2022/11/01(火)北条氏繁の初期所属先
北条氏繁の初期行動
北条氏繁は当初父の綱成に付随して行動していたと考えていたが、彼が最初に発した文書を見るとどうやら北条氏康に直属していたようだ。よくよく考えてみると、永禄3~4年に上杉方が大挙して関東に攻め込んだ際に、綱成は遠方にいて参戦できていないが、混乱の真っ最中である2月28日に氏繁は玉縄にいたことが判っている(戦国遺文後北条氏編665)。氏繁は3月4日に江の島、翌日には鶴岡八幡宮に禁制を発している(戦国遺文後北条氏編671/672)。
氏繁の最初の文書を読み解く
氏繁がどのような立場にあったかを考えてみるため、彼が最初に発した書状を追ってみよう。
1558(永禄元)年の6月21日に氏繁は東修理亮の戦功を賞している。下総方面で戦っている修理亮の戦功を、氏康に報告する役目を担っていたようだ。
北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す
戦国遺文後北条氏編0584「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
昨今之御高名、誠以御走廻之御心懸、感入外無他事候、弥以御頼も敷候、則小田原江具申上候間、定而可有御感候、子細期来可申候、恐ゝ謹言、
六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御宿所- 解釈
昨今のご高名、本当にご活躍なさるお心がけで感じ入るほかありません。ますますもって頼もしいことです。すぐに小田原へ詳しくご報告しますから、きっと感状が来るでしょう。詳しくは返信が来たら申します。
北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す
戦国遺文後北条氏編0585「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
敵之伏兵出処、貴所物主御越、被押散、殊更自身御高名之由候、■何感入候、御走廻之旨趣昨今日、上意へ申上候、御褒美之御状重而可進之、恐ゝ謹言、
六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御貴所- 解釈
敵の伏兵が出てきたところ、あなたが物主として出撃し押し散らし、ことさらに自身でご高名を挙げたとのこと。感じ入りました。ご活躍の趣旨は昨今上意へ申し上げました。ご褒美の書面を重ねて進呈するでしょう。
上記の2通はほぼ同じ意味合いのもので、なぜこれを同日に発行したかは謎ではある。しかし、まだ若年だったことや戦場の混乱を考えると、重ねて発した可能性も考えられなくはない。
これに対応して、氏康が修理亮に感状を与えている。氏繁からの報告とは書いていないものの、先の2通からそれは確実といえる。
北条氏康が東修理亮に感状を発し、太刀を与える。
小田原市史資料編小田原北条0403「北条氏康感状写」(川辺氏旧記三)1558(弘治4/永禄元)年比定
今度向其地敵相動候之処、両三度及戦、被走廻由候、高名之至感悦候、仍太刀一腰進之候、尚可抽忠儀事、可為肝要候、恐ゝ謹言、
六月廿七日/氏康(花押)/東修理亮殿- 解釈
今度その地へ向かって敵が動いたところ、3回戦闘となりご活躍されたとのこと。高名の至りで感悦しました。太刀一腰を進呈します。さらに忠義にぬきんでることが大切でしょう。
翌月になって氏繁が修理亮に書状を発し、今後の活躍を氏康も期待している旨を通達している。小田原の氏康との連絡を担当していた氏繁が、この日に感状と太刀を渡したのだろう。
北条氏繁が東修理亮に感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待している旨を伝える。
戦国遺文後北条氏編0589「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
先日御走廻段、具申上候処、今般御感状并御太刀一腰令進候、弥御加世儀候得候由、従貴所可申入旨候、子細民部丞口状候、恐ゝ謹言、
壬六月七日/善九郎康成(花押)/東修理進殿へ人ゝ御中- 解釈
先日ご活躍されたこと、詳しく申し上げたところ今回御感状と御太刀一腰を進呈なされます。ますますお稼ぎなされるよう、あなたより申し入れてほしいとのこと。詳細は民部丞の口上となります。
奇妙な綱成文書
ここで奇妙な文書が出てくる。氏繁が感状と太刀を渡したのと同じ日付で、氏繁の父である綱成が修理亮に書状を発している。明らかに要検討だが、内容をひとまず確認する。
北条綱成が東修理亮への感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待する。
戦国遺文後北条氏編0588「北条綱成書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
去月其口へ敵相動候処、両日御高名御粉骨之段、氏康不■事。満足之由候、因茲、感状并金覆輪太刀壱腰、為御証文、被進置候、於此上も、弥以抽而御走廻御心懸純一之由、被申事候、猶巨砕、木村民部之丞口上令附候、恐ゝ謹言、
壬六月七日/右衛門大夫綱成(花押)/東修理亮殿御宿所- 解釈
去る月その方面へ敵が動いたところ、両日でご高名と粉骨されたこと、氏康は大変ご満足とのこと。これにより、感状と金覆輪の太刀一腰、ご証文としてお渡しします。この上もますますぬきんでたご活躍を心がけて専心するとのこと、申されました。さらに巨細は木村民部丞の口上に付与しています。
まず人物名称がおかしい。本来「左衛門大夫」である綱成が「右衛門大夫」となっているのは筆写時の誤記とも考えられるが、氏康・氏繁氏繁書状にも出てくる使者「民部」を「木村民部之丞」としている。しかし、同年7月17日に正木弥五郎に宛てた氏康書状写では「諸軍油断有間敷旨、以中村民部丞申遣候」(市史338)とあり、「民部」は「中村民部丞」が正しい。また、与えられた感状・太刀を証文として渡すという文言は他に例がない。
氏繁・氏康の文書を元にして、氏繁がいたなら綱成もいたはずという見込みで後世作られた文書の可能性が高い。
上記より、氏繁は綱成と離れて、氏康直属で当初活動していたと考えられる。