2017/10/04(水)北条氏康の次男―藤菊丸、賀永、氏規―
北条藤菊丸は誰か
1555(弘治元)年11月23日、古河公方足利義氏の元服式が行なわれた『鎌倉公方御社参記次第』(北区史資料編古代中世2-77)。そこには勿論北条氏康の姿があったが、脇に控えた少年も記録されている。
「北条藤菊丸氏康二男、御腰物御手移ニ被下候」
この場所に他の兄弟は(既に元服・妻帯している後継者の氏政すら)いない。北条氏康の次男として、他の兄弟とは別格で登場する「北条藤菊丸」が誰なのかを検討してみよう。
藤菊丸 = 氏照の検証
藤菊丸について、通説では北条氏照だとされてきたが、以下の矛盾点があり不自然だと思われる。
- もう1点の文書で藤菊丸は「北条」を名乗っているが、氏照は「大石源三」として登場し、後に北条に改めている。一貫して北条を名乗る氏規の方が適しているのではないか。
- 関東で藤菊丸の活動がなくなると同時に駿府で氏康次男として「伊豆之若子」賀永が活動を始める。
- 御相伴衆として名が載っているのは、氏政と氏規のみ。
- 天正11年に酒井政辰は氏照を「奥州様」氏規を「美濃守殿様」と繰り返し呼んでおり、家中でも氏規の方が格が上である。
氏照を藤菊丸に比定する根拠としては、藤菊丸の名がある棟札が座間郷にあり、ここは役帳で大石氏の知行されている点、藤菊丸の初出が足利義氏元服式だったことと、後年氏照が義氏被官を指南した点、主にこの2点からだと思う。しかし、この論拠は充分な比定要件にはならないかも知れない。
岩付太田氏を巡って、源五郎と氏房が同一人物と思われていた理由が、岩付に入ったこと・氏政の息子だったことというお大雑把な共通点からの憶測でしかなく、史料の考察が進んだ昨今では、「氏房は当初より十郎を名乗り、一貫していること」「氏直(国王丸)・源五郎(国増丸)の他に菊王丸がおり、これが氏房に比定できること」から、源五郎と氏房は別人であるという比定に切り替わった。
以上から、座間郷・義氏の関係を氏照が濃厚に持ったとして、それは藤菊丸の後継位置に入っただけということであり、後世の系譜諸記録に幻惑されている可能性がある。
藤菊丸 = 賀永の検証
改めて史料を読んでみる。
後北条氏は、「菊寿丸=宗哲」「菊王丸=氏房」というように、幼名に「菊」を冠することがある。但し「藤菊丸」は「菊」の前に「藤」を戴いている点で特異である。藤原を称している氏族で関東において最も巨大な存在は上杉氏だ。氏康は、藤菊丸を関東管領の後継者にしようと考えていたのではないか。であるなら、義氏元服式に後北条の跡取りを入れず、藤菊丸だけを出席させたのは、公方の梅千代王丸に管領の藤菊丸を配するという構想があったからではないか。
藤菊丸が上杉を継承した場合に、それを「大石」として補助する予定で、源三氏照・左馬助憲秀が控えていたのかも知れない。でなければこの2人が「大石」を称した理由が判らなくなる。
ところが、藤菊丸はそのまま姿を消す。
そしてその年の10月、駿府を訪れた山科言継は北条氏康次男「賀永」という少年と出会う。氏康次男という出自や年齢からこの2人が同一人物であるのはほぼ確実だと思う。
それにしても、氏康はなぜ急に方針転換したのだろうか。
1556(弘治2)年1~4月、氏康は東への外征が顕著で、同じく今川義元も西に進んでいた。義元の息子である氏真は既に氏康の娘婿ではあったが、氏康が織田信秀に書いたように「近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候」という状況もあり、氏康はそちらの関係強化を狙ったのではないか。
その背景には、氏康の身内である晴氏室(芳春院)すら動向が定かではない古河公方周辺に対して「しばらくほとぼりを冷まそう」という狙いもあったかも知れない。ただ何れにせよ「急遽今川に渡す」という背景は史料から直接読み取れないから、ここはもっと論拠がほしいところ。
藤菊丸が消えた後、永禄4年に「大石左馬助」として名が出た憲秀はやがて松田に復するが、氏照は大石名乗りを続け、藤菊丸が治める予定だった座間領も統治する。もしかすると、氏照固有の「如意成就」の朱印も当初は藤菊丸に用意されていたのかも知れない。
賀永 = 氏規の検証
言継卿記で登場する賀永は「ガイエイ」とも呼ばれ、音読みであることが確定している。彼は北条氏康次男と書かれているから、氏規・氏照・氏邦のうちの誰かだろうと判る(氏政は既に元服しているため)。この3人の弘治2~3年の動向は不明だが、年未詳の今川義元書状で「手習いをしないと、小田原の兄弟衆に負けてしまうぞ」という文面が「助五郎」宛てに出されている点、助五郎は氏規の仮名である点から、賀永と助五郎、氏規は同一人物であると断定可能だと思う。
音読み「賀永」という名が何を意味していたかは不明。和歌を詠む際の号か何かを、寿桂が殊更呼んでいたのかも知れない。
藤菊丸 = 賀永 = 氏規と仮定しての年齢確認
氏規が系譜にある1545(天文14)年生まれだと一旦仮定して、藤菊丸、賀永の記録と突き合わせてみる。
- 11歳 弘治元年11月23日 北条藤菊丸氏康二男(鎌倉公方御社参記次第)
- 12歳 弘治2年5月2日 大旦那北条藤菊丸(座間鈴鹿明神棟札)
- 12歳 弘治2年10月2日 大方の孫相州北条次男也(言継卿記)
- 12歳 弘治2年12月18日 伊豆之若子祝言(言継卿記)
- 19歳 永禄6年5月 北条助五郎氏規、氏康次男(永禄六年諸役人附)
上記から、同一人物であっても時系列上問題はない。
本来であれば、初出の文書がいつかによって更に裏付けを得たいところだが、氏規の初出発給文書は意外と遅く、1565(永禄8)年1月28日に21歳で朱印状、1577(天正5)年4月17日に33歳で「左馬助氏規」を出していて元服時期の参考にならない。これは駿河にいた時期に後北条分国から切り離されていた可能性を窺わせる。因縁のある松田憲秀も初出はかなり遅いので、当主以外の政権中枢は発給時期が極めて遅い可能性がある。
氏規の息子である氏盛も1589(天正17)年12月に氏直から「氏」を貰って元服したとみられ、家譜の生年1577(天正5)年が正しいとするなら、13歳の年末に元服している。
4兄弟の生年を検討
12~13歳の年末に元服という前提で他の兄弟の生年を検討してみる。
氏政
系譜では天文7年生まれとされるが、同時代史料の『顕如上人貝塚御座所日記』見返しにある年齢から逆算すると天文10年生まれという仮説が妥当だろう。
氏政は天文23年6月以前には元服して「新九郎氏政」となっている(同年12月に婚姻)。
元服が天文22年12月と考えれば、天文10年説では13歳で不自然なところはない。一方で、系譜類の天文7年説では17歳となってしまい、結構遅い印象がある。
氏邦
天文13年という仮説が浅倉直美氏によって出されている。但し氏邦の場合、越後勢乱入の最中に対応を強いられたという経緯があり、ここからの検討も必要だと思う。
永禄4年9月8日~5年10月10日まで「乙千代」名で花押を据える。幼名で花押を据えている珍しい例。元服して仮名を持ちながらも手習いをしていた喜平次・助五郎との比較も必要かも知れない。
1544(天文13)年生まれであれば、1561(永禄4)年では18歳となり元服していないのは奇妙だ。
その後の1564(永禄7)年正月に「氏邦」を名乗り、この年の6月18日には朱印状を発給しているから、1563(永禄6)年12月に元服したと考えると自然だ。氏規・氏盛の例に当てはめると1551~1552(天文20~21)年となる。
もう少し遡るならば、1560(永禄3)年12月に13歳で元服予定だったとすると、1548(天文17)年生まれとなる。
氏照
生年は3説ある。
天文9年(寛政譜)・天文10年(小田原編年録)・天文11年(宗閑寺記録)
ただ、前の2説では氏政より年長になってしまうし、何れも後年の編著でしかない。『北条氏康の子供たち』で黒田基樹氏が、氏政・氏直の生年を記載した同時代史料『顕如上人貝塚御座所日記』を紹介しながら、他の一族の生年と合わなくなると、一旦戻したのもこの点が要因になっている。
とりあえず、専門家ではないので野蛮に切り進んでいくこととする。
初出発給文書から、氏邦と同様の手法で追ってみる。
- 永禄2年11月10日付けで朱印状「如意成就」奉者:布施・横地
- 永禄4年3月3日付けで判物「大石源三氏照」
文書の残存状況が不明だから、念のため1558(永禄元)年12月に13歳で元服、その後手習いをしつつ1561(永禄4)年には16歳で自著・花押を据えたと想定してみる。
他の史料とも整合されるし、氏邦の生年比定とも揃えられる。この場合、氏照の生年は1546(天文15)年となる。
まとめ
生年を整理してみよう。氏規も13歳元服だったと統一して考えてみる。
- 氏政 1541(天文10)年
- 氏規 1544(天文13)年
- 氏照 1546(天文15)年
- 氏邦 1548(天文17)年
この年齢差を見てから、今川義元が助五郎の宛てた有名な書状を読んでみると、「兄弟衆様躰長敷御入」が異なって感じられて面白い。
- 戦国遺文今川氏編1532「今川義元書状」(喜連川文書)
猶ゝ文御うれしく候、あかり候、いよゝゝ手習あるへく候、二三日のうち爰を立候へく候間、廿日此は参候へく候、かミへも此由御ことつて申候、何事も見参にて可申候、かしく、 文給候、珍敷見まいらせ候、此間小田原にてみなゝゝいつれも見参申候、けなりけに御入候、可御安心候、それのうはさ申候、春ハ御出候ハん由候間、万御たしなミ候へく候、いつれも兄弟衆様躰長敷御入候、見かきられてハさんゝゝの事にてあるへく候、
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:助五郎殿 御返事 義元)
お手紙いただきました。珍しくて見せて回りました。今回は小田原のみなさん全員とお会いしました。お元気そうですから、ご安心下さい。あなたの噂をしました。春にはお出でになるそうですから、何でも頑張っておかないといけません。どの兄弟衆も大人っぽく見えました。見限られてしまっては、散々な目に会うでしょう。
さらにさらに、お手紙嬉しいです。上手になりました。どんどん手習いなさいますように。2~3日のうちにここを立ちますから、20日ころにいらっしゃい。『かみ』にも、このことを伝えてあります。いろいろと会ってお話しましょう。かしこ。
2017/10/01(日)織田信長の礼状から見た贈呈物
『増訂織田信長文書の研究』より、織田信長が贈呈品への礼状を送ったものを列挙。
贈答物 | 目的 | 献上者 | 年 | 月日 | 文書番号 |
---|---|---|---|---|---|
竹十本 | 音問 | 浅井源五郎 | 1552(天文21)年 | 07月28日 | 5 |
鯉 | 改年祝儀 | 徳川三河守 | 1569(永禄12)年 | 02月04日 | 補遺014 |
弟鷹二連[山廻・青] | 音問 | 上杉弾正少弼 | 1569(永禄12)年 | 10月22日 | 201 |
帷二 | 端午節句 | 永原伊豆守 | 1570(元亀元)年 | 05月03日 | 229 |
折一、帷二、たひ一足 | 見舞 | 小松寺 | 1570(元亀元)年 | 06月12日 | 235 |
太刀・馬 | 音問 | 波多野右衛門大夫 | 1570(元亀元)年 | 11月24日 | 258 |
尊牘二巻 | 音問 | 大覚寺 | 1573(天正元)年 | 09月07日 | 405 |
沈香一包 | 陣中見舞 | 妙智院 | 1573(天正元)年 | 09月08日 | 406 |
祈祷巻数、菓子一籠 | 音問 | 松尾左衛門佐 | 1574(天正2)年 | 04月09日 | 449 |
鼓之革大小[若松]二懸 | 音問 | 高田専修寺 | 1574(天正2)年 | 07月20日 | 458 |
沈香一両 | 陣中見舞 | 狛左馬進 | 1575(天正3)年 | 08月13日 | 530 |
祈祷巻数、弓懸五具 | 陣中見舞 | 青蓮院 | 1575(天正3)年 | 09月03日 | 537 |
作薫物、唐墨 | 陣中見舞 | 勧修寺大納言 | 1575(天正3)年 | 09月18日 | 546 |
馬一疋[黒毛] | 音問 | 遠藤内匠助 | 1575(天正3)年 | 10月25日 | 572 |
太刀一腰、馬一疋 | 昇進祝儀 | 小早川左衛門佐 | 1576(天正4)年 | 01月17日 | 621 |
太刀一腰、馬一疋、板物三端 | 改年祝儀 | 別所小三郎 | 1576(天正4)年 | 01月28日 | 622 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 小早川左衛門佐 | 1576(天正4)年 | 03月30日 | 631 |
十六島海苔一折 | 移城祝儀 | 慈照寺 | 1576(天正4)年 | 04月02日 | 633 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 小早川左衛門佐 | 1576(天正4)年 | 04月05日 | 632 |
饅頭一折 | 音問 | 越智玄蕃 | 1576(天正4)年 | 05月18日 | 補遺091 |
瓜十籠 | 普請見舞 | 稲葉伊予守 | 1576(天正4)年 | 07月21日 | 652 |
帷二[生絹] | 八朔祝儀 | 長岡兵部大輔 | 1576(天正4)年 | 07月29日 | 655 |
太刀一腰、馬一疋 | 上洛使者 | 赤松孫三郎 | 1576(天正4)年 | 11月10日 | 671 |
帳一折 | 音問 | 松田豊前守 | 1577(天正5)年 | 02月26日 | 補遺183 |
枝柿之折 | 陣中見舞 | 立政寺 | 1577(天正5)年 | 02月28日 | 687 |
両種 | 陣中見舞 | 水野監物 | 1577(天正5)年 | 03月08日 | 689 |
祈祷巻数、房鞦二懸 | 陣中見舞 | 賀茂社 | 1577(天正5)年 | 03月20日 | 703 |
太刀一腰[代金壱両] | 陣中見舞 | 水越左馬助 | 1577(天正5)年 | 05月07日 | 735 |
弟鷹十連 | 音問 | 下国(秋田愛季) | 1577(天正5)年 | 06月01日 | 718 |
帷十、蝋燭一箱、塩引五 | 音問 | 斎藤次郎右衛門尉 | 1578(天正6)年 | 06月23日 | 782 |
弓懸二具 | 陣中見舞 | 青蓮院 | 1578(天正6)年 | 11月14日 | 793 |
小袖一重 | 陣中見舞 | 法隆寺東寺 | 1578(天正6)年 | 12月19日 | 802 |
塩引十 | 改年祝儀 | 長九郎左衛門尉 | 1579(天正7)年 | 01月19日 | 809 |
巻数、板物[薄] | 改年祝儀 | 賀茂社 | 1579(天正7)年 | 02月14日 | 812 |
筒服 | 上洛祝儀 | 法隆寺東寺 | 1579(天正7)年 | 02月26日 | 814 |
祈祷之巻数、菓子一合、房鞦二懸 | 陣中見舞 | 賀茂社 | 1579(天正7)年 | 03月25日 | 819 |
泥障(あおり)二懸 | 帰陣祝儀 | 佐久間玄蕃 | 1579(天正7)年 | 05月07日 | 827 |
刀一腰[貞宗] | 音問 | 長孝恩寺(長好連) | 1579(天正7)年 | 05月12日 | 828 |
金子一枚、木綿二端 | 音問 | 法隆寺東寺 | 1579(天正7)年 | 10月17日 | 842 |
小袖、黄金十両 | 音問 | 薬師寺 | 1579(天正7)年 | 10月23日 | 824 |
金子二枚 | 音問 | 薬師寺 | 1579(天正7)年 | 11月14日 | 825 |
太刀一腰、銀子千両 | 祝儀 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 07月02日 | 876 |
虎革三枚、氈一 | 音問 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 08月02日 | 883 |
三幅一対絵[宗徽筆] | 音問 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 08月16日 | 888 |
小袖、袷肩衣、袴 | 重陽祝儀 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 09月08日 | 896 |
蜜柑五籠 | 音問 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 10月24日 | 901 |
蚪(どぶがい)二籠 | 音問 | 箸尾宮内少輔 | 1580(天正8)年 | 11月27日 | 904 |
伊予鶏五居 | 音問 | 長宗我部宮内少輔 | 1580(天正8)年 | 12月25日 | 906 |
綿卅把 | 歳末祝儀 | 温井景隆・三宅長盛 | 1580(天正8)年 | 12月25日 | 907 |
五種・五荷 | 歳末祝儀 | 本願寺 | 1580(天正8)年 | 12月29日 | 908 |
銀子百両、鰤三 | 改年祝儀 | 温井景隆・三宅長盛 | 1581(天正9)年 | 01月01日 | 909 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 宛所不明 | 1581(天正9)年 | 01月02日 | 910 |
両種、一荷 | 音問 | 金剛寺 | 1581(天正9)年 | 06月22日 | 921 |
肩衣房十、鯖鮨三百 | 音問 | 長九郎左衛門尉 | 1581(天正9)年 | 07月18日 | 931 |
帷二、袷一 | 八朔祝儀 | 長岡兵部大輔 | 1581(天正9)年 | 07月28日 | 935 |
樽一荷 | 音問 | 金剛寺 | 1581(天正9)年 | 07月29日 | 922 |
樽 | 音問 | 金剛寺 | 1581(天正9)年 | 09月14日 | 923 |
馬一疋 | 音問 | 長沼山城守(皆川広照) | 1581(天正9)年 | 10月29日 | 959 |
弓懸二具、一折 | 陣中見舞 | 久我大納言 | 1582(天正10)年 | 03月25日 | 979 |
一折 | 陣中見舞 | 等持院 | 1582(天正10)年 | 03月28日 | 981 |
革袖物十 | 音問 | 上京中 | 1582(天正10)年 | 04月04日 | 1004 |
巻数、弓懸二具 | 陣中見舞 | 理性院 | 1582(天正10)年 | 04月04日 | 1005 |
馬一疋[葦毛] | 音問 | 佐奈田弾正 | 1582(天正10)年 | 04月08日 | 1007 |
祈祷之巻数、両種 | 陣中見舞 | 梶井 | 1582(天正10)年 | 04月10日 | 1009 |
扇子 | 陣中見舞 | 青蓮院 | 1582(天正10)年 | 04月10日 | 1010 |
祈祷之祓、太麻、熨斗鮑三折 | 陣中見舞 | 伊勢慶光院 | 1582(天正10)年 | 04月15日 | 1012 |
帷二 | 陣中見舞 | 前田又左衛門尉 | 1582(天正10)年 | 04月17日 | 1014 |
太刀一腰、銀子三百両、端午帳五、肩衣袴 | 戦勝祝儀 | 本願寺 | 1582(天正10)年 | 04月25日 | 1016 |
白布二端 | 戦勝祝儀 | 長九郎左衛門尉 | 1582(天正10)年 | 05月20日 | 1054 |
生白鳥 | 音問 | 不明 | 年未詳 | 01月03日 | 補遺238 |
菱籠二、馬滑二掛 | 改年祝儀 | 明眼寺 | 年未詳 | 01月05日 | 1056 |
菱籠、馬腐 | 改年祝儀 | 明眼寺 | 年未詳 | 01月15日 | 1059 |
菱籠一、馬滑二掛 | 改年祝儀 | 不明 | 年未詳 | 01月15日 | 1060 |
鯨一折 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 01月16日 | 690 |
祈祷巻数、縮羅二端 | 改年祝儀 | 賀茂社 | 年未詳 | 01月17日 | 1061 |
一万度祓太麻、生鮑五十 | 改年祝儀 | 北監物大夫 | 年未詳 | 01月20日 | 1062 |
縮羅二端 | 改年祝儀 | 加茂社 | 年未詳 | 01月24日 | 1065 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 関安芸守 | 年未詳 | 01月28日 | 1066 |
〓(糸+習)二端 | 改年祝儀 | 賀茂社 | 年未詳 | 02月11日 | 1069 |
鼓之革二十 | 音問 | 溝江■■ | 年未詳 | 02月16日 | 1071 |
唐錦一巻 | 音問 | 長岡与一郎 | 年未詳 | 02月17日 | 1072 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 伊勢大神宮御師村山大夫 | 年未詳 | 03月04日 | 1074 |
合雑一桶 | 音問 | 箸尾宮内少輔 | 年未詳 | 03月22日 | 1076 |
両種、一荷[天野] | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 04月04日 | 691 |
帷五、鮎漬二 | 音問 | 中川■■ | 年未詳 | 04月14日 | 1078 |
帷二 | 端午祝儀 | 長岡兵部大輔 | 年未詳 | 05月03日 | 1082 |
帷二 | 端午祝儀 | 不明 | 年未詳 | 05月03日 | 1083 |
帷二 | 端午祝儀 | 長岡兵部大輔 | 年未詳 | 05月04日 | 1084 |
帷二 | 端午祝儀 | 長岡兵部大輔 | 年未詳 | 05月04日 | 1085 |
帷二 | 端午祝儀 | 不明 | 年未詳 | 05月04日 | 1086 |
両種 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 05月06日 | 692 |
帷二 | 端午祝儀 | 不明 | 年未詳 | 05月06日 | 1087 |
瓜一折 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 05月24日 | 693 |
瓜十 | 初物 | 三好孫九郎 | 年未詳 | 06月02日 | 補遺240 |
背腸五桶 | 音問 | 千福遠江守 | 年未詳 | 06月07日 | 1091 |
糒十五袋 | 音問 | 楢原右衛門尉 | 年未詳 | 06月20日 | 1093 |
鰹百 | 音問 | 高木権右衛門尉 | 年未詳 | 07月02日 | 1095 |
帷三 | 音問 | 長岡兵部大輔 | 年未詳 | 07月06日 | 1096 |
馬一疋[白雲雀] | 音問 | 白鳥 | 年未詳 | 07月15日 | 1098 |
木綿五端 | 音問 | 祐福寺 | 年未詳 | 08月19日 | 1101 |
小袖一 | 重陽祝儀 | 河嶋市介 | 年未詳 | 09月08日 | 1103 |
小袖一重 | 重陽祝儀 | 長岡兵部大輔 | 年未詳 | 09月09日 | 1104 |
雁二 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 09月17日 | 694 |
両種、一荷 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 09月20日 | 695 |
海鼠腸二桶、鯛十 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 10月26日 | 696 |
料紙五十帖 | 音問 | 立政寺 | 年未詳 | 10月26日 | 1108 |
火筋(火箸) | 音問 | 黒谷上人 | 年未詳 | 11月26日 | 補遺244 |
弟鷹一居 | 音問 | 村上掃部頭 | 年未詳 | 11月26日 | 1110 |
赤貝一折 | 音問 | 水野監物 | 年未詳 | 12月16日 | 697 |
白魚一折、鱸十 | 音問 | 不明 | 年未詳 | 12月24日 | 1115 |
漆一桶・蝋燭一箱、塩引五 | 音問 | 斎藤次郎右衛門尉 | 年未詳 | 12月27日 | 783 |
太刀一腰、馬一疋 | 改年祝儀 | 不明 | 年未詳 | 月日未詳 | 補遺237 |
一折 | 音問 | 九条 | 年未詳 | 月日未詳 | 補遺245 |
弓懸三具 | 改年祝儀 | 不明 | 年未詳 | 月日未詳 | 1116 |
2017/09/26(火)小田原評定とは何か
『小田原評定』という慣用句の始まり
『小田原評定』(小和田哲男・名著出版小田原文庫)では、通説での意味「まとまらない会議」としての使い方は『関八州古戦録』が最古とする。1726(享保11)年成立のこの本が初出ということは、後北条氏の活躍時期とはかなり隔たりがある。
- 「其比関東ノ俚俗、果敢ゝゝシカラス評議ヲ小田原談合ト云触シテ、今ノ世ニテ、常談ニ伝へ、此時ニ起レル事ナリトソ」
この段階では「小田原談合」としているが、その後の『松屋筆記』では「小田原評定」・「小田原評諚」と変更している。松屋筆記は小山田与清(1783~1847年)の著作なので、100年足らずで言葉が変わってきている。これは後でまとめてみる。
同書のp17には興味深い情報が掲載されていた。
現在なお、小田原地方では「小田原の相談はまとまらず、久野の寄合はなりたたない」、あるいは「小田原評定・久野寄合は、まとまりそうでまとまらぬ」といった俚揺として生き続いている。(中略)立木望隆氏は、久野に「七軒屋敷」という地名のあるところから、そこには、幻庵の家臣七人が住み、寄合衆として「久野寄合」なるものを構成していたのではないかと推定されている。
これはむしろ、一旦全国的な文化の中に取りこまれた後で地元に逆輸入されたのではと思う。古態のまま継承されたならば、「評定」「寄合」は使われていない筈だからだ。
ということで、言葉の使い方をちょっと深く掘ってみようと思う。
戦国期の合議はどのような言葉で表現されたか
そもそも考えてみると、「評定」という言葉は同時代史料で余り見かけない。試しに自前のデータで検索してみると、「評定衆」が自らの名乗りで使っているものを除くと1点しかなかった。
- 評定「縦豊前守雖有訴訟、一切不可及評定」茨木県立歴史館史料叢書20p255
これは今川氏真が岩瀬彦三郎に出した判物写で、他例が圧倒的に「不可有許容」なのを考えると、「及評定」の部分は誤翻刻・誤写ではないかと思わざるを得ない。
では「寄合」はどうかというと、こちらも当時との意味が違う。戦国期には「寄せ集め」とまではいかないが、その案件用に編成された集団を意味しているようだ。昭和ぐらいまでは使われていた「寄り合い=合議」を想起してしまうが、それは当時の言い方ではない。
寄合
- 「是者寄合衆之番所ニ候」戦北1181
- 「其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候」岐阜県史資料編古代・中世4_p0864
- 「船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事」戦北2758
では当時どう言っていたのかというと、談合や相談が該当する。3人以上で会議のような場と思われる例だけ抜き出してみた。
談合
- 「各遂談合」戦武642
- 「各有談合」群馬県史資料編3_2184
- 「百姓有談合」戦北3772
- 「出馬可遂一戦之旨談合議定候処」戦武902
- 「久能之当在城衆可有談合之事」戦武1396
- 「長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合」戦武2155
- 「信州衆・箕輪在城之衆以談合鉢形へ相働」埼玉県史料叢書12_0544
- 「本郷の町人とも致談合」戦北2273
- 「町人中致談合」戦北2543
- 「右之郷中有談合」静岡県史資料編8_1745
- 「其上之行者於陣中可談合申候」戦北3872
相談
- 「各被相談一途遂本意候者快然候」戦今638
- 「兄弟八人相談」戦今1113
- 「由木上下之強人相談」戦北662
- 「退衆相談」岐阜県史資料編古代・中世補遺p356
- 「諸家中各ゝ相談」戦古860
- 「但乱後間、代官・領主・百姓相談」戦北724
- 「庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談」埼玉県史料叢書12_0322
- 「各一味ニ被相談簡要候」戦北1244
- 「各相談可走廻候」戦北1212
- 「身類中并寄親令相談」戦北1598
- 「各味方中相談」戦北1660
- 「各可相談候」戦北1923
- 「各被相談」埼玉県史料叢書12_054
- 「今度猿ヶ京衆相談」戦北2163
- 「各相談」戦北2119
- 「高野・根来・其元之衆被相談」証言本能寺の変第4章13
- 「治部少輔同心・被官相談」戦北2365
- 「郷中百姓其外給衆相談」戦北3105
- 「縦憐郷・他郷之百姓と成共相談」戦北3602
- 「御門徒中有相談」戦武713
- 「各令相談」増訂織田信長文書の研究969
まとめ
上記からすると『小田原評定』も『久野寄合』も戦国期の言葉として奇妙で、小田原評定は存在が危うく、久野寄合は別の意味(久野に暫定集合した人たち)となってしまう。「相談」は問題がないが、それに次いで他出する「談合」が出てこないという点から、言葉の成立がいつぐらいかの推測はできそうだ。
合議の語彙として「相談」が生き残りつつ、「談合」は外れてしまい、新たに「寄合・評定」が入ってきた時期。恐らく近世だろう。
小田原に加えて久野が出てくるとなると、早川用水・荻窪用水を巡る利権調整が難航したことを指すようにも見えてくるが、これ以上は近世に詳しくないため判断できない。
史料で出てきた『小田原評定』的な北条氏政の発言
巷間に出回った『小田原評定』は天正18年の小田原攻め直前に設定されているのだけど、実はその8年前に印象的な文書がある。
天正10年に北条氏政が奔走している時のもので、この時は武田滅亡に際して正規の情報が全く入ってこなくて焦っていた。終日談合しているとしながら、西上野・甲斐・駿河のどこから攻め込むかは不明だがとにかく出陣の準備を急げと指示している。この文書の方がよほど『小田原評定』に近いような感じ。
- 戦国遺文後北条氏編2311「北条氏政書状」(三上文書)
幸便之間申候、信州模様必然之儀者、昨日自是申候キ、今日者終日及談合候、動之様子無落着候、先早ゝ多波川迄諸口之人数可打着由、立早飛脚候、其内遂工夫、西上州へ成共、甲州表へ成共、駿州表へ成共、可有行迄候、猶ゝ急速ニ御用意専一候、当方弓矢此時候、恐ゝ謹言、
二月廿日/氏政(花押)/安房守殿
幸いな便があったのでお伝えします。信濃国の状況(武田家滅亡)は必然であること、昨日こちらから申しました。今日は終日談合していました。作戦の内容は定まりません。まずは早々に多摩川まで諸口の部隊を徴集させるとのことで、早飛脚を立てました。その内に段取りにつけて、西上野国なり、甲斐方面なり、駿河方面なりに動員があるでしょう。なお、急速にご用意なさるの大切です。我々の勝負が決するのはまさにこの時です。