2022/11/01(火)北条氏時・為昌の出自

北条為昌とは何者か

為昌の名の由来

後北条一門の中で際立って異彩を放つ実名を持つのが北条為昌で、直系の中で唯一「氏」の通字を持たない(氏直世代になると「直」の偏諱を持つ者もいるが、彼らと為昌は50年ほどの差があり、両者に相関性はなさそう)。

下山治久氏・黒田基樹氏の説では「大道寺盛昌が烏帽子親で『昌』を受け取った。『為』は冷泉為和からもらった」としている。しかし、通例の偏諱では目上から受け取っているから「冷泉為和から『為』の偏諱をもらった」とだけすればよい。しかし、小田原に数回来ただけの為和から偏諱を受けるのは違和感があるため、この説では河越・鎌倉で領域的に近しい盛昌を最初に持ち出したのだろう。

よくよく考えてみれば、為昌が後北条一門で異例の名乗りであるのと同様に、盛昌もまた大道寺一門では異色の名乗りだ(他は周勝・資親・政繁・直繁・直次・直英で、直昌だけが通字を持っている程度)。

当時の養子関係が史料からでは判りづらいのは、小幡源二郎の出自である程度把握できてきた。氏康子息とされている氏忠・氏光が、氏康の甥(氏尭の息子)と比定されているのも、比較的近年になるまで仮説が立てられていなかった。そう考えれば、明らかにおかしい為昌の命名にもっと疑問をもってしかるべきだろう。

そこで、大道寺盛昌・北条為昌の実名が、今川被官である遠江福島(くしま)氏と近接していることに着目してみた。戦国遺文今川氏編の索引を見ると、福島一門の実名にはよく使われる字がある。

  • 「春」助春・氏春・春興・春久・春能
  • 「昌」助昌・元昌
  • 「盛」盛助・盛広
  • 「助」助春・助昌・盛助
  • 「為」範為 ※「範」は今川氏の通字
  • 「能」範能

このうち、明応から永正年間に活躍した世代が、左衛門尉助春・玄蕃允範能・和泉守範為となる。

「為」を継承していること、範為が宗瑞と親交があったことから、為昌は範為に近い関係だったと推測される。加えて範為は在京した徴証があり、山城国大道寺郷との関連もあるかもしれない。

遠江福島氏の活動状況

盛昌と為昌が遠江福島氏の出自だったとして、いつ小田原に来たのだろうか。その時期を考えてみるため、福島氏の活動状況を確認する。

今川家中で福島氏が登場するのは1501(明応10)年の福島助春が最初で彼が従えていたのが範能。1510(永正7)年から範為が出てくるようになる。その後は登場史料が減って1524~5(大永4~5)年に盛広が見られるだけになるが、1536(天文5)年に発生した花蔵の乱で福島越前守・彦太郎・弥四郎が今川義元に敗軍し一時期姿を消す。

そのまま消えるかと思えた福島氏は1548(天文17)年から再び登場してくるが、その過程で遠江小笠原氏が入り混じって姿を現すようになる。この小笠原氏は、福島氏と同じ遠江国土方周辺を根拠地としているほか、福島十郎左衛門助昌は1569(永禄12)年に小笠原十郎左衛門助昌として改姓している。更に小笠原氏興は、福島右馬助の寄進を1548(天文17)年に岡崎龍巣院に対して保証している。このことから考えると、福島・小笠原は同族的結合があったようだ。花蔵の乱で失脚した福島氏は、一部の者に「小笠原」を名乗らせることで復活を企図したようにも見える。

この小笠原氏は信濃の一族と考えるにしては、余りに福島氏に近接し過ぎている。この中心人物「氏興」が1544(天文13)年から登場したことから、範為の妻が氏綱母の小笠原氏の親類で後北条と血が繋がっていた可能性を考えてみた。かなり証跡の薄い推測にはなるが、為昌が氏興と同じく範為の息男だったとすれば、為昌と氏綱は血縁だったのかもしれない。

母親の名字を名乗ることを願い出た例には、埼玉県史料叢書12_726の「小鷲直吉名字譲状」(福田文書)がある。母の名字である「福田」が途絶えることを憂いた岡左衛門尉が小鷲直吉に願い出て、自らも含む三兄弟が福田を名乗る許可を得ている。

盛昌・為昌の軌跡

遠江福島氏の状況から鑑みると、まず福島盛昌が伊勢宗瑞に従って伊豆・相模に入り「大道寺」を名乗る。今川分国からの移籍は、石巻家貞・関為清・興津加賀守などが見られる。そして、その後に福島為昌が移った。為昌が北条を称したことは確実なので、名字を替えた盛昌とは異なり、彼は氏綱の養子に入ったと考えた方が合理的である(詳細は別記事で説明するが、為昌妻が朝倉氏なのはほぼ確実なので、婚姻による養子ではない)。

そしてこの仮説だと、従来は余りに若年だった為昌の年齢問題が解決する。

通説の為昌は1542(天文11)年5月3日に23歳で死没したとある。逆算すると生年は1520(永正17)年(但し、この死没年は北条家過去帳からとっているようだが、これは供養した日付。もし死没年なら氏時死去が同年10月18日となってしまう)。朱印状での為昌初見は1532(享禄5)年なので通説通りなら僅か13歳、そこから富岡八幡造営の指揮をとりつつ、江戸湾を渡海したり河越へ攻め込んだりと転戦していて、とても若年とは思えない。氏直の代くらいになれば周囲に人材を配置できるから年少でも対応可能だろうが、この頃の後北条家は本当に人材が払底している状態なので、臨機応変に陣頭指揮をとれなければ務まらない。よく考えれば、30代以降の行動と考えるのが妥当だろう。

快元僧都記での呼称を見るとかなり変化していて、途中で氏綱養子となって一門化した様子が窺われる。

1533(天文2)年

  • 閏5月2日 為昌彦九郎殿
  • 6月17日 彦九郎殿
  • 10月28日 彦九郎殿、孫九郎殿、九郎殿、九郎殿

1534(天文3)年

  • 2月17日 九郎殿
  • 3月1日 九郎殿
  • 6月16日 彦九郎殿

1535(天文4)年

  • 3月14日 彦九郎殿
  • 6月10日 氏康・為昌玉縄着城
  • 6月26日 為昌
  • 10月14日 彦九郎為昌
  • 10月17日 彦九郎為昌

1536(天文5)年

  • 8月1日 氏康・為昌
  • 8月28日 北条孫九郎
  • 閏10月9日 為昌
  • 閏10月10日 氏綱、氏康、為昌

1538(天文7)年

  • 2月14日 北条為昌

1539(天文8)年

  • 5月21日 彦九郎殿

1540(天文9)年

  • 11月4日 北条孫九郎殿

1533(天文2)年閏5月で最初に登場した時こそ「彦九郎為昌」と書いているが、以降は単に「彦九郎殿」で、作業が慌ただしくなった10月には「孫九郎殿」と誤記したり、略して「九郎殿」と書いたりしている。様変わりしたのは1535(天文4)年6月に氏康と共に登場した時で、氏康と併記して「為昌」と記し、その後は北条と冠するか実名の為昌を付けるようになっていて、北条一門である扱いとなる(天文8年のみ例外的に「彦九郎殿」と呼ぶ)。「孫九郎」の誤記は最後まで続いていて、この点から孫九郎綱成との混乱を招いているが、綱成が確実な史料で登場するのは1544(天文13)年だから、快元僧都記の孫九郎は為昌と見てよいだろう。

駿河から小田原に赴いた冷泉為和は『為和集』にて1536(天文5)年2月13日に「本城において、彦九郎為昌興行当座」と記した。歌会を主催為昌が主催できたということは、和歌に造詣があってある程度の年齢だったことを示唆する。

彦九郎為昌が福島氏出身であることは、断片的ではあるが同時代史料でも補強できる。1548(天文17)年7月17日に岡部親綱が氏親菩提寺である増善寺への寄進物を列挙している(戦国遺文今川氏編874)。その中に異筆で「一法華経一部、紫表紙折本也、福島九郎置之、椎尾御塔頭 宗久侍者ニ渡之」と書かれている。恐らくは氏親没後に「福島九郎」が法華経を増善寺に納めたことを指しているのだろう。福島九郎はここでしか登場しないので詳細は不明だが、氏親近臣だったことが窺われる。

氏親死没直後に政争があったことは宗長日記に記されているが、これを契機に福島九郎が後北条に移った可能性は高いように思う。氏親死後はその妻である寿桂が家中を仕切る傾向が出てくるが、宗長はこれをよく思っていなかった。そして、幼童抄紙背文書で判明したように、宗長は盛昌と親しい関係にあった。反寿桂派同士ということで福島九郎が宗長に助けを求め、宗長が昵懇である盛昌に紹介したという流れだ(名乗りから見て盛昌もまた福島氏である可能性があり、氏綱への推挙もより強いものになっただろう)。

大道寺家譜・北条家過去帳に引っ張られて、大道寺発専(盛昌父)が宗瑞の従兄弟、為昌が氏康の弟という先入観を持っていたのがこれまで通説だったが、上記のように史料を敷衍するならば、為昌・盛昌は遠江福島氏の出自であるのが確実といえそうだ。

北条新六郎左馬助氏時とは何者か?

氏綱の弟とされる北条氏時は殆ど文書が残されておらず、謎の人物とされている。

新編相模国風土記稿にある二伝寺の記事で、1531(享禄4)年8月18日に氏時没とされる。二伝寺は浄土宗白旗派の鎌倉光明寺の末寺で1505(永正2)年に忍蓮社誉正空が創建という。正空は品川が出自で北条時国の系譜という人物。この創建には村落の福原左衛門忠重も助力したという。

氏時は文書を2通しか発給していないので実像が定かではないが、「氏時」「左馬助氏時」を名乗っている(戦北88・89)。一方で鎌倉円光寺の毘沙門天像の銘では「北条新六郎殿氏時」と記載されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0090「毘沙門天立像銘」(鎌倉円光寺所蔵)

    (後頭部内) 檀那 北条新六郎殿氏時 作者上総法眼長■ 享禄二年十月吉日 (胎内背面) 諸願成就 南無光明天王五大力菩薩 皆令満足

「新六郎」の仮名は一門としては異色で、他氏族の出自を窺わせる。

「新六郎」を名乗ったのは、太田康資・松田政晴・勝部政則・吉良氏朝・豊島貞継・藤田信吉・用土某。このうち、氏時が現れる1529(享禄2)年に確実に時代が合うのは太田康資のみ。

「左馬助」を名乗ったのは、桑原某・高橋頼元・手島長朝・比企則員・北条氏規・北条直重・松田(大石)憲秀・松田直秀。同様に氏時と時代が合うのは、松田憲秀・高橋頼元。

ここで着目されるのが松田氏で、同氏の仮名では六郎系で助六郎(康長・直長)、六郎左衛門(康定・康郷・某)がいて、総合的に考えると、氏時は憲秀本人の別称だったか、憲秀の異母兄だった可能性が高そうに見える。更に、為昌の娘が松田盛秀に嫁しているから、為昌とも関与があっただろう。

氏時・為昌登場時の時系列・状況

ここで時系列を整理してみる。氏綱生年は同時代史料である快元僧都記で確認されるので確定。氏康・綱成の成年は後世編著での比定だが、史料的に近い年齢だろうから同年と考えてもよいだろう。為昌が氏綱養子となったとすると、少なくとも氏綱より年少だろうから10歳下と仮定してみよう。氏綱は29歳で氏康を得て、為昌は19歳で綱成を得たという時間軸になる(仮説部分は<>で表示)。

  • 1487(長享元)年 伊勢氏綱が生まれる『快元僧都記』

  • 1495(明応4)年 伊勢宗瑞の伊豆での活動が確認される(戦北1)

  • 1497(明応6)年 <福島九郎為昌が生まれる>

  • 1498(明応7)年 「大道寺」が伊勢宗瑞書状に現われる(戦北4599)

  • 1515(永正12)年 <伊勢氏康・福島綱成が生まれる>(氏綱29歳、為昌19歳)

  • 1522(大永2)年 伊勢氏尭が生まれる『兼見卿記』(氏綱36歳、為昌26歳、氏康・綱成7歳)

  • 1523(大永3)年 伊勢氏綱が北条に改姓する(戦北56・市史61)

  • 1525(大永5)年 白子原合戦で伊勢九郎(櫛間九郎)が戦死<戦死は虚報で福島九郎の援軍参加か?>

  • 1526(大永6)年 今川氏親が死す『宗長日記』(氏綱40歳、為昌30歳、氏康・綱成12歳、氏尭4歳)

  • 1527(大永7)年 <福島九郎が法華経を増善寺に奉納し小田原へ移る>

  • 1529(享禄2)年 北条氏時が登場する(戦北88)(氏綱43歳、為昌33歳、氏康・綱成15歳、氏尭7歳)

  • 1531(享禄4)年 北条氏時が死す

  • 1532(享禄5)年 北条為昌が朱印状を出す(戦北102)(氏綱46歳、為昌36歳、氏康・綱成18歳、氏尭10歳)

  • 1535(天文4)年 北条氏康の妻が嫁す<福島為昌が北条へ養子に入る>

  • 1536(天文5)年 北条氏繁が生まれる(氏綱50歳、為昌40歳、氏康・綱成22歳、氏尭14歳)

  • 1541(天文10)年 北条氏綱が死す『快元僧都記』(氏綱55歳、為昌45歳、氏康・綱成27歳、氏尭19歳)

  • 1542(天文11)年 北条為昌が死す

氏時・為昌がその名乗りから考えて他家からの養子だとする前提で考えると、1529(享禄2)年時点で後北条一門の成人男性は、氏綱・宗哲のみになる。しかも戦況は悪化しており、大永年間からずっと劣勢が続いて江戸・鎌倉は何とか確保しているものの、岩付を失い、相模国の大磯・平塚まで攻め込まれることもあった。

窮余の一策として、松田盛秀の嫡男を養子にし、北条の名字と「氏」の通字を与えて氏時とした。が、わずか3年で急死してしまう。そこで、30歳代半ばで嫡男・次男がいる為昌に白羽の矢が立った。3年ほど様子を見てから、氏綱養子扱いで北条名字を与えたものの、今川からの異物ということで、通字は与えなかった。

こうした例外が可能だろうかという疑問があるものの、新興勢力の後北条氏としては、北条へ改姓して10年ほどという時期で例外措置が挟みやすかったといえる。それよりも、四の五の言っていられないほど一門人数が枯渇していたという要因が大きく作用していただろう。何よりこの措置によって、為昌という成人男性に加えて氏康と同年の嫡男も手に入る。また、1535(天文4)年になって為昌養子入りが確定したのは、嫡男綱成の妻が懐妊したことも契機となるかもしれない。

蛇足

念のため記しておくと、為昌が氏綱の息子で氏康の弟と書いているのは北条家過去帳と鶴岡御造営日記。北条家過去帳は後に北条氏長の手が大幅に入っており、過去帳というよりは玉縄北条家の系図のようになってしまっているし、氏繁次男を無理に挿入するなど操作の形跡がある。綱成の前に存在していた氏時・為昌への情報操作も窺われ、この点では信頼性に瑕疵があるといえる。

『快元僧都記』と『鶴岡御造営日記』は、どちらも天文年間の鶴岡八幡宮修復作業にまつわる内容を記載しているので、同時代史料だとされる。しかし、よく引用される『鶴岡八幡御造営日記』の塀普請割振状には不可解な記載があって不審。

  12間 北条氏康弟、彦九郎殿
南大門6間 北条氏綱弟、幻庵
   6間 北条庶子、左衛大夫
      寄子也、間宮豊前守

北条宗哲を「幻庵」としているが、宗哲が幻庵と呼ばれる最初の例は1558(永禄元)年(戦国遺文今川氏編1236)で、1546(天文15)年の自称では「長綱」(戦国遺文後北条氏編0279)であり、快元僧都記でも一貫して「長綱」と呼んでいる。

また、ここで「左衛大夫」と呼ばれた綱成だが、彼が左衛門大夫と名乗るのは1549(天文18)年以降であり、少なくとも1544(天文13)年までは「孫九郎」を自称していた。

この割振状に出てくる他の名前を見ていると、どうも所領役帳を参考にして工夫して入れ込んでいるような感触もある。