2017/04/20(木)天正10年甲信遠征時の奉者
織田信長の死に付随して北条氏直は甲信へ遠征するが、その際の奉者を抜き出すと、氏政への情報リークと、それに伴う更迭劇が推測できる。
天正10年 氏直遠征時の奉者
- ■=安房守=北条氏邦
- □=陸奥守=北条氏照
- △=伯耆守=垪和康忠
文書番号は戦国遺文後北条氏編
- 6月15日 幸田(2349)甲斐
これ以降が遠征時と想定
- 6月22日 ■(2352・2353・2355・2356・2357・4743)上野
- 6月29日 ■(2361・2362)上野
- 7月9日 □・■(2367)上野
- 7月13日 □・■(2369・2370)信濃
- 7月13日 □・■(2372)甲斐
- 7月13日 △(2371)甲斐
- 7月15日 ■(2376)上野
- 7月23日 △(2379)信濃
- 7月25日 江雪(2382)甲斐
- 7月26日 □(2383・2384)信濃
- 8月01日 奉者なし(2387)武蔵(岩付)
- 8月15日 □(2392)甲斐 ※8月16日に氏政が「江雪所へ之状」で事態に気づく
- 9月09日 △(2409)甲斐
- 9月20日 ■(2415)甲斐
- 9月22日 相良左京(2417)上野
- 10月01日 △(2422)甲斐
- 10月03日 ■(2424)甲斐 1 10月03日 △(2425)信濃
- 10月25日 ■(2436・2437)信濃
- 10月25日 △(2438)信濃
- 10月26日 ■(2440)甲斐
- 推測1:垪和康忠・板部岡融成(江雪)は初期から同行
- 推測3:8月1日の岩付向け朱印状は融成が奉じて届けた
- 推測4:岩付へ融成が送った書状で氏政が事情を把握
- 推測5:氏政が気づいて以降の氏照奉者は止む。更迭されたか
遠征初期の12通は完全に氏邦と氏照が奉者を務めている。初期に大量に発行したのは氏邦で、最初は氏邦奉者体制だった。後に氏照が加わる。康忠・融成は同行したものの朱印状から遠ざけられていた可能性がある。氏邦が奉者から外れると同時に康忠・融成がようやく関わったのが7月下旬。氏照は奉者として残る。
8月1日付けで岩付に向けて融成が情報漏洩を行ない、それに気づいた氏政が関与して氏、照と融成は呼び戻された可能性が大きい。その後は氏邦・康忠で奉者を仕切っているが、これは氏政の指示も伴っている。
当初の後北条氏作戦目標は上野確保のみで、機を見た氏直が暴走し、それに氏照が加担したか、共に暴走した可能性がある。