高いことを考えると、少なくとも氏政妻に付けられた有力被官はいなかったと思われる。

2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗

この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。

北条氏規妻の実体

北条氏時・為昌の出自

花木隠居・花木殿・花之木の実体

相模朝倉氏の概要

玉縄と花木

それぞれの役割分担

新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。

  • 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
  • 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
  • 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手

後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。

為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。

  • 山中彦十郎(知行168貫文)
  • 仙波藤四郎(知行90貫文)
  • 山本太郎左衛門(135貫文)

本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年

    本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
    永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺

浄土宗との関わり

死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。

玉縄北条・為昌近辺の浄土宗

  • 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
  • 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
  • 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
  • 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
  • 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
  • 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
  • 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与

為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策

為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。

  • 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)

    三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
    享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺

後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)


    一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
    一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
    右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
    永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布

1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。

『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』

この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。

とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。

ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。

花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆

後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。

宗派を継承すること

譜牒余録 二十四松平相模守家臣

良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。

これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。

また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。

この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。

つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。

このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。

上記より、以下が推察される。

  • 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
  • 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
  • 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった

これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。

誉号を巡る課題点

誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……

  • 誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重

  • 誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛

  • 戒名不明氏規妻・氏盛妻

為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。

※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。

花木集団のその後

 為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。

1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。

北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま

しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。

してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。

ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。

※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。

没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。

種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。

2022/11/11(金)相模朝倉氏の概要

相模に登場した朝倉氏

相模にいた朝倉氏については過去に駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏で一度考察を試みたことがあるが、今回為昌や綱成を巡ってあれこれ試案を深めた結果として、もう少し細かく見られるようになったので追加で考察してみた。

朝倉右京による香林寺寄進

まず最初に見られるのが、朝倉右京が1531(享禄4)年に曹洞宗香林寺に宛てて「祖父の古播磨の通りに」と出している寄進状。

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

    香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
    辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

香林寺の本寺である海蔵寺は越前朝倉氏と親交があった(神奈川県史資料編3下7961)。恐らくこの繋がりは播磨守の寄進に影響があっただろう。

播磨守は右京の祖父だから、1484(文明16)年といわれる香林寺創建に関わっていた可能性も高い。そして、文明年間に小田原と関わりがあったとなると、この時期西相模に侵入してきた足利政知(堀越公方)の指揮下にあったのだろう。1462(寛正3)年に政知は松田左衛門尉の領地を鶴岡八幡宮に寄進している(鎌倉市史資料編1_096)。このことから見ても、伊豆の政知被官が相模西郡に関与していたとするのは妥当だろう。

江の島遷宮での寄進

次に朝倉氏が出てくるのが、初見から12年後の1544(天文13)年。江の島遷宮に際しての寄進一覧内に名前が見える(小田原市郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p35)。朝倉は弥四郎・藤四郎・孫左衛門尉が、福島・桑原・松田と並んで名を連ねており、後北条被官としての地位を確実に得ていることが判るほか、花木隠居も参加している。

長文のため本文掲載は省くが、朝倉氏が最も集中して見られるのがこの文書となっている。

駿河朝倉氏の登場

駿河安倍川上流にある長津俣で領主となる

江の島で相模朝倉が勢ぞろいした4年後、今川義元判物写で駿河国に朝倉氏が現われる。義元が長津俣を浦田又三郎に与えたところ、その翌年、借金で困窮した又三郎が、朝倉弥三郎に売却してしまったという。それを聞いた義元が証文の旨を追認して弥三郎の知行を安堵した。

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

    駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
    天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

義元からすれば、浦田又三郎が宛て行なったその翌年に借金でいきなりいなくなって朝倉弥三郎という男に名義が代わっていたという形になる。そしてまた、これ以降で朝倉弥三郎・六郎右衛門は長津俣領主として登場するものの、一領主に過ぎず今川家中で活躍した訳ではない。駿河朝倉氏は異物としての扱いが近いように見える。

駿河朝倉氏は弥三郎から六郎右衛門尉に知行を受け継いているが、永禄3年の今川氏真書状(戦国遺文今川氏編1618)では、尊俣などの領地より「従前々在陣之時之金堀夫丸壱人之事=以前から在陣の時に金堀の作業員1名を提供すること」が明記されている。これは朝倉氏の支配する領域に金鉱があったことを示していて、同文書では「他者から領地を奪うための訴訟があるが気にしなくてよい」と氏真が恩着せがましく書き連ねていて、領地を狙う者が多かったと思われる。

朝倉氏は、さらに永禄6年になると以下の13ヶ村に領域が拡充されている(戦国遺文今川氏編1918)。

  • 村又村、坂本、長津又、柿島
  • 池谷、大淵、横沢、大沢
  • 腰越、内匠村、平瀬、落合
  • 萓間

上記のように、駿河朝倉氏は安倍川上流で金鉱を掌握して資本を拡張していた。この一族は永禄12年の今川家撤退後も生き残り、武田晴信から同地を保証されている(今川方として最後に一揆を率いたり、武田方では小山籠城戦に参加するなどして、この頃は例外的に武功を挙げている)。武田氏滅亡後は徳川氏につき、中村氏を経て再び徳川氏に所属して材木奉行に任じられた後に旗本になっている。

『後北条氏家臣団辞典』では、寛政譜の記述を受けて「今川氏を経由して後北条被官となった」と説明されている。しかし、このように同時代史料を見ていくと、駿河朝倉氏はどうも資本家の雰囲気があるし、相模朝倉氏より後で確立されている。相模・伊豆辺りから経済圏を安倍川上流にまで広げていく中で、拠点を得たという感じだろう。

相模朝倉氏の出自と浄土宗

駿河で時系列が下ってしまったが、一旦相模で話を戻す。朝倉氏の出自を探る上で最も重要な史料が登場する。

伊豆の住人だった朝倉一族

像がある大長寺は浄土宗で、胎内銘にある安養院住持から名越派であろうと思われる。為昌が支援した鎌倉光明寺は白旗派なので、ここに齟齬がある。名越派は越前にも教線を伸ばしているから、越前朝倉本家との関係もあるかもしれない。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

    「胎内腹部」

    造化御影像之事
    右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉息女、北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
    「胎内背部」
    并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白
    于時天文拾八年己酉九月十八日

この鎌倉大長寺は浄土宗で、鎌倉名越の安養院もまた浄土宗。当初は曹洞宗だったと思われる朝倉氏だが、天文18年には既に改宗しており、娘が木像を使って自らの生前供養をするようになっていた。

また、この胎内銘では、為昌妻を伊豆住人としている。既に見たように朝倉播磨守が文明年間には小田原に勢力を持っていたとするなら、足利政知の入部に伴って伊豆入りしたという堀越公方官僚出自説が更に補強される。1549(天文18)年当時に「衰老」となったとするなら、40歳の初老初年だと考えても、彼女の生年は1499(明応8)年以前だろう。

良心寺の創建

天正に入ると朝倉能登守が、横須賀の良心寺を創建して浄土宗に深く帰依する。

  • 戦国遺文後北条氏編1790「朝倉景隆寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書)1575(天正3)年比定

    われゝゝこおもち申さぬゆへ、ミなたにんにいへをいたし候、しかるニきんねんはしりめくり候ゆへ、上いも御かいほう候、しかしなから、こせのためにハ、いつれもまかりならす候間、小寺をとりたて候、右馬助ハにやいに、ちりやうつけをき候、これもなお、かさね申へく候、われゝゝハ、大もりにて、二くわん、とうねんいのとしよりきしん申候、これも又、かさね申へく候、もし両人のことも、われらしに候のち、いらん申候ハゝ、このせうもんを 上いへさし上られ、御わひ事あるへく候、このきミらくちやくニなされ候ハゝ、てらハたいてん申へく候、さやうニ候てハ、きんねんわれゝゝはしりめくりハ、なに事もむた事たるへく候、このところさへけんこに候へハ、へつにわれゝゝのそミなく候、そのため一さつしんちをき候、以上、
    いの六月廿六日/朝倉能登守(花押)/りやうしん寺へ参

  • 解釈

    私達には子がいないので、全て他人に家を継がせています。そうしたところ、近年は活躍したので上の覚えもめでたくなりました。とはいえこの栄達が後生のためにはなりませんから、小さな寺を取り立てて、右馬助が相応の寺領をお渡しします。これも更にご連絡します。私達は大森で2貫文、今年亥年より寄進します。これもまた、更にご連絡します。私が死んだあとに違乱があったなら、この証文を上へ差し上げて陳情するように。このことが落着しなければ寺は退去するでしょう。そのなっては、近年の私達の活躍は全て無駄になってしまいます。この地所が堅固に寄進されているなら、私達に他の望みはありません。そのために、一筆ご進呈いたします。

「子がいない」と明言している一方で「右馬助が寺領を渡すだろう」と書いているので、右馬助は能登守の弟か甥ぐらいの近親者で、彼にも子がないものの、死去は能登守よりは後だろうという見込みで文章を構成している。

能登守の寄進から8年後、能登守の意図通りになり、右馬助は良心寺へ更に寄進を行なっている。この寺には「大旦主、大慈院殿法誉良心大姉 朝倉能登守奥、天正十一年六月十日」との墓碑銘があるという(家臣団辞典・朝倉景隆の項目)。恐らく、能登守の妻が亡くなった翌日に改めて寄進を行なったのだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編2548「朝倉右馬助寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書) 1583(天正11)年比定

    能登守為後世、小寺家を被致建立候、依之拙者も其旨存候而、知行之内浦之郷ニ而、御堪忍分五貫五百八十文之処、寄進申候、但五百文者、寺屋敷候、於能登以後も、為違乱有間敷、如此候、仍如件、
    未六月十一日/朝倉右馬助(花押)/良心寺へ参

  • 解釈

    能登守は後生のため、小さな寺を建立されました。これにより拙者もその旨を知って、知行のうち浦郷にて御堪忍分5.58貫文の地所を寄進します。但し500文は寺屋敷となります。能登守以後になっても違乱がないように。

所領役帳の朝倉氏

御馬廻衆に3人、玉縄衆と江戸衆でそれぞれ1人が見られる。知行規模でいうと、右馬助が本家筋で平次郎が分家の有力者、右京進は氏康側近として配属されたという感じだろう。

御馬廻衆

一、朝倉右京進 (43貫815文)
廿壱貫文、豆州、鎌田
廿弐貫八百拾五文、西郡、大窪分
以上四拾四貫八百拾五文

一、卅弐貫文、西郡、佐須分、朝倉孫左衛門 (22貫文)

一、百三拾六貫七百三拾四文、久良岐郡、太田郷、朝倉又四郎 (136貫734文)
此内拾六貫七百卅四文、癸卯増分
以上

玉縄衆

一、朝倉右馬助 (299貫340文)
買得、百弐拾貫文、三浦、浦郷
卅弐貫三百四拾文、同所辰増
七拾弐貫文、豆州、玉川
以上弐百弐拾四貫三百四拾文
此内
百九拾貫文、自前々致来知行役辻
残而
卅四貫文三百四拾文、従昔除役間可為其分、人衆着到出銭者可懸高辻、但浦郷辰増分者重而惣検地上役可被仰付者也
此外
五拾貫文、上総、篠塚
廿五貫文、同、杉谷村
以上七拾五貫文、役惣次重而可被仰付

江戸衆

一、朝倉平次郎 (235貫900文)百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之
五拾六貫三百五拾文、葛西、木毛川
此半役二拾八貫百七拾五文
以上百八拾五貫九百文
此内
百廿八貫百七拾五文、知行役、但木毛川半役共
五拾貫文、御蔵出、此内拾五貫文引銭
以上

武士としての功績

合戦に関わった文書として下記2通が挙げられる。前者では下総原氏への使者を務め、後者では間宮康俊と共に佐竹方の監視役となっている。どちらも直接的な戦功を挙げたものではない。

  • 小田原市史資料編小田原北条0352「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)1556(弘治2)年比定

    動之様体如何、無心元候、昼夜辛労、令識察候、仍柳一荷進候、猶朝倉遠江守可申候、恐ゝ謹言、
    三月廿六日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編1947「北条氏政書状写」(武家事紀三十三)1577(天正5)年比定

    佐竹動之由候処、于今是非之無註進候、如何程進候処、油断之様候、箇様之砌者、其元弥万端遣念肝要候、当表之事者、勝海へ押詰候処、様ゝ悃望候、三日之内可為落著候、謹言、
    九月廿二日/氏政/間宮豊前守殿・朝倉能登守殿

伝肇寺の移設

後北条氏が中央政局に巻き込まれ臨戦態勢が一段と強化される1584(天正12)年になると、城郭の整備が大々的に行なわれるようになる。その一環として、城下の伝肇寺の立ち退きが検討される。

  • 埼玉県史料叢書12_0707「北条家虎朱印状」(伝肇寺文書)

    奥州屋敷構要害之内へ不入而雖不叶地形候、寺内可鑿事無心ニ候ニ付而、先打過候、此度火事出来与云、とても不鑿不叶地与云、此節申付候、堀よりも内之分之地形、何間も候へ、於他所所望次第、可渡置候、扨又堀よりも其寺之方者、勿論可為随意間、如此間在寺尤候、堀端三尺置、木を成共、藪を成共植、寺をかこわるへく候、仍如件、
    三月三日/日付に(虎朱印)/伝肇寺(上書:伝肇寺 天正十二年申甲三月三日御印判也)

  • 解釈

    北条陸奥守氏照屋敷は防御設備内へ入れなくてはならない地形です。寺地を削ることになるので、まず見合わせていました。今回火事があったといいます。とても削れる土地ではありませんが、今回はご指示がありました。堀から内側になる地形の代替として、どんな面積であっても望みの通りにお渡ししましょう。さてまた、堀よりもそちらの寺の土地は勿論ご随意なのですから、以前通り寺を保っても問題ありません。堀端3尺を置いて、木でも藪でも植えて寺を囲われますように。

全く同様の措置として常勝寺も土地の割譲を求められているから、かなり大規模な工事だったのだろう。その2年後に、伝肇寺は朝倉右京進との間で土地売買の訴訟を起こしている。伝肇寺は浄土宗で朝倉氏は熱心な宗徒だったから、右京進が自らの知行を売って代替地を用意しようとしたのだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条1814「北条家虎朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)

    伝肇寺就訴状、朝倉右京進以論書遂糺決畢、然而右京進知行之内為寺屋敷買得、彼改替遅ゝニ付而、以利米可請取旨雖申、証文無之上者、右京進申所不可有之旨、依仰状如件、
    天正十五年丁亥卯月廿八日/日付に(虎朱印)評定衆上野介康定/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の訴状について。朝倉右京進が反訴状を出したので決裁しました。さて右京進の知行の一部を寺屋敷のためとして買得しました。ところがその履行が遅かったために、右京進は利息となる米を受け取りたいとの旨でしたが、証文がなかったので、この申出は不可となりました。

しかし、ここで右京進は「土地を売ったのに決済が遅れている。だからその期間の利息を払え」と伝肇寺に迫ったようだ。そこで寺は後北条氏に訴え出で評定衆の裁許となる。結果としては、売買証文の不備によって右京進の敗訴となった。そこで改めて両者で売買証文が作られる。

拙者私領大窪分之内八貫百文之所、東ハ山角上野介方藪際、西者山中大炊助方藪際、北者新堀はたを限、南者井神之森際、但古道を限而東之分、無年貢、永代売渡申候、於後年棟別・諸公事等不可有之候、然者右之替代、如大法六増倍之積、兵粮雖百六拾弐俵候、江雪斎御指引ニ付而、弐貫弐百五十文之兵粮指置、残所無未進請取申者也、仍後日状如件、
丁亥六月二日/朝倉右京進(花押)/伝肇寺参

  • 戦国遺文後北条氏編3110「朝倉政元証文写」(相州文書所収足柄下郡伝肇寺文書)
  • 解釈

    私の領地大窪分のうち、8貫100文の地所。東は山角上野介方の藪際、西は山中大炊介方の藪際、北は新堀までを限り、南は井神神社の森際(但し古道から東の分)。年貢もなく、永代売り渡し申ます。後年において棟別・諸税があってはなりません。ですから右の代替として、大法にあるように六倍増額して、兵粮162俵となりますが、江雪斎のご提案があったので、2貫150文の兵粮で決定。残額なく全て受領しました。

仲介として板部岡融成が入り、買得金額の受領も完了している。そして、更に翌年の上期〆となる6月末で、寺地の免税が最終的に確認された。

  • 小田原市史資料編小田原北条1903「北条家虎朱印状」(伝肇寺所蔵)

    伝肇寺新地屋敷之儀、朝倉右京進知行之内、永代買得不可有相違、諸役令免許候、猶横合非分之族有之者、可有披露者也、仍如件、
    天正十六年戊子六月廿一日/日付に(虎朱印)宗悦奉之/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の新地屋敷の件。朝倉右京進知行の内、永代買得したのは相違ありません。諸税は免除します。なお、横から異議を唱える者がいれば報告して下さい。

ここで興味深いのは、浄土宗徒だから伝肇寺移転で助力したものの、寺の決済遅れに異議を唱え利息取り立てに及んだ右京進の行動である。信仰心は持っているものの、金銭に関してはきっちりしている側面が窺われる。

相模朝倉氏のまとめ

相模朝倉氏は熱心な浄土宗信者である一方で、資本家としての性格が強く出ているといえる。むしろ、経済活動に利があるからこそ浄土宗を支援した面の方が大きいのかもしれない。

戦闘に直接参加した形跡はなく、経済系の文官だったのは確実だろう。これは借財を契機に駿河国内に領地を得た駿河朝倉氏とも通ずるものがあり、相模から伊豆へ分派した流れが想起される。

こうした性格は、伊豆堀越公方についてきて土着した流れと関係があるかもしれない。鎌倉にも伊豆にも財源を持たないまま赴任してしまった足利政知は行動が著しく制限され、政知被官達による押領が頻発していた。そういった中で頭角を表した朝倉氏が、資本の収奪と運営能力に長けていたのだろう。

後世編著で当てにはならないが、天正17年末に羽柴秀吉と外交が決裂し開戦不可避になった際に、北条氏勝ともども伊豆山中城への籠城を命じられた朝倉能登守は、以下のように毒を吐く。

  • 小田原北条記・関八州古戦録・改正三河後風土記

    「今度の一挙当家運の究ける処歟、山中の白は旧臘より修営ありといへ雖踈々にして全からす。大軍の囲を請てやわか久敷は持タるへしとは覚へす。然るを屋形御思案なく爪牙の功臣四人迄被差置ラルル事は可惜一命を無下に棄損せらるゝ者也」

この態度は独特のもので、開戦準備で不服を唱えて氏政に叱られた氏規を想起させる。氏規は海運と外交関係を背景に独自の地位を保持していたと思われるが、朝倉能登守もまた異色の位置取りをしていた可能性が窺われる。