2022/10/30(日)小幡源次郎の出自

新出文書で見つかった小幡源二郎

戦国史研究84号に掲載されていた「上杉憲勝書状」に興味深い記述がある。

  • 戦国史研究84号p15「上杉憲勝書状」(駒澤大学浅倉研究室保管文書)1561(永禄4)年比定

態申届候、先日者預来書、先以本望候、如承候、自奥口罷透之時分、旁以取成殊義昭参会申、于今難忘候、其以来白川一途候哉、是又承度候、当国之事者、向江・河之両城、号葛西・難波田地令再興候、遠山丹波守二男小幡源二郎当方罷移候、是又被相稼候故、過半境押詰候、政虎自越後近日可有帰宅候、其上江戸ニ長陣可有之共申候、如何様豆州迄可被相動候、於向後者節々義昭へ申談度候、梅江斎有御談合被取成尤候、具堤蔵主可被申宣候、将又岩城・上遠野宮内大輔方へ、此飛脚梅江へ相談、有指南可被指越候、恐々謹言、
八月十七日/憲勝(花押)/東月斎へ

  • 解釈

折り入ってご連絡します。先日は書状をいただきまして、まずは本望です。承ったように、奥州口から通過した際には、あれこれ仲介いただき、特に佐竹義昭とお会いしたことは忘れられません。それ以来白川に一途なのでしょうか。これもまた承りたく。当国のことは、江戸・河越の両城に向かって、葛西・難波田という地を再興しました。遠山丹波守の次男である小幡源二郎が当方に移りまして、これもまた活躍しましたから、半分以上の戦線で押し詰めました。政虎が越後国から近く帰宅するでしょう。その上で江戸へ江戸に長陣せよと申しています。どうやってでも伊豆国まで攻め入るでしょう。今後は折々義昭へご報告したく思います。梅江斎にご相談して取り成していただくのがよいでしょう。詳しくは堤蔵主が申し述べるでしょう。また、岩城・上遠野大輔方へこの飛脚を送って、梅江斎に相談と指示を受けられるようにして下さい。

遠山綱景の次男が小幡源二郎であること、源二郎が憲勝側(上杉方)に寝返って江戸・河越攻めで功績を挙げたとある。小幡源次郎は所領役帳に出てきて、673.3貫文を知行している。このうちの208貫文が後北条直轄領である白根から出されており、江戸衆とはいっても直参に近い人物だろうと見ていた。が、書かれた位置はかなり後ろの方で、綱景次男とは想定できなかった。

後北条家中の「小幡・小畑」

源二郎が上杉方へ身を投じる前の状況を列挙してみる。

  • 1540(天文9)年11月20日、山中大炊助とともに「小畑源太郎」が神馬と太刀を進献している。(快元僧都記)

  • 1548(天文17)年10月26日、上杉憲政は小林平四郎へ「小幡尾張守知行之内」上野国秋畑村を与えている。(清瀬市史3_677)

  • 1550(天文19)年11月7日、上杉憲政は「去々年小幡尾張守不忠候砌」と書いている。(清瀬市史3_680)

  • 1552(天文21)年3月14日、後北条氏の虎朱印状が小幡尾張守宛で出されている。これは百姓の還住を命じたもので、対象は「今井之村」となっている。(戦国遺文後北条氏編0409)

  • 1559(永禄2)年、後北条氏所領役帳が編纂される。この中には小幡氏旧領が3地点見られ、既に小幡尾張守が没落していることが判る(旧領の1つに小机に今井村がある)。しかし一方で、江戸衆に「小幡源二郎」と「小幡勘解由左衛門」が存在する。

上記をまとめると、後北条家中には元々「小畑源太郎」という人物がいたが、永禄2年の所領役帳内に名がないことから失職状態だったようだ。また、上杉憲政が退潮していく中で見切りをつけたらしい小幡尾張守が後北条方に寝返った。しかし、こちらも同様に役帳内で小幡氏旧領が見られることから、天文21~永禄元年の間に何らかの理由で尾張守はいなくなったようだ。

その一方で、江戸衆内に源次郎・勘解由左衛門が現われる。

源二郎の所領は相模西郡の大井を本領として、葛西、下平井郷と上総国滝口三ヶ村と分散しているほか、後北条直轄領の相模白根から208貫文を提供されている。これは、源次郎の招待が遠山綱景次男だとすれば納得がいく。

比較して勘解由左衛門は、相模東郡に「大豆津=大豆戸」と「下和田之内」の2箇所に留まっており、尾張守の縁者で余録を与えられたと見られる。

ちなみに、源次郎と勘解由左衛門に挟まれた佐藤図書助は、伊豆国長崎郷100貫文を領しているが、注記に「元小幡蔵人・小島右京亮」とある。

永禄以降の動き

ここで新出文書の比定年である1561(永禄4)年を迎えるのだが、ここからは文書全体を見ていく。

小畑源太郎が小田原籠城戦に参加する。

  • 小田原市史資料編小田原北条0470「北条氏政判物写」(諸氏家蔵文書)

    今度当城楯籠、可走廻之由候、尤神妙候、走廻之処、至于分明者、本意之上、又ゝ望之処一所、可遣者也、仍如件、
    永禄四年三月十日/氏政(花押)/小畑源太郎殿

  • 解釈

    今度当城に立て籠もり、活躍したいと希望したのは尤もで神妙です。活躍状況が判りましたら、作戦成功を待って所望する一所を与えましょう。

小幡源太郎が大豆戸郷を宛行なわれる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0492「北条氏政知行充行状写」(記録御用所本古文書二)

    小机筋大豆戸郷出置之候、可知行者也、仍状如件、
    永禄四年辛酉七月七日/氏政判/小幡源太郎殿

  • 解釈

    小机方面の大豆戸郷を拠出しますので、知行するように。

小畑太郎左衛門が武蔵国生山で戦功を挙げる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0509「北条氏政感状案写」(諸氏家蔵文書)文中の「松山」は「生山」の誤記

    昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、
    永禄四年十一月廿八日/(氏政花押)/小畑太郎左衛門殿

  • 解釈

    昨日27日、武蔵国生山において越後国衆を追い崩し敵1名を討ち取る忠節を見せました。今後はますます活躍するなら、速やかに恩賞を与えましょう。

小幡太郎左衛門尉が用水関連で虎朱印状を発給される。

  • 小田原市史資料編小田原北条1244「北条家虎朱印状写」(諸氏家蔵文書)

    (前欠)所壱貫余為作用水も、無相違、何事も如先規両郷申合可致之旨、依仰状如件、
    天正五年丁丑卯月十日/日付に(虎朱印)評定衆上野介康定(花押)/小幡太郎左衛門尉殿

  • 解釈

    (前欠)所の1貫文余りを用水作りのため与えます。相違なく、何事も先の規則の通り両郷が申し合わせるようにとの旨、仰せになりました。

これをまとめると、後北条家中に元からいた「おばた=小畑」源太郎は牢人状態だったと思われるが、小田原籠城戦への参加の功績が認められて7月7日に大豆戸郷を与えられる。この際に北条氏政は「小幡」と宛てていることから、同音異字の名字を格上げしていたのが判る。更に、役帳での大豆戸郷は勘解由左衛門の知行だった土地なので、この時点で源次郎・勘解由左衛門は上杉方に寝返っていたものと思われる。

そして、源太郎は永禄4年で史料から消えるが、同時に現れた太郎左衛門尉は天正5年にも出てくるので、源太郎の後継者と思われる。太郎左衛門尉もまた「小畑」として登場して「小幡」に切り替えている。

まとめ

今回判明したことで驚くのは、直轄領から208貫文もの知行を援助され、役負担もある程度免除されていた綱景次男が軽々と寝返ったことである。出自や自身の優遇ぶりよりも、名跡を継いだ小幡家としての立場で動いているように見える。

同じ綱景の息子としては遠山隼人佑がいて、彼は役帳では15貫文の知行しかないが、足利義氏社参では松田憲秀・笠原綱信と並んでいる立場で、綱景後継者として古河公方との繋がりも持っていた。遠山家では立身しようがない源次郎には、小幡家当主として上杉被官に復帰した方が出世できと踏んだのかもしれない。

こうなってくると、寛政譜の記述がいかに事実と乖離していたかが印象深くなる。

大豆戸の小幡氏は、以下のように記される。

小幡太郎光重が後胤なり。今の呈譜に、光重上野国小幡に住せしより家号とし、六郎左衛門久重がとき小畑にあらため、其男伊賀守泰久小幡に復す。泰久はじめ今川家につかへ、後北条氏康につかふ。その男太郎左衛門泰清もまた北条氏政につかふ。正俊はその男なりといふ。

ところが、今川氏の文書で小幡・小畑は現れない。であれば「小畑」は相模か伊豆の土着武家だろうし、尾張守を巡る同時代史料がある以上「小幡」は上野国小幡氏の流れと考えた方がよいだろう。また、小幡太郎左衛門尉は源太郎の息子であり、小幡→小畑→小幡と2回名を変えたのではなく、小畑→小幡で1回変更しただけと見られる。

改めて意を強くするところだが、仮説構築に後世編著を取り入れることは慎重に行なわなければならないだろう。

2022/09/23(金)所領役帳のデータ化

いわゆる『小田原衆所領役帳』と呼ばれる、後北条氏の所領役帳を完全にデータ化してみた。

所領役帳データ

計上された貫高のうち、買得時の貫高、御蔵出の引銭以外の全ての数値は文単位で数値化している。

また、私自身よく判っていなかった知行役について、普請役の名を借りた陣夫役だろうという仮説で被官ごとに動員陣夫数を仮定したほか、軍役(着到)の定数と実態を書き出してみた。

追記:比定されている現在の地名を入れて、Google Mapに落とし込んでみた。

所領役帳の給地一覧

転記内容については3回確認をしているものの、誤記や記入漏れも多々あるかと思われるので、ご不明点のご指摘を乞う。

2022/08/23(火)北条氏規妻の実体

氏規妻は綱成の娘か

通説で「高源院殿」とされていた北条氏規妻の戒名について、過去帳を検討した結果別人のものである可能性が非常に高くなった。そこで、改めて彼女の実体を推測してみる。

寛政譜では北条綱成の娘となっている。これは昨今の通説でも受け入れられており、氏規文書に水軍・三浦半島に言及したものがが見られることから、これらを統括している綱成の保護下にあったと想定、氏規が綱成娘を娶ったことを肯んじている。

まず関係史料から挙げてみよう。

仁科郷の地頭

「北条美濃守御前方」は、伊豆国仁科郷の地頭(領主)として登場する。1589(天正17)年11月の記録で後北条最末期のものではあるが、美濃守氏規の妻が仁科の地頭であったことが判る。

  • 戦国遺文後北条氏編4969「佐波神社棟札銘」(西伊豆町仁科佐波神社所蔵)

    奉修理、三島大明神御宝殿之事。右大旦那本命辰之天長地久子孫繁昌諸願成就、本願須田図書助盛吉(花押)
    当地頭北条美濃守御前方、大工瀬納清左衛門・鍛冶鈴木七郎左衛門、于時天正拾七己丑年霜月吉日

伊豆の仁科郷というと、1561(永禄4)年に北条氏康が「父氏綱は禁裏のご修理の費用に仁科郷を進上した」と書いているように、それなりの収益が見込まれる土地であった。所領役帳での仁科郷は100貫文しか計上されていないものの、実態としては仁科郷を中心にした村落群を「仁科」と呼んでいたようで、1583(天正11)年には清水康英が「仁科十二郷御百姓中」に宛て、三島宮の八朔行事への出資を命じている。

仁科北方の地頭、山本家次

仁科の歴史を遡ると、仁科の北にある田子漁港の近くにある神社の棟札が地頭の存在を記している。

-戦国遺文後北条氏編4657「天満宮棟札銘」(多胡神社所蔵)1560(永禄3)年5月2日

(表)大日本国伊豆州仁科庄大多古郷、地頭山本信州守家■。奉新造栄天満大自在天神、大工新衛門宗■・代官松井与三左衛門。于時永禄三年庚申五月初二日、郷内子々孫■■栄也、及至法界平等利益乎(裏)仁科鍛冶太郎左衛門尉広重
謹、敬白
帯一筋、道祐・麻五十目、九郎左衛門尉・■■■■■■

ここにあるように、1560(永禄3)年の仁科庄内大多古郷地頭は山本家次。彼は三浦郡の出自で水軍を率いており、最初は為昌配下にあり、次いで氏規指揮下に入った人物。前年完成した所領役帳で家次は御家中衆に分類され、その知行とされているのは伊豆国内の田子・一色・梨本とある。どうやら仁科十二郷北部とその東方に所領があったようだ。

所領役帳では渡辺弥八郎が領主

渡辺弥八郎は所領役帳で小田原衆として記載され、知行地として仁科郷の100貫文が記載されている(但し「今者公方領」との注記があり、永禄2年時点では後北条直轄領だった模様)。山本家次領が北方を占めていたことから、弥八郎が領した「仁科」は中心部の限定的な領域だったと思われる。

その弥八郎と同族だと思われる渡辺孫八郎に対して、後北条氏は虎朱印状を発給している。仁科郷からの陣夫1名を北条氏秀(孫二郎)支給に変更するため、代替として富岡・大岡から後藤彦三郎が使っていた陣夫1名を孫八郎に派遣するとした。氏秀は綱成の弟なので、ここでも玉縄家と仁科の繋がりが窺われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0561「北条家虎朱印状」(渡辺文書)1563(永禄6)年

    前ゝ仁科郷より召仕候陣夫壱疋、自当年孫二郎前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡・大岡郷より、前ゝ後藤彦三郎召仕候陣夫壱疋、現夫を以、為仁科之夫替被下由、被仰出候、仍如件、
    癸亥四月廿六日/日付に(虎朱印)南条四郎左衛門奉之/渡辺孫八郎殿

番銭の滞納事件

永禄8年、仁科郷が納税を怠っていた事件が勃発し、そのことで周辺にいた人々の名前が明らかになる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0628「北条家虎朱印状」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    子歳番銭未進事。拾三貫六百四十文、仁科
    右、先年以配苻、無未進年ゝ可致皆済段、堅被仰付処、于今無沙汰仕儀、一段曲事被思食候、当月切而可済申、若当月を至于踏越者、以牛馬可引取、百姓共をハ五人も三人も可搦取、并名主草丈をも押立、小田原へ為引可申、此儀聊も無沙汰至于申付者、奉行人可遂成敗、為其改而一人被指加者也
    一、酉戌亥子四年間、此番銭済候様体、此度委可申披事
    一、代物之ほとらい、御本被遣事
    以上、
    乙丑七月八日/日付に(虎朱印)/仁科船持中・奉行中村宗兵衛・同村田新左衛門尉・田蔵地代源波・浮奉行中村又右衛門・山口左馬助

永禄7年の番銭13.64貫文を仁科郷が滞納した件が問題になったのが判る。7月4日の布告で「もし月を跨いで滞納するなら牛馬を差し押さえ百姓を何人でも捕縛して、名主草丈(方丈?)でも小田原へ連行する」と強硬に命じている。納税者の船持中だけでなく、奉行3名に加えて臨時奉行と思われる2名にも納税を命じていて、怠るなら奉行でも成敗するとしている。この滞納は4年も続いていたようで、過去に遡及しての完済も同時に求めていたから、まあそれは厳しく取り立てるだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条0629「北条家虎朱印状写」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    仁科郷子歳番銭未進、曲事候、当月ニ切而皆済可申、若至于踏越当月者、百姓をは搦捕、其上地頭ニ可被懸過失候、為其兼日以御印判被仰出者也、仍如件、
    乙丑七月九日/日付に(虎朱印)/左衛門大夫殿

過激な徴税命令を出した翌日、氏政は一門の綱成に徴発を依頼している。月末を過ぎても納付がなければ、百姓を捕縛し、さらに地頭に過失の責務を負わせるとしている。地頭がいたということは、この段階で仁科は直轄領ではなくなっていた。そして地頭が綱成だったのだろう。地頭が綱成とはいえ番銭は後北条当主へ納める仕組みで、その徴税代官が先行したものの難航して綱成にも連帯責任を警告したものと思われる。

この地頭職を、綱成は娘に譲った可能性が高い。

まとめ

上記より、氏規妻と綱成は、伊豆との関係性が見られることが判った。間を繋ぐ氏規は更に伊豆と関係が深いことから、この3人が密接な関係にあったと見てよいと思われる。寛政譜にある「氏規の妻が綱成の娘」という記述と従来の通説を、更に補強する結果となった。

綱成の生年は1515(永正12)年と伝わるので、1545(天文14)年生まれとされる氏規とは30歳違いであり、年齢的に不自然さはない。綱成長男の氏繁が1536(天文5)年生まれなので、その妹とすると氏規と同年齢か少し年上だった可能性はある。

北条氏勝はなぜ小田原開城後に躍進したのか

これは状況証拠であるのだが、氏規の妻が綱成娘とすれば、玉縄北条家が本家滅亡後に徳川家康に特別に取り立てられた理由が判る。軒並み落魄した一門の中で、氏規と氏勝は別格の扱いを受けている(天正19年閏1月に氏勝は自領の岩富で検地を行なっている)。

元々羽柴・徳川と関係を持ち最後まで軍事的に抵抗しえた氏規が高評価を受けて栄達するのは判り易いのだが、さほどの活躍を見せていない氏勝が、徳川家中で一万石を初動で得る理由が判らなかった。これを、氏規夫妻による嘆願が背景にあったとすれば納得がいく。

氏規夫妻と氏勝の関係が窺える史料がある。北条氏勝・直重が連名で伊豆の長楽寺に宛てて判物を発行しているもので、伊豆に関して二人が言及しているのはこの文書だけ。これは、氏規夫妻が政務を開始した甥っこ兄弟に指南をしていたと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編2535「北条氏勝・直重連署判物」(下田長楽寺文書)

    大浦薬師免田之事、右如前ゝ聊不可有相違、并近辺林之竹木等、仮初にも横合非分不可有之者也、仍状如件、
    天正十一年癸未五月十二日/左衛門大夫氏勝(花押)・新八郎直重(花押)/長楽寺参御同宿中

そもそも玉縄家は、綱成の後の氏繁が1578(天正6)年に死去してから外交・軍事ともに大きな働きはしなくなっていた。氏規の妻がこのことを気にかけていた可能性は高い(本格的な検討は必要だが、氏繁妻のものと比定されている朱印状3通(天正12~14年)も、氏規妻が実家のために発行したのかもしれない)。

1590(天正18)年の小田原合戦を見ても、氏勝は4月21日に無血降伏して玉縄を明け渡しており、扱いとしては鉢形を開城した氏邦と差異はない。

氏勝の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3037「羽柴秀吉朱印状」(島津文書・東大史写真)4月23日

    (抜粋)「来月朔日鎌倉為見物可被成御出候、彼近所ニ有之玉縄城此方へ相渡、物主北条左衛門大夫走入、命之儀御侘言申候間、相助家康へ被遣候、即右地へ相移、関東之城々悉請取、此方之人数可被入置候」

  • 神奈川県史資料編3下9773「川島重続書状」(伊達文書)5月2日

    (抜粋)「下野国ノ侍皆川山城守走出申候、人数百計召連候、其外北条左衛門大夫命を被助候様ニと申上、無理ニ罷出候、左衛門大夫ハ玉縄と申城ニ籠申候つる」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「随而廿一日相州玉縄城明渡、城主北条左衛門剃髪成染衣形出仕申候、其後伊豆国下田城清水上野楯籠候、是茂剃首助命、城指上申候」

氏邦の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)6月28日

    (抜粋)「武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「其後同国鉢形に氏政舎弟安房守楯籠候処、北国人数并浅弾人数可押寄支度候処、急懇望申、助身命候、前代未聞之比興者之由、敵味方申候」

上記を合わせて考えると、氏規妻が甥の氏勝を引き立てたという理由が成り立たないにしても、氏勝の不自然な躍進は何らかの考察を加えるべきだろう。