2017/04/20(木)北条氏直が「沼田は落とした」と書いてしまった件

原豊前守は実名が胤長で、千葉邦胤の後見役。反後北条もいた千葉宗家で親後北条として指示に従っていたらしい。その胤長へ氏直が送った書状がまた勢い余っている(天正13年比定・戦北2855)。

原胤長はどうやら援軍要請を氏直に出したようなのだが「それどころじゃない」的な文面であれこれ書いている。沼田を攻め落として越後国境まで平定し終わったみたいに書いているが、実際には沼田城は落とせていない。誇大報告は戦国大名がよく出すけど、ちょっと盛り過ぎじゃないかなあ。

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候

書状の趣旨は一つ一つ諒解した。だからそちらへの措置のため、早く出勢するべきだが、

遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬

徳川が信濃で真田と対陣し、沼田方面へ援護攻撃するよう頻りに要望するので出馬した。

森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛

森下城は時間もかけずに攻め落として守備していた数百人を切り殺し、

其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候

その上で沼田城に向かって陣取り、越後国境の奥までの村は一軒残らず、沼田庄は打ち壊して手が空いた。

此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候

この上で徳川へ使者を出したから、その返答によっては直接信濃へ出馬するだろう。

其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候

そちらの半手(?)の措置はどれも堅固に指示するように。

万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者

万が一心もとないということで部隊要請があるならば、

出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候

出馬する前に加勢として一手も二手も派遣する。

存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言

存分は重ねて糊付けの書状で送る。

猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候

更に、言うまでもないことだが、全てはあなたの活躍で決まることだ。

原文

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候、遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬、森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛、其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候、此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候、其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候、万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者、出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候、存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言、猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候、
九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿
戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書)

2017/04/20(木)白読のすすめ

解釈が原文と乖離することがあって、それは比定というファジーなものが入っているからじゃないか。だったらその手前に比定を入れない白読を入れたらどう? という話。

古文書の解釈というのは、実は白読と比定に分かれると考えている。

<白読は「文の意味を深読みせずに文をストレートに読む」こととしてここでは述べる>

白読自体は、そんなに特殊技術じゃなくて、ある程度の経験をこなせば独学でも可能だ。どちらかというと、他の文書と語の使い方を比較して意味を追い詰めていく作業になる。

その後で、白読だけでは確定できない人名や地名と年月日を推測していく。これが比定。年が判らないから人物から追ったり、人物を決めるのに年を使ったり、地名も合わせて試行錯誤を繰り返していく。比定者の知識が問われるほか、確証バイアスがかかるから、人によってずれることもある。

方向性から見て両者は異なる。だからシンプルに考えて、白読と比定は分けた方がいいはずだが、この白読的な事柄は余り戦国史では表に出てこない。一気に比定して解釈に行き着いてしまう。

なぜ切り分けないかというと、比定を重視して白読自体を変えてしまうことがあるからだろうと思う。誤記や筆写誤解などもあるし偽文書だってある。だから文書群全体の整合性を優先して比定の流れを作っていくのは確かに有効だろう。

ただ比定を重視し過ぎるのはおかしくないだろうか。

今ちょうど調べている文書を例にして説明してみる。

飛札令披閲候、氏政上洛延引之儀、内証被申聞、喜悦之至ニ候、秀吉心底難量候上者、於氏政可為隔意候歟、猶期後慶時候、恐ゝ頓首
十二月八日/氏直(花押)/前田源六郎殿御宿所
小田原市史資料編後北条氏編1985「北条氏直書状写」(古文状)

白読「飛脚の書状を拝見しました。氏政上洛延期の件、内証で申し聞かせていただき、とても喜んでいます。秀吉の心底が測りがたい上は、氏政においては隔意をなすだろうというのでしょうか。さらに後の慶時を期します」(高村)

この解釈は下山治久氏監修の2書で分かれている。

「北条氏直が前田源六郎に、北条氏政の上洛の遅延について羽柴秀吉の内々の気持ちの情報提供に謝礼し、秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせないと述べる」(『戦国時代年表後北条氏編、』以下『年表』と略す)

「前田源六郎に北条氏政の上洛が延期されて嬉しいと延べ豊臣秀吉の心底は計り知れないと伝えた」(『後北条氏家臣団人名辞典』以下『家臣団辞典』と略す)

年表の「秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせない」という部分は解釈者の思惑が入り過ぎているように感じる。秀吉内心が測り難いに続く「上は」を重視して仮定文にしたのかも知れない。秀吉の本心が判らないならば→氏政は隔意を抱き続ける、という図式だろう。しかし、続く文が「歟」で終わる疑問文だから仮定とは考え難い。現代語でいう「上は」ではなく「上に」という文意だとすると「秀吉の本心が判らない上に、氏政が隔意をなすというのでしょうか」となって自然な流れになると思う。

私が見た文書では現代語「上に」も「上者」を用いていることがある。逆に「上ニ」「上仁」は見つけられず、この時代は「上者」が「上に・上は」を兼ねていたのかも知れない。

家臣団辞典の「氏政上洛が延期されて嬉しい」は明らかにおかしい。この前日付けの条書で氏直は、氏政上洛遅延を叱責し交戦状態に入ろうとしている羽柴方に釈明をしている。延期されていないのは氏直が承知している。

思うに「喜悦之至」言葉に引きずられ「であれば上洛延期交渉が成功した」と比定者は推測したのだろう。しかし氏直が喜んでいたのは「内証被申聞」という源六郎の内密の連絡に対してである。それは白読から見ても正しい繋がりだ。

こうして見ると、年表は後半が、家臣団辞典は前半が白読と乖離して比定者の予断を取り込んでしまっている。最終的な解釈に至る前に、文章本来の姿である白読部分を確定させると、こういった混乱は防げるのではないかと思う。

※両書ともに、なるべく同時代史料によって記述され文書番号も記載している手堅い内容なのだけれど、それでもこういった予断が入り込むことがある。というか、むしろ目立つからこそ私のような素人でも指摘し易い。そして、リファレンスを見たら必ず原史料を確認する必要があると改めて痛感する。

2017/04/20(木)1582(天正10)年、甲信国衆への後北条氏発給文書

後北条氏が甲信へ出兵した際に出した文書をざっと並べてみた。末尾の番号は戦国遺文後北条氏の文書番号。

■06月15日 渡辺庄左衛門尉 <幸田> 2349

 06月22日 伴野善九郎 氏照・氏邦 2358

 07月07日 樋口木工左衛門尉 陸奥守・安房守 2366

■07月09日 日置五左衛門尉 <陸奥守・安房守> 2367 文中に「真田弾正忠」

■07月13日 大祝・千野右兵衛尉 <陸奥守・安房守> 2369

■     高見沢但馬守・同藤三郎・同藤七郎・同文四郎・高尾源六 <陸奥守・安房守> 2370

■     井上善九郎・井出善四郎 <垪和伯耆守> 2371

■     藤島甚兵衛 <陸奥守・安房守> 2372

■07月23日 柳沢孫右衛門尉 <垪和伯耆守> 2379

■07月25日 渡部左衛門尉 <江雪> 2382

■07月26日 矢沢 <陸奥守> 2383

■     大熊 <陸奥守> 2384

 08月09日 神長官 鉢形安房守氏邦 2389

 08月25日 神長官 氏直 2404

 08月26日 神長官 氏邦 2405

■08月15日 原主水祐・同弥一郎 <陸奥守> 2392

■09月20日 大井河内守 <安房守> 2415

■10月01日 藤巻市右衛門尉 <垪和伯耆守> 2422

■10月03日 禰津宮内太輔 <安房守> 2424

 10月22日 大戸入道 氏直 2433

 10月23日 禰津宮内太輔 氏直 2434

■10月25日 禰津宮内太輔 <安房守> 2436・2437

■10月26日 樋口木工左衛門尉 <安房守> 2440

※以下は補遺編収録のため未確認 06月26日 大井満安 氏直 4938  10月04日 渡辺三河守 氏政 4942

■は虎朱印で奉者を<>内に記載