2017/05/09(火)「とにかく一刻も早く帰還せよ!」命令

北条氏文書写に、不気味な文書が遺されている。

「用事がなければ人衆は、夜中であっても早く帰して下さい。返す返すも人衆を在所へ帰して下さい。以上。(追記:返す返すも帰して下さい。返す返すも帰して下さい)」

宛所はなく、差出人も氏政とされているものの、埼玉県史料叢書12では氏邦かと推測している。これは、同じ10月20日付けで氏邦が岡谷隼人に部隊の一部を帰すように命じた文書があったからだと思う。

しかし、謎の文書と氏邦文書には差異があって安直に氏邦とは考え難いようにも思う。

  1. 氏政は「用事がなかったら」と条件は挙げているが細かくは書いていない
  2. 「夜中も」とあって、夜間であっても一刻も早く帰るよう指示している
  3. 本文で2回、追記で2回繰り返して強迫するかのように「帰せ」と書いている

  1. 氏邦は「馬廻衆30名を城の番にして、残りを戻せ」としている
  2. 氏邦が指示した戻り先は「陣場」であって「在所」ではない
  3. 氏邦は「明日」と指示している

上記から考えると、月日は同じであっても、氏邦はごく常識的な指示。氏政が出したと思われている謎の文書はけたたましく叫んでいるような筆致で、むしろ関連があるとは思えない。

では氏政と思われる人物がこのヒステリックな書状を送ったのはいつのことだろうか。兵力を移動させるのではなく、とにかく武装を解除して各部隊を在所に帰還させることが目的で、それは結構特殊だと思う。

思い当たるのは、1569(永禄12)年。

越相同盟の交渉過程で北条氏照は関宿城攻めからなかなか手を引かなかった。「とにかく一刻も早く帰還してくれ」という文面は適している。

5月7日に氏照は柿崎景家・山吉豊守に「同盟成立が起請文で成されれば山王砦を破却して撤退する」と伝えている。そして閏5月5日に簗田晴助は父子が直江景綱・山吉豊守に「昨日山王砦が破却された」と書いている。この撤退劇では、氏康・氏政とは異なり氏照が独断で関宿に留まっていることが考察されていることから、5月20日にこの催促状が出されたとする考え方もできるだろう。

但し、「五」と「十」の誤写は考えづらい。とすれば、「七」の誤写ではないか。

同年7月17日に氏照は輝虎に宛てて「御不審之由」を聞いたと弁明しているが、既に関宿攻囲を解いたこの段階でも輝虎は氏照を警戒し、氏照の動向に気を配っていた。7月20日以前に氏照が何らかの動きをして輝虎から苦情が入り、氏政が慌てて撤退を呼びかけたという考えも可能だと思う。

  • 原文

北条氏政(?)が某に部隊の早急な帰還を命じる

 返々人衆かへり候へく候、返々人衆かへすへく候、
用所なくハ人衆、夜中も早々かへり候へく候、返々人衆さいしよへかへすへく候、
 以上
十月廿日/氏政書判在/宛所欠
埼玉県史料叢書12_付214「北条氏邦ヵ書状写」(北条氏文書写)

北条氏邦が岡谷隼人に、馬廻衆30名以外の帰還を命じる

其方召連候人衆之内、馬廻衆卅召連、其地実城之外張番申付、然与可有之候、残人衆ニ者明日陣場へ可相返候、何分ニも対馬守■■有談合、可被走廻候、以上、
十月廿日/氏邦(花押)/岡谷隼人佐殿
戦国遺文後北条氏編3998「北条氏邦書状」(岡谷文書)