2017/04/21(金)北条氏政の息子たち

戦国遺文を元に、可能な限り厳密に考えてみた。

1)まずは南殿(黄梅院殿)に関連した動き。

  • 1554(天文23)年 南殿入嫁(勝山記・高白斎日記)
  • 1555(弘治元)年11月8日 男子出産(勝山記)
  • 1557(弘治3)年11月19日 晴信安産祈願
  • 1562(永禄5)年 氏直生(系図?)
  • 1565(永禄8)年 氏房(系図?)
  • 1566(永禄9)年5月・6月 晴信が安産祈願

2)編年別で追ってみる。

●永禄12年

  • 国王丸 氏真養子となり駿河を譲られる
  • 国増丸 輝虎養子候補となるが幼少で外される10月段階に「5~6歳」なので永禄7~8年生

●天正3年

国増丸の岩槻入りが確認される

●天正5年

9月8日に氏直の名乗り初見。

●天正8年

菊王丸が大井宮に料足寄進(御屋形様・源五郎・御隠居様と連名)源五郎が岩槻で文書発給

菊王は諸書で氏房に比定されている。宗哲は菊寿、氏隆は菊千代なので、名乗り的に久野北条氏と関係があるかも。永禄9年5~6月に晴信が安産祈願している対象が菊王とすると、永禄10年生まれとなり天正8年は14歳で元服前の可能性が大きくなる。系図で氏房を永禄8年とする点は留意が必要。

●天正9年

9月20日十郎殿が初見(相模東郡)

●天正10年

  • 3月6日源五郎が富士川周辺で戦闘
  • 7月8日源五郎死去

●天正11年

7月28日岩槻で氏房が発給文書開始

●天正17年

  • 2月25日氏邦が不法は新太郎へ訴えろと指示
  • 4月27日関宿か江戸近辺での密漁が七郎配下の仕業と判明
  • 8月1日千葉直重が文書発給開始

3)まとめ

某:弘治元年生まれの男子は登場しないため恐らく夭折

新九郎氏直:系図で永禄5年とされるのは、天正5年初見からして妥当。仮名は義氏書状から確定。

後北条氏家臣団人名辞典が「ただし、氏直文書の署名に「北条」と名乗ったものが一通も確認されず不思議である」とする謎も、今川家を継承した前提からとすると国王丸である可能性も高い。

源五郎:岩槻との同時代関連性から国増丸の可能性が高い。実名不詳。

十郎氏房:菊王丸の名が久野北条氏と近しい点、十郎殿が同氏と関係のある相模東郡と関わっている点から、菊王丸=十郎であり、源五郎死後の岩槻に入った氏房が「十郎氏房」を自称していることから、それぞれの比定は妥当。但し生年は永禄10年である可能性が高いと思われる。

七郎直重:七郎と直重の登場時期と地域が近しいため、同一人物の可能性が高い。

新太郎直定:氏邦書状の新太郎と、「新太郎直定」と自称した年欠高室院文書から同一人物との比定は妥当。

※直重・直定は通字「氏」がない点、登場時期から氏政前室黄梅院殿ではなく、後室の鳳翔院殿が母である可能性が高い。

※「顕如上人貝塚御座所日記」の表紙見返しに「相模国北条氏政[四十六歳、天正十四年]、氏直[廿三歳]当家督也」とある。これが正しいとすると、氏政は天文10年、氏直は永禄7年の生まれとなり、それぞれが通説より2歳若い。であるなら、氏直は国増丸だということになる。

2017/04/21(金)要検討史料 松田政晴の場合

よく出てくる「検討を要す」の文書を、出所から追ってみた。近世にも戦国マニアがいて、色々と活動しているのだなと。

笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」天正八年八月十六日/御判/笠原新六郎殿戦国遺文後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

「この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します」

笠原政晴は松田憲秀の次男で、笠原千松の陣代となり、伊豆徳倉城番に入った後に武田勝頼に与した。武田家滅亡後の所在は不明で、僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われている。遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議に思った。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうやら明確な繋がりはないようだった。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、笠原家には後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

この記述には混乱も見られる。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きの政載の仮名は「助左衛門」と変えられている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。推測すると、政載は新六郎と名乗ったが、本来は助左衛門が通例であって、息子の代で戻したということか。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

前掲の徳川家康書状写も文言に奇妙な部分が見られ、もしかしたら政載が作ったものかと思えてくる。

「今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候」

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する長期戦だった。この戦いを目前に控えて家康が喜ぶほどの「契約」とは何か。兵粮支援や援軍ならその旨を明確に書いている例が多いし、ここで「契約」の語を使う意図が掴めない。大名間のやり取りで政晴が取次だったとしても、当主氏直の名が全く出てこない点も不可解だったりする。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」という通称を書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに『松田家の歴史』というサイトで笠原政晴の墓についての記述がある(44ページ)。

「笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある」

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているようにも見える。

その間の係累がはっきりしない上本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。

2017/04/21(金)軍役をこなせるのは何歳から?

後北条氏の被官が何歳で成人となり軍役につけるかを考えてみた。とはいえ2例からなので、他にもあるかは引き続き調査中。

後北条氏には成人とみなす基準年齢があったのかも知れない。

天正3年に幼少の笠原千松に対して松田政晴を陣代としてつけた際「来る癸未年まで9年間」と限定している(戦北1771)。これは松田氏側の要因もあるのかと考えていたが、別の文書で少し理解が進んだ。

永禄12年、幼少の本田熊寿に伯父甚十郎を手代としてつけた際に「未年より跡目相続して陣役を務めよ。もし伯父が非分をするなら訴えよ」としている(戦北1251)。こっちは巳年発行の文書で言っているので、3年間の手代期間。家臣団辞典によると熊寿は本田正家で、1584天正12)年に小牧陣への援軍として選抜されている。正家は1618(元和4)年に61歳で死去というから、熊寿だった1569(永禄12)年時は12歳、家督継承時は14歳。

本田氏の例から敷衍すると、笠原千松は天正3年時に5歳だっということになる。

後北条氏が百姓らに出した総動員令で「十五より内之童部」は免除されているので、武家はこれより早めに軍役につけたというのが現状の仮説となる。

笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡、然者代官所同心衆私領如比間、請取厳密ニ可致之、就中、豆州郡代之事、如先規相改、毛頭掟無妄様ニ可被走廻、仍状如件
天正三年乙亥三月二日/氏政(花押)/松田新六郎殿
戦国遺文後北条氏編1771「北条氏政判物」(松田敬一郎氏所蔵文書)

父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件
永禄十二年己巳壬五月廿日/(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉/本田熊寿殿
戦国遺文後北条氏編1251「北条家朱印状」(本田文書)

掟一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為 推候、以上
七月廿三日/(朱印「有効」)/木古葉小代官百姓中
戦国遺文後北条氏編3350「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)