2017/04/20(木)北条氏康条書で前と後が欠けているもの
越相同盟を巡る交渉で、氏康が出した条書のうちで欠落があるものを並べてみた。2については氏康の脳卒中と絡めて元亀比定しているが疑問は残る。
1)戦国遺文後北条氏編1211「北条氏康条書」(庄司哲子氏所蔵伊佐早文書)※1569(永禄12)年4月頃に比定されている
<<解釈>>
条目
遠路で口上を届けるのが難しいので、思慮を捨てて糊づけの書状で申し入れます。お考えを糊づけでご返答いただければ本望です。
一、先年は亡父の氏綱が上意に応えて進発し、総州の国府台において一戦を遂げました。まぐれ当たりに、小弓公方の父子3人を討ち捕りました。この勲功で、管領職を仰せ付けられる御内書両通を頂戴しました。この筋目は申し開きはできますが、既に氏政の実子を御名跡としてお決めいただいたとのこと、このようなご昵懇をいただいたからには、申し上げることはありません。
一、河内(利根川右岸)において、年来氏政に従い指示に忠実に従って活躍した者が何人かいます。今になって氏政の手元から離れるというのは外聞が『折角』となります。それぞの所領をこちらの配属にしていただけるならば、かたじけなく、またご芳志といえるでしょう。但し、ご納得いただけないのでしたら、どうしようもないでしょうか。とりわけて今回松本石見守が遠山康光・垪和氏続に対し「去る申年(永禄3年)に越後方へ馳せ参じた者だ」と6か所の書立を示しました。今越相で同盟するのですから、申年の是非は入れなくてよいのではないでしょうか。既に全てをお任せした上ですが、あの6か所は武蔵の中にあります。伊豆・相模も加えて3か国は、代を限らず戦功で与えたものなので、お聞き届けいただければ本望です。
一、公方様の御座を移すことについて。藤氏様のご進退のことは、松本石見守に申しました。遠国で伝わらなかったのでしょうか。去る寅年(永禄9年)ご他界なさいました。義氏様へ晴氏様よりのご相続は事実です。既に越相のご和融の上は、義氏様の御筋目は紛れもないことですから、そのようになるでしょうか。慎重にご検討下さい。
右の条々合意の上は、一日も早く信州へご出張なされませ。氏政自身は甲州へ乱入するでしょう。この度は信玄敗北の時です。鉾を醒ますことなく、信甲のご退治下さい。念願はこのほかありません。もしもし、この上遅々とするならば(後欠)
<<原文>>
条目
遠路口上難届存ニ付而、捨思慮、以糊付申入候、御存分、糊付之御返答、可為本望事
一、先年亡父氏綱応 上意令進発、於総州国苻台、遂一戦、稀世 御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、 御内書両通頂戴候、此筋目雖可申披所存候、既氏政実子御名跡可被定置由候、如此御入魂之上者、申処無之候、任置貴意事
一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、数ヶ所候、只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所ゝ此方へ於被付者、忝可為芳志候、但、御納得有之間敷付而者、不及是非歟、就中今度松石対遠山左衛門尉・垪和六ヶ所被書立、先年申歳越苻御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、申歳之是非不入歟、既悉皆任御作意上者、彼六ヶ所者、武州之内ニ候、於豆相三ヶ国者、不限代戦功相拘候条、被聞召分、可為本望事
一、公方様 御座移之儀ニ付而、 藤氏様御進退之儀、松石被申候、遠国無其聞歟、去寅歳御他界ニ候、 義氏様へ自 晴氏様御相続無其隠候、既越相御和融之上者、 義氏様御筋目無紛候条、可然歟、不可過御塩味事
右条ゝ申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可乱入候、此度信玄敗北之砌、不被醒鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若ゝ此上御遅ゝ付者(後欠)
2)戦国遺文1475後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)※1573(元亀4)年4月15日に比定されている(高村私見では永禄12年比定も可能性あり)
<<解釈>>
(前欠)一、ご加勢はあるべきでしょう。当家は全員が輝虎のご威光によって、素早く本意を達するだろうと、和睦以来思っていたところ、日を追って弓矢で『折角』となりましたので、ますます氏政の手元を見限っています。国中のどの措置も手に余っています。必ず必ず7月上旬にはご出馬あって、当家をお引き立て下さい。
一、相模と甲斐が和睦したと、言った人がいたのでしょうか。これによって起請文をいただきました。かたじけなく、また困惑しています。ご越山の名分を争っていることから、虚言を受けることとなり、このように言われるのでしょうか。讒言する者のやることは昔から変わりません。よくよくご調査されるに限ります。氏康父子に私曲がないこと、伊勢右衛門佐によって申し届けました。きっとお聞き届けになるでしょう。
一、国境の防御拠点の措置のこと。仰せをいただき、本当にご懇切なこと、本望で満足しています。紙には書けない程です。そもそも、信玄と氏政が血縁となって以来、こちらの方では国境の内と外という意識がなかったところ、信玄が裏切って近年放置できずに伊豆・相模の国境警備を堅固にしていました。ふいに駿河を攻撃したので、義によって甲斐と交戦することになりました。それ以来急に処置したので、数か所の街道は普請ができていません。今では苦労しています。更なる油断ではありません。
一、諸人が力づけられることは、お考えの通りです。とにもかくにも、貴国以外はどこも頼れません。氏政をご後見いただけるなら、来る7月に極まります。ここに至ってお見捨てになれば、こちらの侍どもは氏政を見捨てること、歴然ではないでしょうか。
一、諸証人のこと、ご越山されるならばすぐにお渡ししますこと、先にも申しました。更なる異議はありません。氏政のこと、少しのお疑いがあってはなりません。一度国分けを取り決めた上は、甲斐・信濃に侵攻するお覚悟があるのですから、一人の諸証人でも手元で惜しみはしません。
一、来る秋に信玄が出撃する際には、即座に後詰をいただくとのこと、本当にかたじけないことです。西上州にでも、信濃にでも、一心に行軍なさることをお願いすること、先に伊勢右衛門佐が申していました。敵の行動が火急のこと告げています。早速のご出動に極まります。こちらよりご報告していては手遅れになります。同時に敵の行軍状況を逐一ご連絡します。
<<原文>>
(前欠)一、御加勢者、可有之儀ニ候、当家之大小者、輝虎以御威光、頓速ニ可達本意由、一和以来存候処、遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限、何共国中之仕置、致余候、必ゝ来秋者、七月上旬ニ有御出馬、当家被引立可給事
一、相甲遂一和由、申人候哉、依之、御誓詞給候、且忝、且迷惑候、争御越山御大儀ニ付而、虚言を蒙仰様ニ可存候哉、讒者之所行、古今之習候、能ゝ御糺明ニ極候、氏康父子無私曲処、以伊勢右衛門佐、申届候キ、定可被聞召届事
一、境目之要害仕置等之儀、蒙仰候、誠以御懇意之段、本望満足、難尽紙面候、抑信玄・氏政結骨肉以来、当方之事者、無内外存処、信玄表裏、近年不打置、豆相境目普請仕置被致堅固、不慮ニ駿州を打候間、任儀理、相甲令鉾楯以来、俄及仕置故、数ヶ所之口ゝ普請以下無成就、于今令苦労候、更油断ニ者無之事
一、諸人ニ可付力之由、尤得其意候、菟ニも角ニも、貴国之頼より外、大小無之候条、氏政於可被御覧続者、来七月ニ極候、此処於有御見除者、当方之侍共、氏政可見捨事、可為歴然候歟之事
一、諸証人之事、於御越山者、則相渡可由、先段も申候、猶以無異儀候、氏政手前之儀、少も御疑心有間敷候、一度国分申定、甲信可撃覚悟ニ候上者、諸証人之拘惜、一切無之候、仮令可被召寄模様可有之候、沼田へ御越山ニ付而者、一人も不可残置事
一、至于来秋、信玄出張ニ付而者、則刻可有後詰由、誠忝存候、西上州へ成共、信国へ成共、一途御行頼入由、以伊右申候キ、敵動火急之由申唱候、早速御出勢ニ相極候、自是注進申よりしてハ可為遅ゝ候、併敵動之模様をハ、節ゝ可申入候、恐ゝ謹言、
卯月十五日/氏康(壷朱印「機」)/山内殿