2017/04/20(木)足利義氏の関宿入りを巡る北条氏康のややこしい書状

1555(天文24)年比定の5月24日書状がちょっと面白いので、解釈を色々と考えてみた(戦国遺文後北条氏編581「北条氏康書状」)。逐次書き出してみる。

1558(天文24/永禄元)年比定 5月24日北条氏康 → 瑞雲院周興

追而申候意趣者、先日以氏政彼御侘言申上候、■■納得之御返答、

追ってお伝えする意趣は、先日氏政から陳情申し上げ、(文字欠)ご納得のご返答でした。

文頭から追伸となっていて、これは正規の書状の後に送られた追記だと判る。先日、氏政が周興経由で、恐らく義氏に何か陳情をして受諾されたとある。この陳情と後の内容が関連するかは、現段階では不明。

其御次ニ右馬允両年被為■■■■進退無相違可申調由、 被仰出候、

その次に、右馬允が両年(文字欠)進退は相違なく調整するようにと、仰せになりました。

文字欠が多く解釈が難しいが、「次」が丁寧語の「御次」であること、欠字を伴う「被仰出」があることから、右馬允に義氏から仰せ出しがあって、両年にわたる忠節か何かに免じて「進退」を調整せよとなった事を取り上げている。他者の解釈ではこの「進退」を「右馬允の古河城主の地位」として把握しているようだが、私は疑問を持っているので、この後の解釈ではこの意味も探ってみたい。

時節如何■■、今度之一儀、中務無相違令納得候儀も、

時節はいかが(文字欠)、今度のことは、簗田晴助は相違なく納得されましたが、

これも文字欠で読み取れないが、時節=タイミング、如何=どのようにか、という文の後に中務(晴助)が納得した、と読むのが自然だろう。文の末尾が「も」で、晴助が納得しても状況に問題があることが判る。

先万右馬允極ゝ遺恨候、加様之儀惣ニ散、向後家中をも此度堅固ニ可致所、

前に右馬允が強い遺恨を持ったのです。このようなことを全体に散らしたのです。今後家中で結束を固めるべきところ、

「先万」は他例がなかったので「先般」か「千万」の当て字だと推測した。但し「千万」は文頭に出た例を見たことがないから、「以前に右馬允がとても強い遺恨を持った、それが問題の原因だ」という意味合いに解釈した。その後の「惣ニ散」も「粗忽に取り散らした」か「惣=全体に拡散した」かのどちらかだろう。今後の家中結束に影響があると氏康が案じているから、後者だろうと思う。

自此方徳失を勘立諫候ニ付而合点候、

こちらより得失を考えるように諌めますから、ご諒解下さい。

「此方」は氏康たち後北条方を指す。損得を弁えるように圧力をかけるから、それは諒解しておけということだろう。

然者右馬允改易之事、誓句ニ者不戴候へ共、最前ニ別儀有間敷由申候、

ということで右馬允を改易することは、起請文には書かれていないことですが、以前には異議があってはならないと言っています。

この起請文は氏康・義氏が簗田晴助と交わしたもの。ここに右馬允の改易は書かれていないけれど、既定路線に変更があってはならないということを氏康が強調している。ここは両義性を持っていて、起請文をきっちり守るならば、右馬允の改易は行なうべきではないという見方もできる。氏康の主張はこの時点で説得性がない。

抑彼地入御手之事者、一国を被為取候ニも、不可替候、

そもそもあの地をご入手なさることは、一国をお取りになるのとも替えがたいことです。

これは、先の起請文で晴助から義氏に献上された関宿を指す。結構有名な語句で関宿の要地ぶりを語る際に引用されているが、出てくるのはこの物騒な文面だったりするのは余り知られていない。

当意随御威光、御本意者更不実候、

とりあえずのご威光に従っていては、ご本意は更に実りません。

「当意」は現代語でも使う「当意即妙」と繋がっている。当座とか即興の意味合い。ご威光が何を指すかは不明で、右馬允が何を主張したかによって解釈が異なる。

先の起請文では、関宿を献上した晴助は古河に入ることになっている。このため、古河に先住していた右馬允が騒いだという解釈は既に存在する(進退=古河城主地位説)。だが右馬允が古河住という史料はない。

更に、この文章の前後で氏康は関宿の地が素晴らしいとくどく書いていることを併せて考えると、右馬允は「古河こそが義氏座所として相応しい」と異議を唱えたのではないか。このため、この主張を氏康は「当意のご威光」とし、それでは本意が得られないという主張を氏康は唱えなければならなかった(進退=古河入り主張説)。

どちらとはまだ言い切りがたいものの、右馬允が古河入りを主張したとする方がやや有利に感じる。

無双之名地ニ可被立 御座儀者、御子孫迄之御長久、不及言語候、

無双の名地に御座を立てられたことで、ご子孫までのご長久は申すまでもありません。

関宿への氏康の激しいアピールは続く。関宿絶賛の間に「当座のご威光」を差し挟んでいるのが印象的だ。

此調を存詰上、右馬允つれ進退之是非者、勘ニも不渡候間、

この準備を思い詰めていく上で、右馬允づれが進退の是非は、考えにも入りませんから、

こういった関宿至上の動きを考えていった氏康は、どうやら怒りがこみ上げてきたようで「右馬允ごときが何を邪魔するか」という文になっている。「勘ニも不渡」は結構乱暴な言い方で、右馬允の進退などどうでもいいと断じている。ここで「進退」が出てくる。

右馬允が「進退=身の保証=古河城主の地位」にしがみついているのか、または「進退=命を懸けての懇願」として義氏の古河入りを主張しているのかで判断が異なる。まだどちらともいえない。

無相違可払旨、中書へ申候、

相違なく払うように晴助に申します。

今度は「払」という言葉が出てくる。「払う」ように氏康は晴助に告げているが、詳しくは不明。

其上去春酒井大膳所へ 御台様御計策之御自筆被遣候趣、虚説誑言、右馬允書散候キ、

その上で、去る春に酒井大膳の所へ、御台所様がご計策のご自筆の書状を送ったこと、虚説の戯言です。右馬允が書き散らしたものです。

ここが最も謎な箇所。酒井大膳は戦北・下山年表のどちらを見てもここにしか登場しない。恐らくは上総酒井氏の関係者だと思われるが、詳細は不明。御台所様は氏康の妹である芳春院殿(義氏の母)で、彼女はこの年の春に酒井大膳の所に自筆で計策を送ったという。氏康によるとこれは「虚説誑言」で、右馬允が書き散らしたものと断定されている。

彼過失ニ付而、重而被為払由被仰下候間、

あの過失については、重ねて払うようにと仰せになっていましたので、

ここでいう過失は前文の芳春院自筆計策を、右馬允が言いふらしたことを指すと思う。重ねて「払う」ように仰せになったのは義氏。ここでも「払」が出てくる。払う行為は複数回行なわれており、なおかつそれを見た氏康が「勘当」と受け取るようなものだったと思われる(次の文参照)。だとすれば、「払」は「追放」もしくは「意見却下」のどちらか、もしくは両者が混交した特殊事情かと思われる。

当時彼者ハ、御勘道一理与存候へは、昨日当地へ越候て、進退可申立支度之由候、言語道断横合ニ存候、

あの時のあの者(右馬允)は、ご勘当なさったと思っていました。ですから、昨日になって当地へ行き進退を申し立てるよう支度しているとのことは、言語道断の横槍だと思います。

右馬允を「彼者」と表現している。自筆計策事件単体ですら「御勘道=ご勘当」が当然だと氏康は主張する。そんな状況なのに、つい昨日に「当地」に来て「進退」を申し立てる支度をしていると聞いたという。当地は、氏康がいる場所・宛所の周興がいる場所・文中で焦点になっている場所のどれかだろう。氏康・周興・右馬允の居所が不明だから断定はできないものの、義氏と芳春院殿は葛西、晴助は関宿にいるという推測は前後の文書から成り立つ。申し立てる支度をしているということは、義氏・芳春院殿に直訴する準備を右馬允がしていて、それを聞いた氏康が焦っているのだろう、という仮説が最も確度が高いように見える。であれば当地は葛西だろうと思う。

左候へ共、御内ゝにて令徘徊仁候間、院主■談合申候、

そうですが、内々での徘徊ですから、院主が協議すべきでしょう。

ここで氏康がやや語気を弱める。「御」がついた形なので、公方家の内々での話として、氏康が介入しないか、できないことを示すように見える。院主=宛所の周興が、家中で協議するべきだとする。あれだけ言い立てたのは、氏康が直接排除できない位置に右馬允がいたからだろう。であれば氏康が要求した「払」は追放ほど強い処置でなく、却下というレベルのものだった可能性が高いだろう。

去而一二年も置候て、氏康・中務前申調返可申候、

いなくなって1~2年も置けば、後は氏康・晴助が申し整えて返します。

ここで唐突に氏康が「去而=いなくなって」と書いてきて面食らう。後の文を見ると、いなくなるのは右馬允、返すのはその右馬允の身柄で、氏康・晴助の調整後に返すという流れが最も自然なニュアンスではないかと思う。この文は結論をいきなり書いたもので、具体的な手法はこの後に続く。

致様者、其身ニ今度 御座之地■■候様躰、条ゝ申分、為致納得、自分之様ニ上方物詣ニ可取成候、

するべきことは、右馬允に「今度御座する地を(文字欠・献上か?)することは条文で決定しましたから、あなたは上方へお参りにでも行くように」と説得することです。

「致様者=いたしようとしては」ということで、具体的な行動指示が書かれる。ここでも文字欠があって意図が把握しづらいが、「条ゝ」は晴助との起請文の条文。これを右馬允に納得させるための方策とは何だろうと思って読み進めると、「自分のように=周興自身が旅に行くかのように親身に」上方へ物詣に行くよう、周興が取りなしてほしいとしている。

定而其身も可聞分由存候、

きっと右馬允も聞き分けるだろうと思います。

自信満々に結論を出している。多分、氏康がこの長い書状を書いた目的は「周興が右馬允を説得して西国参詣の旅に出す」という、本人的に絶妙なアイデアを思い付いたからだろう。いてもたってもいられなくなって書き綴った挙句、判りづらい長文になってしまったのかも知れない。

猶以右馬允当時山林之進退にて、此度大事調之際ニ罷出、可成横合候哉、

それより、右馬允はあの時は『山林』の進退、今回も重要な案件の直前に出てきて横合いを言い立てるのはどうでしょうか。

「どうだこの妙案は」として終わればいいのだが、氏康にはまた怒りがぶり返したようで、ここで過去の例が出る。芳春院が自筆で計策した際に、右馬允はその前後で抗議の山林之進退(=ストライキ的な抗議)に及んだようだ。その抗議は氏康の意に添わなかったようで「今回も邪魔をするのか」と苛立っている。

不及申子細候へ共、寸善尺魔纔なる儀を以大事破事、古今先例候間、御断を申届候、

詳しく言うには及びませんが、「寸善尺魔」で、僅かなことを大事だと言い張ることは、昔から例がありますので、あらかじめ言っておきます。

「話すほどのことではないが」としつつ、右馬允の主張に氏康は警戒する。「寸善尺魔」とは本来、良いことは少なく悪いことは多いという語だが、この当時は「針小棒大」の意味でも用いたのか、氏康が取り違えたかのどちらかだろう。古い例を持ち出しているのは、具体的な話をされると都合の悪い情報が周興に入ってしまうと恐れたのか……。

畢竟其身ニ能ゝ被為合点、一廻西国物詣、後ゝ年可被直進退儀可然候、

最終的には右馬允をよくよく納得させ西国を一巡りさせ、後々の年に進退のことは直されるのが然るべきことでしょう。

氏康はようやく、話をまとめにかかる。右馬允本人をよく説得して、ひと廻り西国でお詣りをして、何年かあとに「進退」のことを「直す」のがしかるべきだろうと。「被直」という表現も見かけないもので解釈に迷うが、右馬允は義氏直臣なので「義氏がお直しになるのがよいだろう」という書き方になろうかと思う。「関宿様」として実績を積んだ義氏が右馬允の「古河を本拠に」という「進退=主張」を聞いて直せばよいという発想であれば、この文は自然な流れになる。

御台様へ御披露も御無用ニ候、貴僧以御計如此可有御調法候、

御台所様へご披露することもありません。貴僧のお計らいでこのようにご調整下さい。

ここで奇妙なことが書かれる。御台所には言うなとしている。この緘口令を見ると、酒井大膳に芳春院が送った自筆の計策は、事実かつ氏康にとって都合の悪いもので、それを蒸し返される点を恐れ、妹には事情を言わないように告げ、周興が単独で実行するよう依頼しているのだろう。

自此方者、遠山申付、右馬允ニ委為申聞、可為納得候、

こちらからよりは、遠山に指示し、右馬允に詳しく申し聞かせて納得させましょう。

氏康側からは遠山綱景に指示して、右馬允に直接話して納得させるとしている。

2017/04/20(木)関東の主導者が憲政から義氏に変わりつつあった流れ

1549(天文18)年~1557(弘治3)年までの、足利義氏・上杉憲政に関連した主要記事を抜粋。

1549(天文18)年

9月27日:下野国の宇都宮尚綱が五月女坂の合戦で那須高資に敗れて戦死する。高資方には北条氏康と芳賀高照・壬生綱雄・白川結城晴綱が加勢する。

天文19年

11月初め:北条氏康が上野国平井城山内上杉憲政を攻め、攻略できず(小林文書・高崎市史資料編4-280)。

この年:北条氏康が上野国平井城を攻略し、山内上杉憲政は逃れて同国白井城に入る。

天文20年

1月22日:那須高資が北条氏康に味方して弟資胤と争い、家臣の千本資俊に下野国千本城で殺害される。

この冬:北条氏康が冬から翌年にかけて再び利根川左岸の小幡・高山氏等の河西衆、同右岸の那波氏等と糾合して上野国平井城を攻める。憲政は白井城から再び平井城に帰還していた(身延文庫所蔵仁王経科註見聞私奥書・埼玉県史研究22)。

天文21年

2月11日:北条氏康が山内上杉憲政攻略のために武蔵国御嶽城安保全隆(泰忠)を攻め、三月初めに全隆父子は降伏する。

3月14日:北条氏康が上野国国峯城小幡憲重に、武蔵国今井村の百姓が退転したので帰村させ、耕作に励ませる。憲重は天文19年に上杉憲政を離反し氏康に従属(戦北409)。この月:北条氏康が上野国平井城を攻略して上杉憲政を同国から撤退させ、上野衆の由良・足利長尾・大胡・長野・富岡・佐野氏等が氏康に従属。

4月10日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、北条氏に従属した茂呂氏と昵懇にさせる(戦北412)。

5月初め:上杉憲政が家臣の謀叛により上野国平井城から上杉謙信を頼って上越国境に没落する。

12月12日:足利晴氏が嫡男藤氏を廃嫡し、梅千代王丸に古河公方家を相続させる。北条氏康の圧力による。その後、ほどなく梅千代王丸と晴氏は下総国葛西城に移座する(戦古671)。

天文22年

3月18日:北条氏康が高山彦九郎に、山内上杉領を掌握して上野国平井城近くの某市場の市日を定め、押買・狼藉・喧嘩口論を禁止させ、違反者は小田原に申告させる(戦北436)。

3月20日:北条氏康が結城政勝に、白川晴綱からの書状を受けた事を伝え白川や伊達・蘆名各氏への仲介も依頼する。この頃に氏康は結城政勝・大掾慶幹と結び、小田氏治・佐竹義昭と対立する(戦北462)。

3月22日:足利梅千代王丸が下野国大中寺に、足利政氏の判物に任せて同国中泉荘西水代郷の寺領を安堵し不入とする。義氏文書の初見(戦古796)。

3月23日:北条綱成が陸奥国白河城主白川晴綱に、外交交渉の開始を喜び、北条氏康に角鷹、綱成に刀を贈られた謝礼に定宗作の小刀を贈答し、今後の親交の取次を約束する(戦北463)。同日、綱成が白河晴綱の重臣和知右馬助に、晴綱から北条氏康への書状到来を感謝して白川氏への取次役を務める事を伝え、啄木の墨絵を贈呈された謝礼に島田作の鉾鎌を贈答し、今後は常陸方面の状況が晴綱から寄せられるので右馬助からも知らせて欲しいと依頼する(戦北3094)。

4月22日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、同国館林城に敵が侵攻したために急ぎ駆けつけて城下で防戦に努め、城内の赤井氏家臣を大切にした功績を褒め万事について氏康と富岡氏を仲介した茂呂因幡守と相談し、城を堅固に守ることを指示し、岩本定次の副状で述べさせる(戦北412)。

7月24日:足利梅千代王丸が簗田晴助に、知行として下野国名間井郷・武蔵国川藤郷を宛行なう(戦古798)。

9月11日:北条氏康が上野衆の富岡主税助に、同国に出陣して河鮨に着陣し、佐野領・新田領に侵攻する予定の事、富岡蔵人が茂呂弾正に援軍を差し向ける事、茂呂弾正の依頼で新田党の大谷藤太郎を派遣した事等を伝える(戦北422)。

12月12日:北条氏康が安中源左衛門尉に、陣労の忠節を認め上野国上南雲を宛行なう。上野衆の安中氏が氏康に従属(戦北423)。

天文23年

7月20日:足利晴氏・藤氏父子が北条氏康から離反し、下総葛西城から同国古河城に無断で移り、葛西城の足利梅千代王丸は北条方として残る。

7月晦日:北条氏康が白川晴綱に音信を通じ、結城政勝と相談して常陸国の佐竹義昭を攻略したいと伝える(戦北468)。

8月7日:古河公方家臣の田代昌純が常陸国水戸城の江戸忠通に、足利晴氏が先月20日に古河城に帰座し小山高朝や相馬氏等が普請している事、北条方の下総国葛西城足利義氏の許には武蔵国・上野国の国衆達が忠節を誓ってきており、簗田晴助や一色直朝も人質を送ってきた事、昌純が小田氏治と大掾慶幹の紛争を調整すると伝える。晴氏の復権運動が起きる(静嘉堂文庫所蔵谷田部家譜・千葉県の歴史4-563頁)。

9月23日:北条氏康が、従属した下総国栗橋城野田弘朝に条目を出し、北条方の葛西城足利義氏を護る事、離反した古河城足利晴氏との調儀を行なう事、上野国桐生城佐野直綱には詫言に任せ北条氏に従属させる事を依頼し、忠節として弘朝に旧領39箇所を安堵、新知行を10箇所宛行ない、晴氏・藤氏父子が降伏したならその知行も全て与えると約束する(戦北492)。

9月晦日:石巻康堅が白川晴綱の重臣和知美濃守に、晴綱・義親と北条氏康との神文の交換を仲介した事に感謝し、康堅が北条氏と白川氏の取次役を務める事を伝え使者に唐人を遣わす(北条氏文書補遺37頁)。

10月4日:北条氏康が、立ち退きを拒否する足利晴氏父子の下総国古河城を攻略し、降伏した晴氏は相模国波多野に幽閉され、藤氏は里見氏を頼る(年代記配合抄・北区史2-146頁)。

10月7日:遠山綱景が白川晴綱の重臣和知美濃守に書状の取次の謝礼を述べ、常陸口の小田・大掾両氏への軍事行動の異見を求め、使者に唐人の穆橋を遣わす(戦北528)。

弘治1年

6月12日:北条宗哲が武蔵国仁見の長吏太郎左衛門に、北条氏に敵対する山内上杉方へ内通した上野国平井城下の長吏頭源左衛門を国払いとし、太郎左衛門に跡職を任せる北条家朱印状を与える(戦北489)。同日、北条氏尭が仁見の長吏太郎左衛門に、長吏源左衛門の跡職を宛行ない違反者は奏者の氏尭に断り成敗させる。氏尭が旧山内上杉方の平井城の城領支配者となり北条宗哲が後見役を務める(戦北490)。

弘治2年

4月5日:北条氏康・太田資正・結城政勝連合軍が常陸国大島台で合戦し、小田氏治が敗れて土浦城に逃亡。同時に小田方の海老ヶ島城も結城政勝・壬生綱雄が攻略する(年代記配合抄ほか・北区史2-146頁)。

7月22日:大掾慶幹が白川晴綱に、去る夏に北条氏康と小田原城で直談し、別に足利義氏にも陸奥国の状況を説明し、氏康も結城政勝との当秋の小田氏への行動を了承している等を伝える(福島県史7-474頁)。

9月23日:小田氏治が白川晴綱に、北条氏康と和睦した事を伝えて今後の交渉を依頼し、佐竹義昭と氏康との和睦は未だ成らず常陸口では戦いが続いており、佐竹氏と当方との交渉は下野国の那須資胤にすると伝える(神奈川県史三下7019)。

11月29日:結城政勝が白川晴綱に、小田氏治が8月24日に常陸国土浦城から小田城に帰城したので城周辺に放火して氏治を追い詰めており、海老ヶ島城等は堅固に守備している事、北条氏康は7月から江戸城に在陣している事等を伝える(千葉県史4-221頁)。

この年:北条氏康が佐竹義昭に三ヶ条の覚書を出し、以前の三ヶ条は了承した事、宇都宮広綱と壬生綱雄との和睦は足利義氏の仰せだが拒否した事、義昭が広綱に合力する時には太田資正と綱雄の合力を確実に押さえておく事を申し送る。当文書はもしくは弘治3年か(北条氏文書補遺32頁)。

弘治3年

1月20日:北条氏康・氏政が那須資胤に、初めての来信と太刀・馬・銭の贈呈、北条氏に忠節を誓う起請文の申出に感謝し、詳しくは資胤の使者蘆野盛泰の口上で伝えさせる。下野国衆の那須資胤と氏康が同盟する(戦北538/539)。

12月上旬:宇都宮伊勢寿丸が、足利義氏・那須資胤・佐竹義昭に支援されて壬生綱雄を破り、綱雄は宇都宮城へ退去する。

12月11日:北条氏康が那須資胤に、壬生綱雄討伐への協力に謝礼を述べ、近日は下野国塩谷に侵攻した事にも感謝し、綱雄の降参で宇都宮と真岡の旧領を北条氏に渡すとの申出については足利義氏に任せる(戦北567)。

12月23日:壬生綱雄の宇都宮城が攻略され、宇都宮伊勢寿丸と芳賀高定が同城に入る。

2017/04/20(木)北条氏康の愚痴

箱根神社別当の融山に宛てて、色々と事情を述べた書状。永禄4年比定で、上杉大反攻を受けてのものだと思われる。


 先日は親しいお手紙を再三披見し、本望に思います。一、年来、国家のご祈念をお願いしていたところ、この度北方の敵が出撃して国中が山野のようになり、面目を失ったとのこと。更に分別に及びません。去る春に景虎の威勢を恐れ、正木を初めとする関東の武将が残らず攻囲してきたのですが、武蔵と相模の城のうち、江戸や河越など七八箇所は無事であり、結局は度々勝利を得て凶徒は程なく敗北しました。あちこちで移動する敵の侍やその手下を討ち取ること1000余人。これはひとえにご祈念の力でしょうか。一時的な騒擾は苦しいものではありません。畢竟この上は信心を極めるよう励みましょうか。広い天の下で王土でない場所はなく、ご修理に奔走するべきとのこと、その見解はもっともです。伊豆国の仁科郷が禁裏の預所となり先年に勧修寺殿が勅使として下向した際、氏綱が三年分を進納しました。その後は遠距離もあって中断していました。あの由緒のように仁科郷を進上するようにとのこと、覚悟しています。一、万民を哀れみ、百姓に礼を尽くすべく、ご意見はその意を得るようにします。去る年に分国中の諸郷へ徳政を発布し、妻子や下人の売り証文を捨て、年を遡って解明しました。ことごとく返還しています。当年は諸一揆の人々に徳政を行ない、とりわけ公方銭の本利4000貫文を諸人のために破棄、蔵本を押収して現金を番所に集め、昨今は諸一揆の人々に配布しています。家のことは、慈悲心と深い信仰の順路を専らとして考えを突き詰めており、国中の聞こえとして、民百姓の上までも非分なく裁断するために十年来目安箱を置き、諸人の訴えを聞き届け、道理を探求しておりますこと、一点でも毛頭でも心中に差別の心がきざしたことはありません。一代の内で大過なく時宜を得て身を退くは聖人の教かと思い、去年に息子の氏政へ位を譲渡しました。隠遁とはなりましたが、大敵が蜂起し、氏政は若輩なので了簡を得ず、(私が)国家の意見をなしました。ところが氏康は善根がない。と、あなたの意見はこのようでした。恐れながら相違があります。たとえ善根があったとしても、心が邪悪で諸寺・諸社の領地を傾けるような国主であれば、どのような大社の修理を何度したところで神は非礼として受けないでしょう。たとえ経論聖教に向かず、常に不信心であったとしても、心中に実があればそのまま天道にかなうものではありませんか。氏康においては、あるいは貧しい『出家沙門』を憐愍し、あるいは伽藍が廃れているところを嘆かわしく思い、先の午歳に鎌倉へ行った際、諸寺・諸山へ田畠の寄附を斡旋しました。そのほか国中の神社・仏閣へ多少の領地を寄進こそすれ、一歩の地でも押領するなら一代の不覚と考えています。何の驕りでしょうか。天道に背くのでしょうか。天運が尽きなければ一戦して勝利は疑いありません。そして和するものではないでしょうか。一、諸寺・諸社において、この度本意のご祈念を行なうのがもっともです。伊豆・相模・武蔵の内で、どの神社にどのような祈念を指示すべきでしょうか。霊地によるものではありません。ただ行人によるものですから、分別して下さい。委細は『遊立』でなく送って下さい。同時に、供物の見積もりなどもお願いします。一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上を、どの神社でどのような人に指示すればよいでしょうか。一、大嶺採燈護摩のこと。京都のどなたにお願いすべきか、その供物の数量など、どのようにすべきでしょうか、またどのような段取りで行なえばよいでしょうか。一、聖天供のこと。お受け取りいただければ『別儀』はありません。一、鶴岡への宿願のこと。願書はあるべきでしょうか。願力はどのようにし、何ヶ条にすべきでしょう。一、伊勢・熊野において、どのような段取りがよいでしょう。右は、いずれも詳しく報告をいただきたく。ご同意を得て取り急ぎ指示します。一、関宿様のご返事は、飛脚によくよく指示し、里見義尭のご警固を深くする旨、申されました。心から成就してほしいという念願です。近日に途中まで参上し、この成果を直接うかがえればと思います。

先日者、御懇札再三披見本望候、一、年来国家御祈念頼入候之処、此度北狄出張、国中山野之躰、被失面目之由、更不及分別候、去春恐景虎威勢、為始正木、八州之弓取不残雖寄来候、武相城之内、江戸・河越七八ヶ所之地、無相違、結句度ゝ戦得勝利、凶徒無程破北候、於所ゝ往覆之敵侍凡下討取事千余人、是偏御祈念之力哉、一旦之忩劇不苦候、畢竟此上励信心極候歟、普天之下無不王土上、御修理可走廻由、尤任御見候、然者豆州仁科之郷禁裏就御預所、先年勧修寺殿為勅使御下向之時、氏綱三ヶ年進納、其後遠境故中絶候、任彼御由緒、仁科之郷可致進上之由、覚悟仕候、一、万民哀憐、百姓可尽礼、御意見令得其意候、去年分国中諸郷へ下徳政、妻子下人券捨、為年経迄遂糾明、悉取帰遣候、当年者諸一揆相之徳政、就中公方銭本利四千貫文、為諸人捨之、蔵本押置、現銭番所集、昨今諸一揆相ニ致配当候、家之事、慈悲心深信仰専順路存詰候間、国中之聞立邪民百姓之上迄、無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴お聞届、探求道理候事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間、一代之内、無横合時身退者、聖人之教與存、去年息氏政譲渡位、隠遁之進退候得共、大敵蜂起、氏政若輩之間、無了簡、国家之成意見候、然ニ氏康無善根間、如此與候、此貴意、乍恐御相違候、縦善根有之共、心中之邪ニ而、諸寺諸社領令没倒様なる国主ニ付而者、如何様之大社之御修理、何度致之候共、神者不可受非礼、縦不向経論聖教、常ニ不信之様ニ候共、心中之実、即可叶天道候歟、於氏康、或不足之出家沙門お憐愍、或伽藍零廃之所歎ヶ敷間、先年午歳、鎌倉在馬之砌、諸寺・諸山周寄附田畠候キ、其外国中之神社・仏閣へ少充之料所お雖寄進仕候、一歩地茂押領之事者、一代不覚候、何之驕ニ歟、可背天道候哉、天運不尽者、一戦勝利無疑候、併人者不可如和ニ歟、一、於諸寺・諸社、此度本意之御祈念尤ニ候、然■豆相武之内、何之地如何様之祈念を可申付候哉、不可依霊地候、唯行人ニ可有之候間、有御分別、委細非遊立候而可給候、并供物員数等可預御計事、一、不動護摩供、一、大聖金剛法、一、観音経三百三十巻、以上何之地ニ而、如何様之人ニ可申付候、一、大嶺採燈護摩之事、於京都何之方可憑入候、供物等員数之事、如何程可入候、如何様之行ニ候、一、聖天供之事、御請取之上、無別儀候、一、鶴岡宿願之事、可有願書歟、願力如何様之儀、可為何ヶ条候、一、於伊勢・熊野、如何様之行可然候、右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候、一、関宿様御返事、飛脚能ゝ可申付候、義尭御警固深旨、被申候、哀ゝ成就候得かしの念願候、近日半途へ罷出、此首尾可承届候、恐ゝ敬白、
五月廿八日/氏康/金剛王院御同宿中
戦国遺文後北条氏編0702「北条氏康書状写」(安房妙本寺文書)