2018/03/01(木)小田原陣中での秀吉の健康状態
概要
羽柴秀吉は小田原在陣中に健康不安を抱えていたのではないか、と推測してみたのでちょっとまとめ。
4月9日段階で秀吉は「京都女共」を呼び寄せる算段を巡らしているが、淀の方が難色を示したらしく、この時点で実現はしていない。
その後、母や妻に宛てた書状で自身の健康に問題はないと書き加えているが、これは逆に母・妻から懸念されていたことの裏返しだと思われる。くどく書いているのは自身がきちんと食べているということなので、慢性的な食欲不振が出征前から見られ、母と妻が気にしていたのだろう。
4月13日になると、妻の政所に対して、淀の方が小田原に行くよう説得してほしいと依頼。他の大名にも妻を呼ぶように伝えているからと、自らの正当性を主張しているものの、他の各氏が女性を下向させたという史料はない。
そして5月8日、慌てたように淀の方を呼び寄せようとしている。この際に、なぜか医師の一鴎軒も同行するように求めている。一鴎軒に対しては、出先であっても緊急で帰宅し、同行せよという強硬なものだった。
一鴎軒・淀の方の来訪が奏功したのか、5月14日に政所に宛てた書状では自身の健康については語っておらず、その後も見られない。症状が安定したのかも知れない。
出征当初から軍中に医師は随行していただろうし、投薬体制も整っていただろう。慢性的な食欲不振を家族が心配したのは、大袈裟な反応だった可能性もある。そうした諸々の健康不安を払しょくするため、淀の方を呼んで自身の性欲を誇示しようとしたのかも知れない。
しかし、余りにも急で深刻な呼び寄せを行なった点、一鴎軒随行を強く求めた点、二人が到着すると言及がなくなる点から見て、何らかの治癒効果を期待して呼び、そして実際に効果があったという方が史料に添うようにも思える。
※ちなみに一鴎軒は、羽柴・後北条間の取次役を妙音院と共に行なっていた。但し、沼田受け取りの際は妙音院だけが登場すること、妙音院単独での連絡があったこと、秀吉が氏直を弾劾した際に糾弾しているのは妙音院だけであること、家忠日記に開戦直前に妙磔刑になったのは「明王院」と書かれていることから、一鴎軒は副次的な役割で処罰は逃れたと思われる。ただそれにしても謹慎はしていたのではないか。その一鴎軒に淀の方供奉を命じるのは妙な感じがする。
関連史料
4月9日 京都から女性を呼び寄せる件について、清須の小早川隆景に清須~岡崎間の人夫・伝馬の準備を命じる。連絡は一柳・山口・草野から届くとしている。
従京都女共可罷下候、然者日限之儀、一柳越後・山口玄蕃頭・草野次郎右衛門尉両三人迄より左右可申候間、人足三百人并伝馬廿疋入候条、其地留守居ニ申渡間、留守居迄より其元隣郷人夫・伝馬申付させ、清州より岡崎まて可被送届候、まかなひをも留守居被申付候て、さうの如く用意させ可申候也、
卯月九日/(羽柴秀吉朱印影)/きよす羽柴筑前侍従とのへ
- 豊臣秀吉文書集3023「羽柴秀吉朱印状写」(松涛棹筆・徳川林政史研究所)
4月10日 母親に返信した内容に「体調もよく、いつもより多く食べているので安心してほしい」とある。
去二日文、今日十日におた原面にて見まいらせ候、此面の事、さいせんにも申まいらせ候ことく、おたはら三丁四ちやうにとりまき、堀をほり、へい・さくをつけ候により、城の内正躰なく候て、八日の夜も下野国水な川山城守と申者百はかりめしつれ、命をたすけ候やうにと申上、はしり入候、是ハまつ御馬・太刀をもおさめられ候者に候事にて候へハ、命をたすけ候て、家中へつかはし候間、はうてう事ハ、はや取こめにておき候まゝ、ゆるゝゝとほしころしニ被仰付候ハんと思召候、少もきつかひ候ましく候、きやいもよく、御せんもいつよりよくまいらせ候まゝ、御心やすかるへく候、返々此表之事、城のうちゑほう条おひこめ候て、鳥のかよひもなき様に申つけ候まゝ、いさゝか御きつかいあるましく候、大納言煩よく候て、よろこひまいらせ候、なをめてたき事、追々申まいらせ候へく候、
卯月十日/御朱印うつし/大政所さままいる
- 豊臣秀吉文書集3024「羽柴秀吉朱印状写」(五島美術館)
4月13日 妻に「灸を据えていて健康に気を遣っているから安心してほしい」と伝える。また、長陣となることから大名に「女房を小田原に呼ぶように」と通達したこと、このことから「よとの物」が小田原に行くことを妻からも説得してほしいと依頼。
さいゝゝ人給候、御うれしく候、小たわら二三てうニとりまき、ほり・へいふたへふけ、一人もてき出し候ハす候、ことにはんとう八こくの物ともこもり候間、小たわらをひころしニいたし候へ者、大しゆまてひまあき候間、まんそく申ニおよはす候、二ほん三ふん一ほと候まゝ、このときかたくとしをとり候ても申つけ、ゆくゝゝまても、てんかの御ためよきようニいたし候ハんまゝ、このたひてからのほとをふるい、なかちんをいたし、ひやうろ又ハきんゝゝをも出し、にちさきなののこり候やうニいし候て、かいちん可申候間、其心ゑあるへく候、此よしミなゝゝへも申きかせ候へく候、かしく。返々はやゝゝてきをとりかこへいれ候ておき候間、あふなき事ハこれなく候まゝ、心やすく候へく候、わかきミこいしく候へとも、ゆくゝゝのため、又ハてんかおたやかに申つく可候と存候へ者、我等もやいとうまていたし、ミのようしやう候まゝ、きつかい候ましく候、おのゝゝへも申ふれ、大めうともニにうほうをよはせ、小たわらニありつき候へと申ふれ、ミきとうゝゝりのことくニ、なかちんを申つけ候まゝ、いよゝゝ申つかわせ候て、まへかとによをいさせ候へく候、其もにつゝき候てハ、よとの物我等のきにあい候ようニ、こまかにつかれ候まゝ、心やすくめしよせ候よし、よとへも其もしより申やり、人をつかわせ候へく候、我等としをとり可申候とも、としの内ニ一とうハ其方へ参候て、大まんところ又ハわかきミをもミ可申候まゝ、御心やすく候へく候、
四月十三日/差出人欠/宛所欠(上書:五さ 返事 てんか)
- 豊臣秀吉文書集3029「羽柴秀吉自筆書状」(高台寺文書)
5月1日 母親に「すこぶる健康で食事もとっているので安心してほしい」と伝える。
さいゝゝ文給候、御うれしく候、こなたの事あんしなされましく候、いよゝゝ小たわらかたくとりまかせ候ニより、はやゝゝくにゝゝ十の物八つほと申つけ候て、百せうともまてめし出し、ゆゝと申つけ候、小たわらの事ハくわんとう・ひのもとまてのおきめにて候まゝ、ほしころしニ申つく可候間、としをとり可申候、たゝしわかミハそもしさま、又ハわかきミミまいなから、としの内参候て、御めにかゝり可申候、御心やすく候へく候、かしく。かへすゝゝわかミ事御あんしなされましく候、一たんとそくさいにて、五せんもあかり候まゝ、御心やすく候へく候、そもしさま御ゆさん候て、きをもなくさミ、わかく御なり候て可給候、たのミ申候、又大なんこそくさいのよし、なによりゝゝ御うれしく候、いよゝゝようせうせんにて候よし、御申候へく候、以上、
五月一日/てんか/大まんところ殿さま
- 豊臣秀吉文書集3190「羽柴秀吉自筆書状」(妙法院文書)
5月7日 吉川広家・小早川隆景に「淀之女房衆」が関東に下向する件で新庄駿河守・稲田清蔵を派遣したことを告げ、彼らの指示に従うよう指示。また、稲田清蔵は火急の用件での派遣なので継ぎ馬を用意するように命ずる。
淀之女房衆召下候付而、為迎稲田清蔵差越候、然者下向之日限、重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守・稲田清蔵左右次第、伝馬夫令用意相待、早速可送付候、次泊々賄等儀、清蔵可申渡候間、馳走可悦思召候、猶以路次無滞様、可入精事肝要也。追而申候、いなた清蔵火急ニ遣之候、つき馬を以可送之候、不可有由断、以上、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/吉川侍従とのへ
- 豊臣秀吉文書集3198「羽柴秀吉朱印状」(吉川家什書・東大史影写)
淀之女房衆召下付而、為迎稲田清蔵差越候、然者下向之日限、重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守・稲田清蔵左右次第、伝馬夫令用意相待、早速可送付候、次泊之賄等儀、清蔵可申渡候間、馳走可悦思召候、猶以路次無滞様、可入精事肝要也。追而申候、いなた清蔵事、火急ニ遣之候、つき馬を以可送之候、不可有由断、次清蔵馬其方ニ可置之条、よく申付可飼候、以上、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/清須小早川侍従とのへ
- 豊臣秀吉文書集3199「羽柴秀吉朱印状」(内山光男氏所蔵文書・東大史影写)
5月7日 新庄駿河守・一柳越後守に「淀衆」を迎えるために稲田清蔵が向かったこと、草野次郎右衛門尉・大野木甚丞も招集すること、大津城番は新庄の弟を置き、一柳越後守はすぐに折り返す前提で下向すること、とにかく急いで途中経路に飛脚を送り、伝馬の準備を指示するように命ずる。
淀衆為迎、差越稲田清蔵候、同前ニ召連可罷下候、然者草野次郎右衛門尉・大野木甚丞も可召具候、大津城番ハ新庄弟共ニ可申置、越後ハ軈而可差返候間、当座之心得仕、可罷下候、涯分其方急候て可相越候、路次留々先々飛脚を遣、伝馬夫以下事令用意可相待旨、新庄・稲田相談可申送候、路次中無滞、早速下着候様ニ可入情候、猶稲田清蔵可申候也、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/新庄駿河守とのへ・一柳越後守とのへ
- 豊臣秀吉文書集3200「羽柴秀吉朱印状」(八相宮文書・東大史影写)
5月10日 医師の一鴎軒に「淀女房共」が下向するので供奉を命じる。万一出かけていてもこの朱印状を見たら戻って供奉するように念押し。
淀女房共罷下候間、供候て可下向候、自然途中迄出候共、此朱印拝見次第罷帰、可令供候也、
五月十日/(羽柴秀吉朱印状)/一鴎軒
- 豊臣秀吉文書集3201「羽柴秀吉朱印状」(三雲文書・東大史影写)
5月14日 妻に送った書状では自身の健康状態に触れていない。
ねんころニ文給候、御けんさんのこゝちして、ねんころにミまいらせ候、いよゝゝこたわらほりきわ、一てうの内そとニ、しより申つけ候により、一たんめいわくいたし、わひ事申たかい候事せひなく候へとも、ほしころしニ申つけ候わてハ、かなわさる事ニて候まゝ、このおもてへしゆしいたし候、はやしろゝゝおゝくうけとり候まゝ、御心やすく候へく候、わかきミ・大まんところ殿・五おひめ・きん五・そもしさまそくさいのよし、まんそく申候、いよゝゝ御ようせう候へく候、かしく。かへすゝゝこなたの事、心やすく候へく候、はや御さところのしろも、いしくらてき申候間、大ところてき申、やかてひろま・てんしゆたて可申候、いつれのミちにも、ことし内ニハひまあけ可まゝ、心やすく候へく候、かならすとしの内ハ参候て、御めにかゝり、つもり御物かたり可申候、せつかく御まち候へく候、いよゝゝわかきミ御ひとね候へく候、めてたくかしく、
五 十四日/差出人欠/宛所欠(上書:まんところ殿返事 てんか)
- 豊臣秀吉文書集3208「羽柴秀吉自筆朱印状」(神奈川県立博物館)