2019/01/24(木)今川氏親が幼少時丸子にいたのは誤伝
今川氏親が幼少時に駿府に入れず、丸子に籠もり小川法栄の庇護を受けていたという伝承がある。以前よりなぜこのような伝承があるのか不思議だったが『宗長日記』を読んでいて「誤読なら腑に落ちる」ということに気づいた。
宗長はその日記で、詳しく知っているはずの氏親幼少時の状況を一切書いていない(彼はその間は上京していたと書いている)。
しかし、氏親やその母である北川殿とも親しかったのだから、宗長が彼らの事情を全く知らなかったとは考えづらい。
そのように考えた後世の何者かが「宗長は必ず氏親幼少時の事項を書いているはず」という予断で日記を流し読みをした。ここで誤読が生じたのではないか。
焦点となるのは『宗長日記』1526(大永6)年2月の記述。これは、氏親が死ぬ4ヶ月前に宗長が上京する際の描写。
九日夜に入、北河殿(氏親母公伊勢新九郎姉)御見参、三献。色ゝ心のとかなる御物かたり、こゝもとの御侘事御袖をしほり給へるやうにて候て、かなしさ迷惑、此度子細を申につけて、ともかくもと思召候事にて候。かならすゝゝ罷下候へとおほせ、やかて罷下候ハんするなと申て、やうゝゝに罷帰候。御折紙過分ことの葉も候ハてこそ候つれ。同十日宇津の山のふもと丸子閑居。一宿して作事なと申つけ、十一日の早朝に小川にまかり立ぬ。小川長谷川元長(小川法栄息)千句懇望。さりかたきにより、十三日始行。泰以各送りにとて同道。千句三日。
※()は朱書注記
誤読者はこの前後を読まず、北川殿が幼少の氏親を抱えて困惑しており、丸子に逼塞して小川法栄の援助を受けていたと読んだ。
- 幼い氏親の不遇を悲しむ北川殿が早い帰還を願う(実際には、初老になった息子の衰弱で不安になっていた)
- 氏親は「丸子閑居」を強いられた(実際には、宗長宅の謙称)
- 小川の長谷川元長が氏親を庇護した(実際には、単なる連歌好き)
このように、誤読者は前後を読まず、自分が読みたい部分のみを解釈している。このため、実際には1526(大永6)年の記述を、40年遡る1487(長享元)年の出来事にしてしまった。
この直後に朝比奈泰以が出てくるのに違和感があるが、誤読者はそこは気にしなかったのだろうと思う。気にするくらいならそもそも年の違いに気づいたはずだ。
ちなみに、同時代史料からは、氏親が丸子・小川・長谷川に関係した痕跡はない。