2018/09/19(水)寺社を焼くということ
寺社は戦国期によく焼かれたのか
漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。
ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。
焼かれたのは何か
放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。
城・防御施設 19例
- 新津のね小屋焼払候を
- 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
- 殊厩橋焼候哉
- 本丸焼崩儀可有之候
- 上野国中在松井田根小屋悉焼払
- 二曲輪焼払候也
- 昨日者武州深谷城際迄放火
- 彼城中ニ有替衆、雖付火候
- 今六日蒲原之根小屋放火之処
- 抑去六日当城宿放火候キ
- 谷中不残一宇放火候
- 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
- 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
- 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
- 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
- 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
- 韮山下丸乗崩、令放火之由
- 小屋ゝゝニ火を掛
- 端城乗入、悉令放火
領域 15例
- 此表者焼動迄之事候条
- 四日ニ上京悉焼払候
- 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
- 就在所鳥波放火
- 佐野・新田領可放火候
- 彼庄内悉放火
- 今度津具郷へ相働悉放火
- 駿府へ被相働、悉放火候
- 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
- 既向滝山放火必然之由
- 江北中皆以放火候事
- 伊豆堺迄放火候
- 次伊豆浦処々放火
- 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
- 三浦渡海、如被存放火
民家 12例
- 家へ押籠被為焼殺候
- 彼山下焼払候旨
- 高遠町令調儀焼候由
- 素家之躰成共焼払所肝要候
- 洛外無残所令放火
- 近辺之郷村放火之由心地好候
- 臼井筋之郷村令放火
- 次白須賀之訳放火之事
- 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
- 御厨中之民家少ゝ放火
- 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
- 地下中令放火之間
失火・自焼 5例
- 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
- 去年於当府千灯院焼失云々
- 火電時令焼失云々
- 先判去年十二月令焼失云々
- 居所とも自焼仕候而
- 火電時令焼失云々
寺社 5例
- 就動乱、堂塔已上九炎焼
- 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
- 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
- 廿三筑波へ乱入、知息院放火
- 清水と申くわんおんたう焼申時
寺社はどのような状況で焼かれたのか
飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。
倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。
後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。
武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。
5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。
天文3 松平次郎三郎→猿投神社
天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、
- 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)
永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺
就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定
永禄12 武田晴信→須津八幡宮
駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊
- 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定
天正16 後北条氏→筑波知息院
態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江
- 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定
年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂
(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」
- 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)
2018/08/06(月)「戸張」を含む文書
群馬県史資料編3_3692「北爪右馬助覚書」(岩手県・南部文書)。年欠
(後筆:北爪右馬助軍功書出、八月三日・紙数七枚)御尋ニ付而申上候、一、越国より新田へ御はたらきの時、田嶋ニおゐてくひ一ツ取申候、此請人本田豊後殿ニおり申候、長瀬伊賀、牧野殿ニ有之、あくさわ治部此両人存候事、一、新田の太田とはりきわニて、くひ壱ツとり申候、此請人右之両人之衆、又松平たんは殿ニおり申候、矢嶋三河存候、一、新田・ふちなニてくひ一ツ取申候、馬場二郎兵へ・千本木四郎兵へ存候事、是ハ越前へ御よひ候、被罷越候哉、おり所不存候、一、新田かなや口ニてくひ一ツ取申候、此請人まへはしさかい殿ニおり申候、石田ひこ・しけの内善存候事、一、新田ゆの入之よりいおしはらいあけはニてきつき申候処を、おしかへし田村と申者打、くひ取申候、此請人右之両人存候事、一、越国あしかゝへ御はたらきの時分、旦那ニ候五藤左京助、屋形様の御意ニそむきこはたおしほり申候時、あしかゝひかしとはりニおゐて、樋口主計おや両人共屋形さま御かんせんニてはしり廻、くひ一ツ取申候ニ付而、五藤こはたお其時ひらかせ申候、此請人長瀬伊賀、まへはしニ罷有石田・しけの内者ニ御尋可被成候、一、きりうさかくほの城ゑんこくより御せめ被成候時、竹はたのはさくまさしニいまい助之丞と申者、いまい与兵へと申者[我等]三人被仰付候時、御はなさき御がんせんニゐてくひ一ツとり申、此両人ハ其時うちしに仕申候、拙者もしかい同前のておい申処、やかた様御意おもつて御引取被下候、此御ほうひとしてくら内ニおいて御蔵米百石被下候、此請人本田豊後様ニおり申候長瀬伊賀存申候事、此外存候者共多候へ共、御家中ニ罷有者お申上候事、一、小見さかさ川の御陣之時、くひ一ツ取申候、請人まへはしニ罷有わたぬき甚内存候、一、ゑんこくよりはにう殿御引取被成候時、いゝの入小屋之衆ことゝゝくおし候て、人つき申候時、やかた様御ちしん五藤か衆をめしつられ、御かへし被成候時、御かんせんニてさいはいもちこち、くひ取申候間御はうひとして、御はをり一ツ被下候、此請人さのゝ太ふ殿ニおり申候、市川やと申者存候、一、あかほりニてくひ一ツ取申事、右之衆又内ゝ牧野殿ニおり申候あくさわ存候事、一、たるニ而くひ一ツ取申候事、此請人わたぬき甚内存候、一、新田江田ニてくひ一ツ取申事請人直江山城殿ニおり申候かぬまいなは存候事、一、きたちうあきのかミふたう山の城めおとし申候時、両日ニくひ二ツ取申候事、請人まへはしニ罷有しけの内善・ほしの賀兵へ存候、一、蔵内なかて取申候事、くひ一ツ取申事、此請人かたかい人や存候、松平たんは殿ニおり申候、一、小田原よりゑんこくへ三郎様への五つめとして御はたらきの時、上田ニてくひ一日ニ二ツ取申候、此請人まへはしニ罷有候わたぬき甚内、奥州ニかけかつニ罷有北条のと存候事、此ほうひとしてあきのかミ所より馬くれ被申候、一あきのかミいたての城かばのさわゑんこく衆せめ、二のまる迄せめあかり申候所ヲついておしいたし、三のまるニてくひ一ツ取申候、此請人わたぬき甚内・かたかい賀兵へ存候事、一、小田わらよりまへはしへ御はたらき之時しものてうとはりきわニて一人うち申候へ共、しかいとうせんのておい申候間、くひハ捨申候、請人北条能登守存候事、一、ゑんこくよりそうちや・いしくらおせめ被成候時、此五つめとして竹田しんけん様松井田迄御出候所ニ、御はたらきさきへ物見ニ罷越くひ一ツ取申候、此請人秋本越中かゝいニ候福田かけい左衛門尉存候事、此外はちかたへ罷うつり九年之内之事、一、おけかわいくさの時、くひ二ツ取申候事、此請人さかきはら殿罷有候つかさわ五郎兵へ、越前ニ罷有候岡谷隼人存候事、一、小田はらよりまへはしへ御はたらきの時分、たかはまとはりきわニてくひ一ツ取申候事、右之隼人被存候事、一、小田はらよりくらうちへ御はたらき之時、森下の城せめおとし被申候時、くひ一ツ取申候、請人かゝニおり被申候いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、ぬまたおかわニてくひ一ツ取申事、請人越前ニ罷有おゝこしへんの助・いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、一、くらうちかわはへのはたらきの時、くひ一ツ取申事、請人秋本越中かゝいニ候、小川主水存候、上泉主水存候へ共、老しに被申候、一、くらうちとはりきわニてくひ一ツ取申候事、請人三川様ニ罷有候本郷越前・岡谷はやと被存候事、小田原よりうつの宮へ御はたらきのとき、くひ十とり申たるよりもまし可申候間、いけ取いたし候へてきせつ御きゝ可申候間いけ取いたし候、則進上申候此請人御家ニ罷有大鷹七右衛門尉存候事、此外八ツハ御かんてう御座候、此内二つハやかた様かんてう、六ツハあわのかミ様御かんてうニ候、請人ニおよひ不申候事、此外奥州ニての走廻之事、一、川俣の城せめおとし申候時、くひ三ツとり申候事、請人御家ニ罷有候樋口主計、根岸主計存候事、一、もかミはたやニおゐて、さがいひせん二千斗ニて上申候処ニ、上泉主計おやこ召連ハしえきのりつめさがいひせんを十二やりつき申候へ共、ミへどをり不申候由申、さかいうちのさいはいもちつきおとし申候、御不しんニ候ハゝ、かミ殿御煩時分、さがいひせんニ御尋可被成候、てきよりもミたれ、ほしの・こはた・くまの・かわてたちハたれそと、かすか右衛門尉所へ尋被申候、いまニさがいひせんニハふちあんないニ候、已上、くひかす、卅九、此内いけとり一ツ、
八月三日/北爪右馬助/宛所欠
埼玉県史料叢書12_0275「上杉輝虎書状写」(三州寺社古文書三)注記、畠山下総守ヨリ謙信消息ノ写也。1564(永禄7)年比定
彼飛脚とくニも可返候へ共、爰元様見届さセ可越ためとめ置候、然者爰元様和田少地ニ候得共、晴信年を入いかにも堅固こしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、併馬を為寄候上者善悪ニ不及候間、無二セめへきそうふんにて、当月七日より取詰候へ共、れいしき国衆油断之様候つる間、越後之者共直ニ召連、惣体白井案内者にて、十一日ハとり入候、北条・箕輪・横瀬を始いつれの国衆もとはかり候しを、一つも取へす候へ共、涯分かセきそうしや・白井・越後衆者くるハにそのまゝのほりつめ置候、けつくよのてよりハてをいもこれなく候、うちのまるとはりへは五間とハ申度候へ共、十間のうちにて候、そこもとへも直ニこへ見つかり候間、いまゝてハ志内口よりハてきまへちかく候、又人数も味方者大くんニ候か、小地とハ申なからまへ五返に取まき候へ共、うつの宮・佐竹・あしかゝ衆者ひきはなし、陣取ニとんしやくなくおき候間、人数にふそくハこれなく候、併めい地にて候間、ほとのひ候てにん数すき候ハん時、両持の後詰あつてよこあいきうちのところをは、しられす候、ちやくはいなから身のうへもののふんハ、人数只今の分ニ候ハゝ後詰ハいかんあるましく候や、又両持後詰すくにおゐてハゝ国衆の事ハ佐・宮を始、弓矢かいなくわたられ候間、越後衆計ニていくさハかないかたく候、房州・太田いくさにまけ候時よりも、たゝいまハきうくつなんきニ候、とかくにこのたひハかたゝゝにあふへき事いかんあるへく候やと、心ほそく候間、はやくはかをやるへきために、一昨夜いちはんやりをとり、へいきハまてこへ候て、見かくしをゆわせ候へ者、めのまへの者ともハはらをたて候てうたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうになくゆたん候へ者、ことのひ候てきうしくちおしく候間、さてセいに入候、こさいかのきやくりきけんぶん、こさいにおよハす候、謹言。かいほつ又らう人衆のうちに一両人ておいし、さセるきなくうすてニ候、返々いつもよりかへりたく候間、このたひハおつとあるへく候やと心ほそく候、
三月十三日/虎(花押影)/金津新右兵衛尉殿・吉江中務少輔殿・本庄美作守殿
埼玉県史料叢書12_0284「簗田晴助書状写」(古簡雑纂五)。1565(永禄8)年比定
氏■当地江被取懸候附而、急度御札畏入存候、仍去二日巳刻被寄来候間、宿之外へ出人数候之処、太源為先勢打寄候間、懸野伏候処、氏康備前迄引退候、午刻氏康父子取手鑓被寄来候間、致行、宿之内へ引入、大戸張・小戸張・新曲輪、自三戸張切て出、新宿迄払出候、敵手負死人数多候条、用客廻ニ不得陣取、号中戸所、五里計引除陣取候間、翌日一行可令興行候由存候処、夜中退散無念此事候、何様御尋之御礼、自拙者可奉略候、恐々謹言、
三月七日/中務入道晴助(花押影)/佐竹次郎殿御報
埼玉県史料叢書12_0436「北条氏繁書状」(簗田家文書)。1574(天正2)年比定
依奥口所用有之、脚力差越候之処、被聞召届、貴札到来、并也三也令披読候、殊更御鷹一もと被懸芳意候、御厚志と云、地鷹と云、自愛無他事候、此等之趣、必々以使者可申入候、仍麦作為払捨可申越河、于今水海と申地簗田在戸張際ニ被陣取候、作毛悉壚ニ被致之候、当月中者、幸島口張陣可有之分ニ候、兼又其許御様子如何、承度被存候、節々氏政へ御通用可為専一候、対盛氏無二可申談心底逼塞被申候、猶以御鷹拝受本望、更以難尽筆舌候、令帰陣上、急度以使者可申述候、自陣中申入之間、抑先及尊答候、恐々謹言、
五月二日/北左氏繁(花押)/岩崎江貴報
小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p41「北条氏邦ヵ感状写」(酒井家史料十二)。1579(天正7)年比定
去廿六日きた条手切拠無処押返、於山之戸張際敵一人討捕候、高名之至無比類候、就走廻猶心懸者可及恩賞者也、仍如件、 卯拾月廿八日/差出人欠/北爪大学助殿
戦国遺文後北条氏編2145「北条氏邦感状」(北爪守雄氏所蔵文書)。1580(天正8)年比定
於山上戸張際、敵数多討捕之由、高名之至、無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、
辰二月廿七日/(北条氏邦花押)/北爪将監殿
埼玉県史料叢書12_0764「北条氏邦書状写」(赤見文書)。1585(天正13)年比定
今度沼田宿城於上戸張、両人高名、殊強敵ニ逢、鑓手数ヶ所被負、手柄之勝負、誠無比類候、御旗本御仁江茂、則猪俣を以申上候、中ニも其方走廻儀、及御披露ニ候処ニ、不浅御褒美之上意ニ候、追而御勘状可被下之由、被仰出候間、可被存過分候、恐々謹言、
九月廿九日/氏邦/矢野兵部右衛門殿
埼玉県史料叢書12_付183「北条氏直書状写」(小幡文書)。年欠
両種到来、祝着候、疾之模様如何、無心元候、好々養性専一ニ候、依而為慰労、金屏風一双、進入之候、乍序、昨日者於戸張際有仕合、敵押崩、百余人討捕、二曲輪焼払候也、恐々謹言、
月七日/氏直(花押)/小幡播磨守殿
埼玉県史料叢書12_付231「上杉憲政書状」(岡部忠勝家御文書)。年欠
先年当城相攻候時被疵、重而今度親子厳密令在陣、去六日於戸張際励戦功、数ヶ所負手候、忠信誠感悦候、当国本意之上可行忠賞候、然則不行歩之事候間、於向後者戦場之上、何時も以乗馬可走廻候、委曲倉賀野三河守可申遣候、謹言、
十二月十一日/憲政(花押)/岡部平次郎殿
2018/06/12(火)後北条氏はどの段階で当主を「大途」と言ったのか
後北条家の当主はいつから「大途」と呼ばれたのか
『戦国大名と公儀』(久保健一郎)にある表を元にして、後北条家が文書で「大途」をどのように使ったのかを改めて調べてみた。
久保健一郎氏はこの書籍で、後北条当主が「大途」を呼ばれることになった最初の例を、1550(天文19)年の相承院文書(戦北380)に据えている。このことから、古河公方との関係性において「大途」が出てきたと推測されている。
しかし、下記で史料を検討したように相承院文書を読んでみると、この「大途」は当主人格には当たらない。
以下、初期の「大途」を細かく読んでみると、古河公方というよりは、上杉輝虎との関係性において立ち上がってくるのが当主人格の「大途」だと。
後北条氏が完全に「大途=当主人格」と言い切れる用例を使ったのは、1562(永禄5)年が初めてとなる。
その後、上杉輝虎と同盟交渉で「大途」は当主以外の用例で出てくるのが例外で出てきて、更に1571(元亀2)年に曖昧な使い方をしているのを最後にして大途=当主の用例に傾いていく。
つまり、永禄3~4年の大攻勢を経て、越相同盟交渉での相互の相対化を経由して「当主=大途」が後北条家の中で確立されていくようだ。
史料
1550(天文19)年
6月18日
中納言へ之判形をは大道寺可渡遣候
相承院一跡之事、前ゝ中納言ニ被申合候事、様躰無紛聞候、大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候、仍三浦郡大多和郷、前ゝ相承院拘之地之由候、然ニ、近年龍源院被致代官候、龍源死去候之間、大多和郷相承院江渡置候、彼郷年貢之事、本務五拾余貫文、増分六拾七貫文ニ候、此内、為廻御影供之方、増分六拾七貫文、院家中配当ニ相定候、残而五拾貫文、相承院可為所務候、彼郷重而附置候上者、可然僧をも被御覧立、只今之中納言ニ被相副、相承院無退転様ニ可有御助言候、恐ゝ敬白、
六月十八日/氏康(花押)/宛所欠(上書:金剛王院御同宿中 北条氏康)
- 戦国遺文後北条氏編0380「北条氏康書状」(相承院文書) 1550(天文19)年
そもそも、当主自身の氏康が裁決しているのに、「大途=当主」の公事には及ばないという書き方はしないだろう。「大途不及公事儀候間、大道寺・桑原、其段可申付候」というのは、この案件は「公事に及ばず=議論し裁決するほどのことではない」という主張が主であり、その形容詞としての「大途」が「名分としては・大きくいえば→表立って・仰々しく」という形容詞になっていき、「大げさに裁判するほどのことではないから、大道寺と桑原が指示を出す」と解釈すべきだろう。こちらの方が意味は通る。
1560(永禄3)年
9月3日
芳札披閲候、抑 関宿様江言上御申之由、目出珍重候、御満足之段、以御次可及披露候、就中、佐竹御間之儀、一両度雖及意見候、無納得候、遠境与云、我等助言不可届候、并那須御間之事、承候、当那須方与入魂之儀無之候、大都迄候、雖然蒙仰儀候間、連ゝ可及諷諌候、畢竟、如承瑞雲院頼被申肝要存候、委曲御使芳賀大蔵着与口上候条、不能具候、恐ゝ謹言
有明卅丁給候、祝着候、
九月三日/氏康(花押)/白川殿
- 戦国遺文後北条氏編0641「北条氏康書状」(東京大学文学部所蔵白川文書)
北条氏康が白川結城氏に対して、那須氏とはそんなに付き合いがないと書いている。「大都まで」というのは「大まかな形だけ」という表現を指すだろう。
10月15日
態啓候、其地普請堅固ニ出来之由、稼之段、肝要候、但、大敵可請返地形、爰元無腹蔵可有談合候、仍分端之動事如何、那波地難儀間、大途調迄者、遅ゝ候条、先一動可有之由茂因へも申越候、其方相稼、早ゝ先一動可有之候、委細河尻申候、恐ゝ謹言、
十月十五日/氏康(花押)/宛所欠
- 戦国遺文後北条氏編0650「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)
北条氏康が、迫り来る上杉氏の来攻を前に「那波の地は難しいので『大途調』までは遅々としているので」と書いている。大途調はどうも「殆どの情報を調べ上げるまでは」と解釈すると意が通るように思う。
1562(永禄5)年
8月12日
知行方之事
五貫文、円岡
壱貫文、田村ニあり、松村弥三郎分
弐貫文、すへのニあり、小林寺分
以上、八貫文
右去年以来、於日尾御走廻ニ付而、申請進之候、御大途御判形者、各ゝ一通ニ罷出申候間、拙者判進之候、仍如件、
八月十二日/南図書助(花押)/出浦小四郎殿
- 戦国遺文後北条氏編0775「南図書助判物」(出浦文書)
この「大途」は当主人格を指す可能性が高い。丁寧語として「御」を付けているし、その「御判形」となれば、虎朱印を指すと思われるからだ。
1563(永禄6)年
4月12日
書出
一ヶ所、堤郷
一ヶ所、篠塚・中島
以上
右、当所進之候、可有知行候、猶本領之替、大途へ申立、可進之者也、仍如件、
永禄六年卯月十二日/氏照(花押)/安中丹後守殿
- 戦国遺文後北条氏編0808「北条氏照判物」(市ヶ谷八幡神社文書)
本領替えを申し立てる対象が「大途」なので、これは当主人格だろう。
7月28日
三沢之郷之事、各無足ニ候へ共、被走廻ニ付而、自大途被成御落着候、全相抱弥以可被励忠節候、於此上ニも、猶可被加御扶持状如件、
亥七月廿八日/横地(花押)/十騎衆
- 埼玉県史料叢書12_0260「横地吉信判物」(土方文書)
持ち出しで活躍した十騎衆に対して、大途より状況が落ち着いたら三沢郷を与えようと約束した判物。三沢郷を与える権限を持つということで、大途は当主氏政を指すだろう。
1570(永禄13/元亀元)年
2月27日
今度御分国中人改有之而何時も一廉之弓矢之刻者、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当之望之義被仰付可被下候、并罷出者兵粮可被下候、於自今以後ニ虎御印判を以御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者去とてハ、其国ニ有之者ハ罷出、不走廻而不叶意趣ニ候処ニ、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)二見右馬助・松井織部助・玉井孫三郎/宛所欠 -戦国遺文後北条氏編1384「北条家朱印状」(高岸文書)
国の危機に際して全国民を徴発する権利を主張するもの。背く者を処罰することについて「これは大途のご非分ではない」と言い切っている。大途を大義名分に言い換えても意味が通じる気もするが、「御非分」と丁寧語にしている点からみると当主である可能性がとても高いと思う。
2月27日
今度御■国中人改有之而、何時も一廉之弓箭之■■、相当之御用可被仰付間、罷出可走廻候、至于其儀者、相当望之義被仰付可被■■、并罷出者、兵粮可被下候、於自今以後、虎御印判を以、御触ニ付而者、其日限一日も無相違可馳参候、抑か様之乱世ニ者、去とてハ其国ニ有之者ハ、罷出不走廻而不叶意趣ニ候処、若令難渋付而者、則時ニ可被加成敗、是大途之御非分ニ有間敷者也、仍如件、
午二月廿七日/(虎朱印)横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉/鑓、今井郷名主小林惣右衛門
- 戦国遺文後北条氏編1385「北条家朱印状」(清水淳三郎氏文書)
前号文書と同文。
3月26日
一、此度被翻宝印、望申如案文、遠左被召出、預御血判候、誠忝令満足事
一、三郎、来五日、無風雨之嫌、当地可致発足事
付、彼日取流布候間、其砌信玄出張無心元存候、畢竟利根川端迄、此方送随分堅固ニ可申付候、利根川向端はたより可渡申間、倉内衆・厩橋衆堅ゝ被仰付専一候事
一、相房一和、先段如申届、不可背御作意候、猶様子顕書中候、此時御彼国へ被指越、引詰而御落着専要存事
一、初秋之御行、何分にも可有御談合由、誠本望至極候、但、只今御労兵之砌と云、窺御帰国信玄擬之処、大切存候、爰元進藤方・垪和両口ニ、委細申付候間、御備之様子、具御返答待入事
一、愚老父子条書之内、武上之面ゝ、後日無異儀様、弥可定とハ如何不被聞召届由候、爰元専ニ遠左ニ申含候、不達上聞処、左衛門尉越度、無是非候、併御奏者挨拶ニ、此儀二三之申事之由、被押旨致陳法候、武上之二字所を指而者、忍・松山大途雖無御別儀候、一度越苻可蒙御退治趣、深存詰候、越相御骨肉ニ被仰合上者、並而相州可得退治候、然時者、信玄へ申寄外無之由、指出申候、はや通用三度及五度者、信玄可乗計策事必然候、信玄ニ内通可令停止者、越苻為先御誓詞、忍・松山証人可取間、極御誓句段申入候、垪和ニも此口味同前候、猶此度申入候、委細口上ニ可有之事
一、新太郎所へ如被披露御条書者、愚老父子表裏を当憶意哉之由、蒙仰候、既此度前ゝ之誓句を改、只一ヶ条、無二無三ニ可申合段、翻宝印、以血判申上者、表裏之儀、争可有之候哉、惣而前ゝ誓句之内、一点毛頭心中ニ存曲節儀無之候キ、御不審之儀者、何ヶ度も可預御糺明候、就中実子両人渡進儀、誠山よりも高、大海よりも深存置処、猶愚ニ思召候事、無曲存候、此上も、或者佞人之申成、或者不逢御意模様可有之候、当座ニ御尋千言万句肝要候、さて御入魂之上者、相互道理之外不可有之間、於道理者、不及用捨可申展候、不届儀者、何ヶ度も御糺明、此度互ニ御血判之可為意趣事
一、此度三郎参候路次以下之儀、由信致馳走様ニ被仰付、肝要存候事
以上、
三月廿六日/氏政(花押)・氏康(花押)/山内殿
- 小田原市史小田原北条0950「北条氏政・同氏康連署条目」(米沢市教育委員会所蔵上杉文書)
後北条氏が当主を「大途」と呼ぶのは家中に限られるので、上杉輝虎との交信で使われたこの例は該当しない。ただ、参考までに呼んでみると「忍・松山大途雖無御別儀候」=「忍・松山は『大途=ほとんど』別儀はないとはいえ」と読める。
1571(元亀2)年
8月20日
改而定御扶持給請取様之事
一、弐貫七百文、扶持上下三人九ヶ月分
此内
九百文、八・九・十、三ヶ月分、八月廿五日より同晦日を切而可請取
九百文、十一・十二・申正月、三ヶ月分、十月晦日ニ可請取
九百文、申二・三・四、三ヶ月分、正月晦日ニ可請取
以上弐貫七百文、九ヶ月分皆済
此外九百文、申五・六・七、三ヶ月分、申六月可出
一、七貫七百五十文、給、自分
三貫文、同、番子
以上拾貫七百五十文
此内
三貫弐百文、九月廿日を切而可請取
三貫弐百文、十月廿日を切而可請取
四貫三百五十文、霜月廿日を切而可請取
以上拾三貫四百五十文
合拾三貫四百五十文、給扶持辻
此出所
弐貫七百文、扶持、西郡懸銭米、安藤豊前守・松井織部前より、於小田原御蔵、可請取之
七貫七百五十文、給、同所懸銭米、両人前より、於御蔵、可請取
三貫文、番子給、同理、同理
以上拾三貫四百五十文
右、定置日限無相違可請取之、若日限相延者、五割之利分を加、厳渡手ニ致催促、可請取之、猶不承引者、可捧目安、如此定置上、年内ニ給扶持不相済、至于申歳令侘言候共、大途不可有御許容者也、仍如件
追而、此配符来年七月迄可指置、若出所至于申歳令相違者、別紙ニ御配符可被下、無相違者、如去年与云一筆之御印判可出者也、
辛未八月廿日/(虎朱印)/畳弥左衛門・同番子
- 戦国遺文後北条氏編1507「北条家朱印状写」(相州文書所収足柄下郡仁左衛門所蔵文書)
この大途は、両方にとれる。「侘言をしても許容しない」のが眼目なので大途=当主と見た方が読みやすいが、「御」が見当たらず「大義名分的に許可は出ない」という表現なのだとしても通りはする。もしくは、どちらでも読めることを見越して使っている可能性もある。
1574(天正2)年
2月21日
以御飛脚・御直札遂披露御返書進之候、委細御紙面ニ候条、不能重説候、大坪之地正左再興申候歟、無是非存候、大途をも可抱地ニ候哉、如蒙仰甲州御扱之内如此之儀、不及是非候、彼使衆ニ御理在之様可遂披露候、然者輝虎厩橋近所へ越山之由注進候、因茲被摧諸勢火急ニ御出馬候、彼表之様子追而可申候、時分柄如何ニ候間、為指儀不可有之候歟、随而甲州・房へ之使近日当地迄帰路候、義堯御父子御返答一途無之、毎度之分と、先甲陣へ御通候帰路之砌、勝頼御同意ニ可有御返答分ニ候、其上其表之儀落着可申候、只今者越衆之行被合御覧之儀迄ニ候、麦秋以前ニ北口之儀者可相澄候歟、追而可遂御内談候、珍儀可申入候、又可蒙仰候、恐ゝ謹言、
二月廿一日/松左憲秀(花押)/原式参御報
- 戦国遺文後北条氏編3937「松田憲秀書状」(西山本門寺文書)
文意がとりづらいのだが、大坪という土地について、正木氏が再興しようということなのかと質問し、是非もないとしながら更に「大途をも抱えるべき地なのか」と訊いている。正木を通して大坪の地権を後北条当主が保証すべきなのか、という点を確認したかったと思われる。形容詞として「名分的にも抱えるのか」と質問したようにも解釈可能だが、そうなると質問を重ねた意図が判らなくなる。
9月3日
従品河之郷所々江欠落之者之事、人返者御国法ニ候、為先此一札領主へ申断、不移時日可召返候、若違乱之輩有之者、背国法子細ニ候、大途江申立、可及其断者也、仍如件、
天正二年甲戌九月三日/氏照(花押)/品河町人・百姓中
- 戦国遺文後北条氏編1726「北条氏照判物写」(武州文書所収荏原郡清左衛門所蔵文書)
この文書より先は、「大途=当主」と見てほぼ例外はない。
9月10日
下足立里村之内保正寺寺領之事、大途無御存而、先年自検地之砌、御領所ニ相紛候歟、彼寺領壱貫弐百文、如前ゝ無相違御寄進候、仍状如件、
天正二年甲戌九月十日/(虎朱印)評定衆四郎左衛門尉康定(花押)/保正寺
- 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)
1575(天正3)年
3月22日
●(前欠)小曲輪十人、内村屋敷へ出門十人、板部岡曲輪十人、関役所二階門六人、同所蔵之番十人、鈴木役所之門以上一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事以上右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿
- 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)