2023/03/30(木)北条氏康の長男は「氏親」か?

氏康長男の実名

北条氏康長男「天用院殿」の実名が「氏親」であるとの仮説を黒田基樹氏が構築しているが、これは『駿河大宅高橋家過去帳一切』のみに依拠している。ところがこの史料は非公開のものらしく、原本の確認がとれていない(新八王子市史通史編2でも出典が黒田氏『伊勢宗瑞』とあり原本確認ができていない)。黒田氏はこの仮説の補強材料として『足利義氏等和歌短冊』に「氏親」の名があるとしているが、これも成立経緯がよく判らない(この史料は栃木県史中世二に収録されている可能性あり)。

更に、この「天用院殿の実名は氏親説」と、その弟に「氏照」がいることを合わせて同氏は、氏康室の瑞渓院殿が、今川義元の正当性を否定し自らの実子が今川家正統であることを訴えるために、息子たちに氏親・氏照の名をつけたと推測している(今川氏親の長男が氏輝)。

「そもそもこの時代に母親が名付け親になっていたのか?」という疑問をとりえずおくとしても、この仮説には時期的な齟齬があるように思う。

先掲過去帳によると天用院殿死亡時年齢は16歳となっているので生年は天文6年。最も若く12歳で元服したとして天文17年。ところが、義元と氏康は天文14年12月には和睦、その後は両者ともに他方面に進軍を開始しており緊張関係は見られない。同じ史料を使ったとしても既にここで大きな疑問が生じる。

そもそも、この政局で氏康は長男に「氏親」と名付けるだろうか? 義元に対して、今川家当主としての正統性に疑義を叩きつけることもあるし、今川家中にいる氏親偏諱の被官を奪うような行動にもなってしまう。氏親の偏諱を受けた被官は多い(文書で確認できるだけでも朝比奈親徳/親孝、岡部親綱、長池親能がいる)。

北条氏照は今川氏輝に関連している?

氏康室が息子に「氏照」と名付けたのが今川氏輝にあやかったというのは更に不可解だ。今川氏輝を「氏照」と書いた高白斎記があるように、「輝=照」なのは当時の当て字風習から理解はできる。ただ、氏照名乗りの初見である1560(永禄3)年10月20日には後北条・今川の同盟は引き続き順調に稼働しており、偏諱の横取りを画策する状況にない(文書で確認できる氏輝偏諱者は、朝比奈輝綱、輝勝、岡部輝忠、四宮輝明、正木輝綱、由比輝満がいる)。ただ、状況としては義元死後ではあり、駿府とほぼ関わりがないだろう氏照の名乗りに対して、それほどの遠慮はしていなかった可能性はある。それよりは、永禄になって他大名への上洛を促したり名馬を所望したりと干渉し始めた足利義輝の方が意識にあったのだろう。義輝が関東国衆へ「輝」を偏諱したとしても、氏照が吸収できる。「照」と字を変えたのはさすがに遠慮があったか。

他の兄弟

他の兄弟を見ても、氏規は義元の元で元服しているが、「氏規=うじのり=氏範」と音が通じているのが象徴的ではある。今川家通字である「範」の当て字を使っている上に仮名も今川当主の「五郎」に繋がる「助五郎」となっている。もしかしたら今川家での元服直後には「助五郎氏範」を名乗っていたのかもしれない(「氏規」表記が出てくるのは永禄6年の『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚書』で、関東衆ではなく三河衆として「北条助五郎氏規、氏康次男」として「松平蔵人元康、三河」の直前に書かれている)。京都から見た氏規は家康と絡んだ存在だったのかも。

氏邦は藤田泰邦に養子入りした関係で「邦」を継いだと思われる。

どちらも、元服時にいた家の事情によって命名されている。

氏康長男の実名の推測

私の仮説では、天用院殿は仮名「新九郎」とともに実名「氏政」を名乗っていて、それを次男が継承したとなる。「氏政」は上杉憲政の偏諱簒奪が目的の政治的な命名なのは、憲政がそれを避けるために「憲当」に改名していることから判る(読み方は同じで字だけ変えている)。

しかし、憲政改名は天文14年5月27日~15年4月22日の間で、氏政の登場とは時期が合わない。これをどう考えるべきか考えていたが、憲政を改名させたのは「氏政の前の氏政」がいたからと考えればすっきりする(親子・兄弟で実名を同じにする例は存在する)。

紛らわしいので、ここより以降は最初の氏政(天用院殿)を氏政1、よく知られている次の氏政を氏政2と記述する。

通説だと氏康婚姻は天文4年とされるが、この年だと氏康が20歳で少々遅い。天文2年頃には娶っていたのではないかと思う。この翌々年に長男が生まれたとすると天文15年に12歳となり、元服は可能。前年12月に成立した三国同盟を受けて元服し「氏政」を名乗った。それを知った憲政が偏諱乗っ取りを嫌って「憲当」に改名した(ただ、憲政を名乗ったりもして不規則に変化する、また長尾当長とされる人物も文書だと「政長」を名乗っていて不明瞭な部分は残る)。

憲当は天文21年5月には本拠地失陥が確実になっているが、その直前の3月に氏政1が18歳で早逝してしまう。そこで次男が元服し氏政2となった(氏政2の生年は諸説あるが最も遅い天文10年だったとしても当時12歳で元服は可能)。

憲政改名に「氏政」の偏諱奪取があったとする仮説を組み立てていたが、上杉が上野国を失った後に氏政が登場してきており、ここは疑問だった。しかし、氏政1の存在を考慮するとすっきりと話が繋がる。

ひとまず、ここまでの仮説を年表風にまとめてみる。

  • 天文14年12月:三国同盟成立
  • 天文15年1月:氏政(天用院殿)元服※12歳だとして天文4年生まれで恐らく婚姻翌年の誕生※氏政誕生は天文7~10年、氏規誕生は天文14年

  • 天文15年:4月26日までは「憲政」、7月5日には「憲当」

  • 天文21年3月:天用院殿死去(天文4年生なら享年18歳、氏政は12~15歳、黄梅院は10歳)
  • 天文23年に氏政婚姻(氏政は14~17歳、黄梅院は12歳)

  • 天文3以前:氏康(大聖寺殿)が氏親娘(瑞渓院殿)を娶る

  • 天文4:氏政1(天用院殿)誕生
  • 天文6:氏繁室(新光院殿)誕生
  • 天文9:氏政2(慈雲院殿)誕生
  • 天文14:氏規(一睡院殿)誕生
  • 天文17:氏真室(蔵春院殿)誕生(1554(天文23)年に6歳で嫁入りし1570(元亀元)年に22歳で長男出産)

※氏照・氏邦・三郎景虎、足利義氏室・太田氏資室・武田勝頼室は母が別か養子の可能性を考慮してひとまず除外