2023/01/14(土)「宗瑞敗北」とある足利政氏書状の解釈

足利政氏書状の解釈は結構難解なので、現状での解釈覚書。

文書の基本データとその解釈

原文

  • 戦国遺文古河公方編0349「足利政氏書状」(簗田家文書)1494(明応3)年比定

    去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、顕定申旨候、因茲延引、然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、被進勝計候事も非関覚悟計候、委旨五郎可申遣候、謹言、
    十一月十七日/(足利政氏花押)/簗田河内守殿

読み下し

去る十三日、政能方へ折紙到来の間、翌日必ず旗を進めるべきのところ、顕定申す旨に候、ここにより延引、しかして十四日未刻、伊勢新九郎退散の由、その聞こえ達続、御本意に属するべきの時節、純熟候か、目出たく候、宗瑞敗北、ひとえにそのほう岩付へ合力急速ゆえ候、戦功に感悦候、よって凶徒高坂張陣の時、差し懸けられずの段、書中顕に候あいだ、まずもって理り候、しかりといえども顕定調儀を庶幾わず更に成しがたく候、ここもと推察せしむるべく候、惣別悠のさま候、吉事の上において、無曲の子細出来すること、これあるべく候や。勝計を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するにあらずして候。委しき旨は五郎を申し遣わすべく候、謹言、十

解釈

去る13日、本間政能へ送った書状が来ましたので、翌日必ず進軍しようとしたところ、上杉顕定が意見を言ったので延期となりました。そして14日未刻に、伊勢新九郎が退却したという報告が相次ぎました。本望を達成する機運が熟してきたのでしょうか。おめでたいことです。宗瑞の敗北は、ひとえにあなたが岩付へ援軍を急いでくれたからです。戦功に感悦しました。さて、凶徒が高坂に陣を張った時に攻撃しませんでした。書中に書きましたからまずは説明します。とはいえ、顕定が作戦を希望しないのですから更に難しいのです。こちらの事情をお察し下さい。総じてゆったりしています。吉事の上ではつまらない事情が出てくるのでしょうか。勝計を進められるのは覚悟だけあればいいというのではありません。詳しくは五郎に申し使わせましょう。

文章ごとの逐次解釈説明

文章を意味の区切りに応じて小分けし、解釈の根拠を書き出してみる。

去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、

この書状は11月17日なので、その4日前に簗田河内守(成助ヵ)から本間政能へ折紙が来たことが契機となり、その翌日に旗を進めようと政氏は考えていた。恐らく河内守からの情報が政氏本陣を即座に動かす内容だったことを示しており、この後の政氏の言い分を見ていると、この書状で河内守は政氏出撃を強く要請したものと推測される。

顕定申旨候、因茲延引、

ところが、上杉顕定が意見した内容によって延期になってしまう。

然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、

そうして14日の未刻(14~16時頃)になると、伊勢新九郎が退却したという報告が連続してあった。つまり、敵兵力を撃滅できる好機を逸し、挟撃もしくは追撃をしなかったことが判る。

可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、

「本意」は望みを叶えること、「純熟」は機が熟したことを示すので、政氏・顕定としては目的を達成が間近だという書き方になっている。そしてそれを「目出たい」と書き記し、現状に不満がないことを表現している。

宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、

ここで、なぜ河内守の報告が政氏出撃の契機になりえたかの説明が入る。河内守が岩付への援軍をすぐに出したから伊勢宗瑞が敗北したのだとして、その戦功を褒め称えている。

仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、

ここからがこの書状の本題になる。「凶徒」は伊勢宗瑞自身とも、その同盟勢力である上杉朝良とも取れる。地理的に考えるなら、宗瑞が岩付、朝良が松山へ同時攻勢に出たところ、簗田河内守がいち早く岩付へ支援に入ったため宗瑞が敗走した。それをすぐに政氏に伝えたものの、高坂にいる朝良に対して同時反撃を行なわなったという状況になるだろう。

「差懸」は「指懸」と同じで「攻撃」を示し、「書中」はこの書状自体を表す。また「理」は上意下達の意図を含む説明行為を示す。文頭にあった攻撃の「延引」の具体的な内容を述べて「これは先に書いているから説明する」と付け加えているのは、自らの不手際を渋々認めているように見える。

必死に戦って情報提供を迅速に行った河内守に対して、政氏・顕定は何もしておらず、その体裁を取り繕いたいのがこの書状の主目的になっていることが判る。

雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、

この「調儀」は調略ではなく実戦行為を指すだろう。ここで政氏は顕定に責任をかぶせようとしている。自分は攻撃したかったが顕定が乗り気でなかったのだ。そちらは遠方で判らないかもしれないが、察してほしいと。

惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、

ここからは政氏・顕定陣営のゆるい雰囲気を説明していて、そこに続けて、吉事の最中でも何か不都合が起きるものではないかと、言外にもっと慎重に備えるべきだと訴える。なかば居直りの気配が感じられる。

被進勝計候事も非関覚悟計候、

「勝計」はこの他に7例を見つけたが、どれも感状などで功績を賞する際に「不可勝計=これ以上ない」という意味で使っており、全て「不可」が頭につく。従って「勝計」が別の意味で用いられているか、翻刻が間違っているかだろう。

Twitterで指摘されている「勝陣」と読むのは、「進」と「陣」の組み合わせが多数あるため納得がいく。「勝計」を「勝利の計策」とすると「計策・計略・籌策」は「廻」か「乗」ものであって「進」とは合わせない。

しかし一方で「勝陣」という表現は他例がない。

原文を見ていないので推測でしかないが、「計」と「陣」が取り違えられるほどに崩れた文字ならば「勝」ではなく「御」だったという可能性もあるのではないか。「御陣を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するに非ず=公方・管領の部隊を進めるのは、腹をくくった覚悟があればいいというわけでもないのだ」と考える方が文意がすっきりする。

「伊勢新九郎」と「宗瑞」の実体

この文書では「伊勢新九郎」と「宗瑞」が出てくることから、両者が別人で伊勢新九郎が氏綱だという仮説もある。しかし、この時氏綱は数えで8歳なので、参戦どころか元服すらしていない。物理的に考えてどちらも伊勢盛時と考えてよいだろう。同一人物を文書内で別表記するのはありえない話ではないし、当時は突如登場した「伊勢新九郎・宗瑞・早雲」に混乱していた事情もある。

1496(明応5)年7月24日の上杉顕定書状(神3下6406)では、宗瑞の弟に関して2箇所表記があるが、それぞれ微妙に異なる。

為始伊勢弥次郎家者、数多討捕、験到来本意候並伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自落

また、駿河台大学論叢第41号11の上杉憲房書状写では、当該文書に似た表現構造が見られる。

(抜粋)伊勢新九郎入道宗瑞、長尾六郎と相談、相州江令出張、高麗寺并住吉之古要害取立令蜂起候、然間建芳被官上田蔵人入道令与力宗瑞

最初に「伊勢新九郎入道宗瑞」とフルネームで記し、そのあとは「宗瑞」と略しているのだが、これは政氏書状で最初に出てくる「伊勢新九郎」は当初「伊勢新九郎入道宗瑞」とすべきところを書き損じたという可能性を示唆する。

2023/01/08(日)徳川家康登場初期の考察

松平竹千代

徳川家康の幼名と思われる「竹千代」は、1550(天文19)年11月13日に、今川義元が天野孫七郎に宛てて「竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々(戦今979)と記したのが初見。

この6日後の11月19日に義元は長田喜八郎宛てで「松平竹千代知行大浜上宮神田事」(戦今987)について規約を発行している。

翌年1551(天文20)年12月2日には、東条松平氏で甚次郎が織田方へ寝返ったことを受けて、その兄と思われる松平甚太郎宛てで出された血判起請文(戦今1049)には「御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間」とある。起請文は飯尾乗連・二俣扶長・山田景隆の連名で出されており、今川家被官として松平甚太郎が忠節を遂げる相手として「御屋形様」とともに「竹千代」を挙げている。このことから、松平竹千代は東条松平氏への影響力が高かった可能性がある。

松平元信

徳川家康が「松平元信」として史料上登場するのは1555(天文24)年5月6日。石川忠成・青木越後・酒井政家・酒井忠次・天野康親の連署状(戦今1216)に「従元信被仰越候間、各一筆遣候」と言及されている。本人が文書発給していないことから、その能力をまだ備えていなかったようだ。

本人名義の文書は1556(弘治2)年6月24日の大仙寺宛黒印状が初見(戦今1290)。大仙寺には、6月21日に今川義元が判物(戦今1288)と条書(戦今1289)を出しており、その庇護に基づいて発行しているのが判る。また、当日付で元信の親類と思われる「しんさう」が副状(戦今1292)を出しているほか、元信自身は黒印を捺すに留まっている。元信より上位者の義元が花押を据えているにも関わらず印判で済ませていることから、元信自身が押印したかも疑わしい(この時に元信が使っている黒印は以前「しんさう」が使っていたもの)。

元信(家康)がこの時どこに所在したかは不明だが、義元の日付との差から見て三河吉田辺りに「しんさう」と共にいた可能性が大きい。

元服したはずの元信は主体性を持たないままで、それゆえか、彼は再び「竹千世」として登場する。大給松平氏の親乗が、留守を預けた田島新左衛門尉に宛てて「然者竹千世・吉田之内節々御心遣=ですから竹千世・吉田の内での折々のお心遣い」について感謝したものだ。この時親乗は、弟との所領訴訟で駿府に行っていた。

  • 戦国遺文今川氏編1345「松平親乗書状」(田島文書)

      猶以御辛労難申尽候、時分柄と申、すいりやう申候、
    急度申候、仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移、外聞実儀畏入候、此等趣、良善へ申入候、定而可被仰候、然者竹千世・吉田之内節々御心遣、別而無御等閑しるし忝存、与風此苻へめし下候、御訴訟大方ニも候ハゝ、我等罷上御礼可申候、城中之者共、不弁者之儀共候、御異見頼入候、万吉左右可申入候、恐々謹言、
    八月九日/松和泉守親乗(花押)/田嶋新左衛門尉殿まいる

 急ぎ申し上げます。御奉行からあなたへ説明されたように、細川衆を召し連れて早々の移動、外聞実儀に恐れ入っています。この趣旨は良知善左衛門へ伝えています。きっと仰せがあるでしょう。ということで竹千世・吉田内にも折々心遣いをいただき、放置されることもないのは特にありがたいことです。思いがけずこの駿府に招集されましたが、御訴訟が大方片付いたら、戻って御礼を申し上げましょう。城中の皆は使いづらいでしょうが、ご指導をお願いします。万事吉報を申し入れることでしょう。さらに御辛労は言葉に尽くしがたいことです。時節柄、ご推量下さい。

  • 戦国遺文今川氏編1341「由比光綱・朝比奈親徳連署状」(田島文書)1557(弘治3)年比定

    急度申候、松知泉長々就在府被成候、彼家中申事候哉、殊舎弟次右衛門方種々之被申様候、此方にてハ山新なと被取持、三内被頼入候、先日同名摂津守方被罷越候、内々談合ける由其沙汰候、雖然 上様御前無別条候、只今大給用心大切之旨、従其方田島方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候、其間御用心のために候、就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候、恐々謹言、
    七月廿二日/朝丹親徳(花押)・由四光綱(花押)/良知善参

 急ぎ申し上げます。松平和泉守が長々と駿府に滞在なさっています。彼の家中から報告ありましたでしょうか。特に弟の次右衛門から色々と報告があるようです。こちらでは山新(山田景隆?)などが仲介して三内(三浦内匠助?)に頼み込んでいます。先日同姓摂津守が来訪して内々で話し合ったのも、その沙汰についてでした。とはいえ上様(今川義元)の前では別状ありません。現在は大給での用心が重要であること、あなたから田嶋に指示するように。松平久助と打ち合わせて軍勢を14~5人も派遣すべきでしょうか。和泉守も早々に向かうでしょう。それまでは御用心下さい。中で和泉守の息子が吉田に置かれているのを、抱き取るだろうなどと噂が流れている。宿営地のことは用心を命令することはもっともなことです。

この時に親乗が元信を「竹千世」と書いたのは、同族であることの気安さもあったろうと思うが、自らの子息(後の真乗)が竹千代と一緒に起居していたのでどうしても幼名が先立ってしまったのかと考えられる。

さて、親乗がなぜ駿府に行かなければならなかったかというと、大給松平家では、親乗とその弟次右衛門との間で係争があったようだ。1557(弘治3)年7月22日に、親乗サイドの朝比奈親徳・由井光綱が三河の良知善左衛門に送った書状(戦今1341)によると、訴訟元からのルートは以下の構成。

 <訴訟元>    <現地担当>     <駿府取次役>

  • 松平親乗 ー 良知善左衛門 ー  朝比奈親徳・由井光綱 →
  • 松平次右衛門 ー 山田景隆 ー 朝比奈摂津守・三浦正俊 →

※大給城は良知が田島新左衛門尉・松平久助を派遣して留守居。吉田にいる親乗の息子を次右衛門が略奪する噂が流れており、警戒中。

この書状の「然者竹千世吉田之内節々御心遣別而無御等閑しるし忝存」を巡っては「竹千代は吉田にいた」とする平野明夫氏の仮説と「竹千代は駿府から吉田に心遣いをした」とする本多隆成氏の仮説がある(戦国史研究54号・55号)。

この時に親乗は訴訟のため駿府にいたのは確実で、戦今1341で確認できるほか言継卿記でも交友相手として登場する。

この書状では駿府に長期滞在する親乗が、自身に変わって三河大給城を守っている田島新左衛門尉に感謝を伝えたもの。だから、この文中にいきなり「駿府の竹千代が吉田の人質達に折々お心遣いをいただき、とりわけ親身になっているのはかたじけないと思う」が混入するのは違和感がある。「(田島が)吉田の人質達(竹千代・親乗子息を含む)にも折々お心遣いをいただき~」と解釈する方がより自然だろう。元信が駿府にいて親乗と会っていたなら、その成長を見た親乗も「竹千代」という幼名は使わなかっただろう。

また、駿府で親乗が元信に会っていたというなら、元信が吉田へ気配りしたことをわざわざ田島に謝すのかもよく判らない。やはり、駿府から三河に書状を発した親乗が、現地の今川被官達(田島・良知・朝比奈)へ吉田人質(竹千代や親乗子息)への気配りを感謝したと見るのが自然だろう。

このような挙動の親乗に対して、後世編著の『改正三河後風土記』では、

其中に徳川家を離れ、駿州に在勤し、時におもねり、世に媚る者松平和泉守親乗・松平内膳正清定・酒井将監忠尚・同左衛門尉忠次等数多し

とする。また、言継卿記で男性の僧が出てくる華陽院に関しても奇妙な記述をしている。

御外祖母(清康君御室大河内氏)玉桂慈泉尼公も尾州より来り給ひて、ひとかに今川家の権臣等になげき給ひ、御幼稚の間介抱ましましける。この尼公は後に華陽院殿と申、永禄三年五月六日駿府にてうせ給ひける。神君御代しろしめして後、其御葬地駿府の知源院をこと更造営ましまし、寺料あまた寄られ、今は其寺を華陽院といふ

別記事の徳川家康の前室についてでも書いたが、徳川家康の幼少期駿府在は胡乱な話だろう。

確実な同時代史料に基づく限り、徳川家康が1582(天正10)年以前に駿府に入った確証はない。  →上記記述は誤り。論拠は後述。

元信から元康へ

その後家康は「元信」としてきちんと花押を据えるようになる。

  • 戦国遺文今川氏編1333「松平元信判物」(岡崎市高隆寺町・高隆寺文書)

    高隆寺之事
    一、大平・造岡・生田三ヶ郷之内、寺領如先規可有所務事
    一、洞屋敷并五井原新田、如前々不可有相違之事
    一、野山之境、先規之如境帳、不可有違乱事
    一、於伐取竹木者、見相ニ可成敗事
    一、諸役不入之事、然上者坊中家来之者、縦雖有重科、為其坊可有成敗事、条々定置上者、不可違乱者也、仍如件、
    弘治三年五月三日/松平次郎三郎元信(花押)/高隆寺

「元信」の終見は、1557(弘治3)年11月11日の石川忠成等連署状案(戦今1365)。この後は「元康」として登場するのだが、この要因としては武田晴信書状(戦今1547)から窺われる岡部元信の今川家帰参が挙げられる。岡部元信は、小豆坂合戦での戦功として家中での軍装「筋馬鎧并猪立物」の独占使用を求めた(戦今1106)ことから、同一家中にいた若輩が同名の「元信」を名乗ることを許容したとは考えにくい。

「元康」初見となる1559(永禄2)年の定書の第2条によると「元康が在府の間は岡崎で各々が議論して結論を出して連絡せよ」とある。このことから、永禄2年段階で家康は岡崎に居を定めつつ、時折駿府へ滞在することがあったと判る。

  • 戦国遺文今川氏編1455「徳川家康定書」(桑原羊次郎氏所蔵文書)


    条々
    一、諸公事裁許之日限、兎角申不罷出輩、不及理非可為越度、但或歓楽、或障之子細、於歴然者、各へ可相断事
    一、元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事
    一、各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者、各へ相談、給恩可改易事、付、互之与力、別人ニ令契約者、可為曲事、但寄親非分之儀於申懸者、一篇各へ相届、其上無分別者、元康かたへ可申事
    一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事、付、陣番之時、名代於出事、可停止、至只今奉公上表之旨、雖令訴訟、不可許容事
    一、各へ不相尋判形出事、付、諸篇各ニ不為談合而、一人元康へ、雖為一言、不可申聞事
    一、公事相手計罷出可申、雖為親子、一人之外令助言者、可為越度事
    一、喧嘩口論雖有之、不可贔屓、於背此旨者、可成敗事、付、右七ヶ条於有訴人者、遂糾明、忠節歴然之輩申旨令分別、随軽重、可加褒美者也、仍如件、
    永禄二未己年五月十六日/松次元康(花押)/宛所欠

今川家中で「在府」とは駿府滞在を示す(戦国遺文今川氏編537/634/709/763/942/1047/1341/1358/1460/1671/1775/2181)。

2023/01/05(木)氏政妻付きの被官は存在したか

後北条氏の例を見ていると、男子が養子入りした際には決裁権を持った付き家老とでもいうべき被官がつけられて入部することが判っている。

では女子が後北条氏に嫁入りした際にこのような被官が付けられるのかを検討してみたい。

吉良氏朝妻の例

実例を見るとすれば、北条宗哲の娘が、当主氏康の養女として武蔵吉良の氏朝に嫁ぐ時に、実父の宗哲が与えた覚書(戦北3535)が参考になるだろう。

ここでは、儀式次第については大草康盛、台所の作法については久保某に彼女自身が質問することを前提した条項がある。これらは後北条家で事前確認する部分なので、お付きの被官とは関係がない。

  • 原文

    一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返たう候へく候

  • 解釈

    一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候

  • 原文

    祝言のときの状況は、あちらの世話人のいう通りにするように。大草などに質問したとしても、覚えががないと返答されるだろう。

  • 解釈

    きっと常の三献だろう。であれば、本式の三献ということだろう。ならば、久保によく質問して作法を間違えないようにしなさい。常の三献であれば、別儀はないだろうから、うるさく言わないことだ。

その一方で、水主杢助・比木図書は細かい案件を任せられるとし、その下の扱いになっている大屋・中田の両名についても折に触れて用事を頼むのがよいと告げている。

  • 原文

    一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候一、清水、笠原御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候

  • 解釈

    一、水主杢助・比木図書は、細かいことでも連絡すべきだろう。親しくするように。大屋・中田とも、被官なのだから、目をかけて用事を命じるように。一、清水・笠原がお礼に来たら、大人衆のように扱うように。一、お迎えに来た大人衆へは、次の日に杢助を使いとして呼び、気持ちを上臈から連絡してよいだろう。ただ、どうなのだろうか。高橋郷左衛門に相談するように。お礼をした後で使いを送るのだろうか。郷左衛門の意見に任せるように。

このことだけでなく、吉良家中で後北条氏に最も親しい高橋郷左衛門尉の意見を全面的に仰ぐように別条で伝えている。彼女の身近にいて諮問を受けられるのは郷左衛門尉という認識なのだろう。

ここで名が出た水主杢助・大屋・中田は後北条当主の虎朱印状の奉者として名が挙げられていて、それは宗哲娘が嫁した後も同じである。このことから、彼らは吉良家にはいなかったと見てよいだろう(小田原市史435・719・2114/戦北855・1076・1274・1621・1846・2225)。此木図書については史料になかったので不明だが、水主杢助と同じ立ち位置だろうと思われる。

気安く用事を言いつけるように言われた水主杢助や大屋・中田が、氏朝妻の近辺に常駐していた訳ではなく、小田原で当主に仕えている身であるものの、氏朝妻から連絡があれば対処する存在であったといえる。

以上をまとめると、氏朝妻に付けられた者に有力な被官はおらず、吉良家中の高橋郷左衛門尉に直接相談するか、実家の諸被官(水主杢助・此木図書・大屋某・中田某)に連絡するという状況にあったことになる。

氏政妻を巡る状況

では武田家から後北条家に嫁いだ氏政妻の場合はどうだったか。彼女に関しての史料はほとんど残されていないが、永禄2年の「武田家朱印状」(戦武655)で「就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也、仍如件。奏者、跡部次郎右衛門尉。天文廿四年三月二日、向山源五左衛門尉」とある。

ここをどう解釈すべきだろうか。「小田原南殿」は北条氏政に嫁いだ武田晴信娘で間違いないだろう。その奉公のため、向山源五左衛門尉は伝馬課税を免除されている。ここで判るのは、源五左衛門尉が月2頭までの伝馬課税を免除されていることと、その理由が氏政妻への奉仕によるもの、ということである。

先の北条宗哲覚書とを併せて考えると、源五左衛門尉は小田原で南殿に近習したのではなく、一族の向山又七郎と同じく小山田氏同心として氏政妻と甲府との連絡担当者として甲斐国内にいたと見るのが妥当だろう。

一方で、所領役帳に「向山」という人物がいたことから、向山又七郎か源五左衛門尉が氏政妻付きの被官として後北条家中に取り込まれたとする仮説を見かけたことがある。

しかし、役帳の「向山」は他国衆に属しており、小山田弥三郎・小山田弥五郎・飯富左京亮に続いて記載されている。役帳の他国衆というのは、後北条氏がその知行を把握できていない者達で、そのうちで後北条分国内での彼らの知行を書き記している特例の存在。小山田弥三郎は武蔵小山田庄を中心にした知行を持っているため、甲斐郡内に移る前の小山田氏本知行を維持していたものと思われる。しかし、小山田弥五郎は伊豆、飯富左京亮は小田原千津島、向山は小机に知行を持っている。これを合わせて考えてみると、弥五郎の本地を承認する一方で、彼の同心達には後北条直轄領を与えたと思われる。彼らが直轄領を手にできたのは、津久井衆の知行地に「敵半所務」が多数見られることと関係しているように思われる。散財する小山田氏との半所務を整理する中で、本来の知行を手放して区画整理に応じた見返りとして、後北条当主が知行地を与えたものではないだろうか。

それに加えて、氏政妻付きの被官が他国衆として知行を与えられているとすれば、今川家から嫁した氏康妻付きの被官がこの他国衆に見られないのは違和感がある(他国衆には今川系の人物が見当たらない)。

該当するとすれば御家中衆にいる「興津殿」だが、興津氏は花蔵の乱で今川義元と決別した一族がいたようで、この中の一人を縁戚に取り込んだものだろう。

  • 戦国遺文今川氏編0561「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

    其方扶助同者親類等、聊就有疎儀者、堅可加下知、万一於属他之手輩者、手分之事者御房可為計者也、仍如件、
    天文五丙申年十月十七日/義元(花押)/興津彦九郎殿

あなたが扶助する者と親類で少しでも疎意があるならば、堅く下知を加えるだろう。万一にでも他家に属す輩がいるなら、分離内容については御房(出家した先代の興津藤兵衛正信?)の計画通りにするように。

※宛所の彦九郎はこの文書を最後に今川家から姿を消し、正信から衣鉢を継いだ弥四郎が今川分国に留まる。その後、弥七郎は今川滅亡後の1571(元亀2)年に北条氏繁の被官として登場する。

まとめ

北条宗哲覚書には、後北条氏が現役の関東管領であり武蔵吉良は将軍御一家衆であると明言されている。このことから、後北条家と武蔵吉良氏との婚姻は太守間での婚姻に相当するものといえる。細かく見ると、娘(吉良氏朝妻)への忠告にも氏綱妻(養珠院殿)と氏康妻(瑞渓院殿)の行動が言及されており、氏朝妻が太守妻に比せられており、この見解を裏付けられる。そして氏朝妻には有力被官は付けられておらず、吉良家中に単身置かれていた(身分の低い小者はいただろうけれど)。

このことと、従来言われていた向山氏が氏政妻付きだったという仮説に確証がなく成り立たない可能性が高いことを考えると、少なくとも氏政妻に付けられた有力被官はいなかったと思われる。