2017/05/22(月)上田長則の心遣い

一般に、印判状は非属人的で薄礼であるという理解なのだが、一部に例外的なものもある。

武蔵松山城主の上田長則が、木呂子新左衛門に諸規則を伝えた文書がそれ。家督を継承したらしい新左衛門に仰々しく花押で通達し、その後から私信として朱印状を与えている。

大塚郷が木呂子新左衛門に与えられる

就大塚之郷任置、具申遣候、能ゝ可致分別候、一、若年之間ハ、先ゝ親之以苦労致奉公儀、古来法度之様歟、雖然、譜代之仁ト云、親子数多之儀ト云、彼是共ニ不准自余、如此候、弥其方覚語見届候ハ、何分ニモ可引立間、心易可存事、棟別・段銭・人足、此三ヶ条ハ、自・他国共ニ法度之間、不可指置候事、[猶別紙ニ有]右、朝暮無油断、存分ニ被嗜、可為肝要候、条ゝ、鈴木修理ニ申含候、仍如件、
天正十年壬午五月十三日/長則判/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2338「上田長則判物写」(岡谷家譜)

大塚の郷をお任せする件、詳しくお伝えしました。よく考えて治めて下さい。一、若年のうちは、まずまず親の苦労でもって奉公すること。古来からのしきたりでしょうか。そうはいっても、譜代の出自であることといい、数代にわたって仕えてくれたことといい、どちらを考慮しても他とは異なります。このことから、あなたの頑張り次第ではもっと引き立てますから、ご安心下さい。棟別・段銭の徴税と人足の提供、この3点はこの国でも他国でも決まり事ですから、放っておいてはなりません(更に別紙に書きました)。右のこと、朝も夜も油断なく、充分に勤めることが重要です。それぞれ鈴木修理に申し含めています。

木呂子新左衛門に追伸が送られる

追而、三ヶ条之儀、諸人之比量不可然候間、申事ニ候、併於何事も、連ゝ存分ニ可相極候、是ハ以他筆ヒソカニ書付候、仍如件、
午五月十三日/朱印/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2339「上田長則朱印状写」(岡谷家譜)

追伸。3点のこと。皆の手前もあって申したのです。ですから、なにごともできる範囲で少しずつ決めていけばよいのです。これは別の筆でこっそりお伝えしておきます。


現代でいうと、新入社員への訓示で建前を厳しく言ってから、後でこっそり「まあそんなこと言っても色々あるさ」と助言するような感じかと思う。ただ、この長則の訓示、そんなに厳しい物言いでもない。一方的に気を遣っているような印象がある。もしかしたら、新左衛門が結構幼いんじゃないかとも思える。

実際、この8年後の小田原籠城でも「若輩之子共幾人有之共、毛頭不可有無沙汰候、殊ニ新左衛門在陣候間、大細計尋合可引立候、是又気遣有間敷候」(戦北3652「上田憲定書状写」)という記述があって、この段階でも新左衛門はまだ二十歳前という印象がある。

となると天正10年頃は10歳前後か。父は普通に健在なので、新左衛門は幼くして領主になるという格別な引き立てを受けたのかも知れない。

何れにせよ、出典が家譜ということもあって確度は低いが、花押を据えた文書が表向きの正規のものに対して、朱印を捺した追而書が裏からの私信なのは興味深い。