2019/03/30(土)足利政知死後の北条御所

円満院殿の実像が垣間見える史料

 下記は『拾遺京花集』に収められた円満院殿・潤童子の三回忌法語。著者は相国寺の横川景三(播磨出身の僧侶)。

足利政知後室の三回忌の法会(拾遺京花集・韮山町史中巻552ページ)

円満院殿拈香法語
延徳三年、円満院殿拈香、相公弟潤童子、相公母円満院殿、同日逢害、女中有、大丈夫出任姒興周、如昨日、君不見豆駿以東、冨士烟、挙香云、紅爐手練天雪、大日本国山城州京師位大功徳源朝臣義高、明応二年歳舎癸丑七月一日、伏値皇姒円満院殿月岩大禅定尼大祥忌之辰、就于当院設大斎会、造仏像金之木之、抽経王、書者印者、修慈懺摩法

「女中」は女性配偶者を指す。この場合は「女中=円満院殿」「大丈夫=政知」と思われる。

「興」は「輿(こし)」の誤記ではないか。とすれば意味が通る。

「奥方様がいた。夫の鎌倉公方就任でで出立する時の姒<=彼女o姉>の輿周りの様子は、昨日のようだ」

「紅爐」は燃えている炉で「紅爐一点雪」の禅語と懸けている。噴煙を挙げる富士山を紅爐に見立たもの。

「伊豆・駿河より東を見ることがなかったものの、彼女は一心不乱だった。それは富士の様子が紅爐一点雪を体現しているようなものだ」

「皇姒」は不明。「姒」を姉と読むならば「武者小路種光の姉」となろうが、「皇」の字に違和感を覚えるし、その前の方の文にある「姒輿周」の「姒」は「彼女」と読むのが適しているように見える。こう捉えるならば、円満院殿は内親王という扱いになる。政知に嫁す際に天皇猶子となったか。

「潤童子」は戒名。幼名は他にあった。「童子」を伴う幼名は他例なし。

「円満院殿」は戒名で、生前の呼び名ではない。

足利義澄は母と弟の死亡日を把握しており三回忌を行なった。

後に駿河から京に送られた娘もいた筈だが、ここでは言及がない。

推論

 史料の整理前ではあるが、ひとまず思い浮かんだことを書き留めておく。

周辺状況

  • 1482(文明14)年の都鄙一和によって政知が鎌倉殿になる可能性はなくなり、伊豆を堪忍分として確保した矮小化された存在になっている。これを受けて政知は息子の清晃を京の香厳院に送った。香厳院は政知が還俗前にいた寺院で、政知としては息子を戻してリセット、自身は伊豆に留まる判断をしている。
  • 政知の跡目を巡って異母兄弟で係争があったとする後世編著は、伊豆を起点に関東に広がった後北条の事績と、明応政変による義澄将軍任官を前提に案出されたものと見られる。
  • 都鄙一和によって行き場がなくなった挙げ句に死去した政知の跡目は、政知死去直後だとさほどの魅力を持たないのではないか。

政元室の動き

  • 残された政知室は京にいる長男の元に行こうとし、忌明けに出立する予定だった可能性がある。
  • 足利政知が1491(延徳3)年4月3日に死去したのは同時代の複数史料で確認できるため、確実。1497(明応6)年7月2日付けの富士浅間物忌令(戦今106)によると、父母の物忌みは120日とされる。
  • 母子が殺されたのは政知死去87日後、百ヶ日の13日前で初盂蘭盆会の14日前。この盂蘭盆が一つの目安かも知れない。
  • 120日の忌明けまでは盂蘭盆会から19日あるが、路次準備を考えると、帰京の本格準備にかかる辺りか。
  • 「逢害」とあることから、政知室と二男は殺害されたことが判る。とすると、二人の京行きに反対する者が、両名を殺害した。

殺害者

  • 関東勢には動機がなく、今川は当主空位で動けない。上杉政憲が怪しいかも知れない。犬懸は今更関東には戻れないし、京にコネもない。
  • 政知妻子の帰京に伴い伊豆を山内に返還となれば政憲の行き場はなくなる。これに加えて、政憲の姉妹か娘が政知の子を生んだとすれば、この子を担いで独立を図ったか。これが「茶々丸」で、実名を持たないのは幼児だったからかも知れない。
  • 後に駿府から京に送られた義澄妹は上洛後に消息を絶つ不可解な動きをするが、この妹は「茶々丸」と同じ母を持っていたとすれば、後に追放となったと考えられ筋は繋がる。

その後

  • 政憲の計画では、母子病死とし北条御所の外戚となること。暫くは問題にならなかったが、その後義澄が将軍になり、政憲追討を企図する。対立した上杉は動けなかったため、今川にいた伊勢宗瑞が伊豆に入り政憲を追い出す。宗瑞はそのまま伊豆での在国奉公衆となる。
  • 伊豆が元々山内の分国だったことから、扇谷は宗瑞の伊豆入りを容認し、対する山内は政憲を引き取る。但し、政憲は将軍生母と弟を討っているので正式には受け入れられず、更に甲斐に逃げ行き場を失った。

2019/02/13(水)徳川への改名と泰翁慶岳

誓願寺長老は訴訟でそれどころではなかった

松平から徳川への改名で、三河出身の泰翁慶岳(誓願寺長老)が協力したという説があるが、同時代史料を見る限り泰翁慶岳は絡んでいない。永禄8~9年という同時期に、誓願寺は円福・三福両寺との訴訟を抱えており、公家を巻き込んでゴタゴタやっている。この様子は『言継卿記』に詳しい。片がついた永禄9年2月6日、泰翁慶岳は三河に戻り勢力確保を目指す。

この時に山科言継は泰翁慶岳に松平和泉守宛の書状を託している。これは、和泉守と言継は駿府で交流があったため。

ただ、誓願寺訴訟にかなり深い部分まで関わり和泉守とも親交の合った言継は、家康の徳川改名に関しては何も記していない。つまり、日記を読む限り言継と泰翁慶岳は、徳川改名とは無関係といえる。

誓願寺文書の解釈

この状況を踏まえて、泰翁慶岳が改名に関わった根拠とされる誓願寺文書を見てみる。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

先に申しましたように、勅使のこと、今も抑留されているところで、何度も仰せ出しになられています。どのようにあるべきでしょうか。馳走されますように、ご意見されるのが大切です。ついで、松平家のこと、徳川であると慶源が申していますが、あの家は昔家来でした。きっとその国で分別を働かせてくれるでしょう。このように通じることは奇特なことです。ですから望みなどがあれば随分と馳走してくれるでしょう。さらに慶源が申します。

この書状は、抑留されて帰ってこない勅使の様子を尋ね帰洛への尽力を要請したもので、誓願寺長老が三河に行った永禄9年以降のものと思われる。

差出人は不明で、花押は近衛前久とは異なる(朝野舊聞裒藁では「勧修寺大納言」とあるが信憑性に疑問)。京の松平氏が仕えていたのは細川・伊勢で、公家との繋がりは不明。

差出人は、三河の松平家が今では徳川と名乗っていることを誓願寺使者の慶源から聞いて、その家は昔家来だったから協力してくれるだろうと記している。「勅使」を、家康の改名・任官を伝えるものと解釈している説があるが、「次」という付加条件のあとに「在地の徳川は昔家来だったので協力してくれるだろう」とあり、この書状の本題はあくまで勅使の帰還要請にあり、徳川は「そういえば昔の家来だった。すごい偶然だから声かけて」くらい。

勅使の目的は、結審した訴訟の結果を通達し履行を見届けるものだったのだろう。ただしその勅使は相手方の円福・三福両寺に拘束されてしまったと。

もう一つの考え方としては「家康が勅使を抑留」という読み方も可能ではある。しかしそれだと、「分別を働かせるだろう」はよいとして「望みがあれば随分と馳走してくれるだろう」はちょっとおかしい。

やはり抑留当事者が別にいて、家康がその仲介者として奔走するという解釈の方が、この場合は自然かと思う。

徳川は源氏なのか藤原氏なのか

政局から考えると、織田・朝倉・上杉に上洛供奉を要請していた足利義昭の存在がある。この時に松平家康にも要請があった。とはいえ、三河からの上洛を確実にするためには、今川氏真と和睦させるなければならない。となると、家康の三河当知行を中央が承認する必要があった。ここから、徳川改名・三河守任官の動きになったのではないか。永禄4年から源氏を称していた家康は源氏の徳川を希望したが、将軍職の争奪があったことから源氏を避けて藤原氏としての打診があり、家康も受諾したものと思われる。

参照史料

足利義昭上洛の供奉について、松平家康が返信する。

如仰今度 公儀之御様体無是非次第候、就其 一乗院殿様御入洛之故、近国出勢之事被仰出之旨、当国之儀不可存疎意候、此等趣御意得専要候、猶重而可得御意候条、不備候、恐々謹言、
十一月廿日/家康(花押)/和田伊賀守殿御返報(上書:和田伊賀守殿御返報 松平蔵人家康)

  • 愛知県史資料編9_0456「松平家康書状」(和田家文書)1565(永禄8)年比定

足利義昭上洛の供奉を織田信長が引き受ける。

就御入洛之儀、重而被成下、御内書候、謹而致拝謁候、度々如御請申上候、 上意次第不日成共御供奉奉之儀、無二其覚悟候、然者越前・若州早速被仰出尤奉存候、猶大草大和守・和田伊賀守可被申上之旨、御取成所仰候、恐々敬白、
十二月五日/信長(花押)/細川兵部太輔殿

  • 愛知県史資料編9_0459「織田信長書状」(高橋義彦氏所蔵文書)1565(永禄8)年比定

抑留された勅使の帰還を誓願寺に依頼する。

先度如申、 勅使之儀、于今抑留候処、切々被仰出候、可有如何候哉、馳走候様御異見肝要候、次松平家之儀、徳川之由慶源申候、彼家之儀者、昔家来候き、定而其国ニも可為分別候、如此申通事、寄特被存候、自然者望等之儀候者、随分可令馳走候、猶慶源可申候也、状如件、
十二月三日/(近衛前久ヵ花押)/誓願寺

  • 愛知県史資料編9_0529「某御内書」(誓願寺文書)1566(永禄9)年比定

徳川への改名が近衛前久を通じて家康に伝えられる。

改年之吉兆珍重々々、不可有休期候、抑徳川之儀令執奏候処勅許候、然者口宣并女房奉書申調差下之候、尤目出度候、仍太刀一腰遣之候、誠表計ニ候、万々歳可申通候也、状如件、
正月三日/有書判/徳川三河守殿

  • 愛知県史資料編9_0541「近衛前久御内書写」(三川古文書)1567(永禄10)年比定

三日、晴、(中略)こん衛とのより、藤宰相して申され候、徳川しよしやく、おなしくみかはのかみくせん、頭弁に御ほせられて、けふいつる、おなしく女ぼうのほうしよもいつる、(後略)

  • 愛知県史資料編9_0542「お湯殿の上日記」1567(永禄10)年1月

2019/01/24(木)今川氏親が幼少時丸子にいたのは誤伝

今川氏親が幼少時に駿府に入れず、丸子に籠もり小川法栄の庇護を受けていたという伝承がある。以前よりなぜこのような伝承があるのか不思議だったが『宗長日記』を読んでいて「誤読なら腑に落ちる」ということに気づいた。

宗長はその日記で、詳しく知っているはずの氏親幼少時の状況を一切書いていない(彼はその間は上京していたと書いている)。

しかし、氏親やその母である北川殿とも親しかったのだから、宗長が彼らの事情を全く知らなかったとは考えづらい。

そのように考えた後世の何者かが「宗長は必ず氏親幼少時の事項を書いているはず」という予断で日記を流し読みをした。ここで誤読が生じたのではないか。

焦点となるのは『宗長日記』1526(大永6)年2月の記述。これは、氏親が死ぬ4ヶ月前に宗長が上京する際の描写。

九日夜に入、北河殿(氏親母公伊勢新九郎姉)御見参、三献。色ゝ心のとかなる御物かたり、こゝもとの御侘事御袖をしほり給へるやうにて候て、かなしさ迷惑、此度子細を申につけて、ともかくもと思召候事にて候。かならすゝゝ罷下候へとおほせ、やかて罷下候ハんするなと申て、やうゝゝに罷帰候。御折紙過分ことの葉も候ハてこそ候つれ。同十日宇津の山のふもと丸子閑居。一宿して作事なと申つけ、十一日の早朝に小川にまかり立ぬ。小川長谷川元長(小川法栄息)千句懇望。さりかたきにより、十三日始行。泰以各送りにとて同道。千句三日。

※()は朱書注記

誤読者はこの前後を読まず、北川殿が幼少の氏親を抱えて困惑しており、丸子に逼塞して小川法栄の援助を受けていたと読んだ。

  • 幼い氏親の不遇を悲しむ北川殿が早い帰還を願う(実際には、初老になった息子の衰弱で不安になっていた)
  • 氏親は「丸子閑居」を強いられた(実際には、宗長宅の謙称)
  • 小川の長谷川元長が氏親を庇護した(実際には、単なる連歌好き)

このように、誤読者は前後を読まず、自分が読みたい部分のみを解釈している。このため、実際には1526(大永6)年の記述を、40年遡る1487(長享元)年の出来事にしてしまった。

この直後に朝比奈泰以が出てくるのに違和感があるが、誤読者はそこは気にしなかったのだろうと思う。気にするくらいならそもそも年の違いに気づいたはずだ。

ちなみに、同時代史料からは、氏親が丸子・小川・長谷川に関係した痕跡はない。