2017/09/28(木)明智光秀の軍規
明智光秀の書状で、陣中での行動を指示したものがあったので読んでみる。
- 八木書房刊明智光秀091「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書)
乍些少、初瓜一遣候、賞翫尤候、已上、
城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、人々請取之所相支、手前へ落来候者ハかり首可捕之候、自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、
五月六日/光秀(花押)/彦介殿・田中■助殿・小畠助大夫殿
結構長いから敬遠しがちだが、極端に短い文章よりもヒントが多数ある分だけ長文の方が読み易い。途中で「これは判らない」という部分が出てきても、その前後から推測できるので。
年比定は1579(天正7)年。丹波八上城を攻囲した際のものと考えられている。これは城攻めの様子が描かれている点、敵方として「波多野兄弟」が出てくる点から。
冒頭にある追伸(追而書)
最初に書かれているのは、ちょっと変だけど追伸。現代だと本文の後ろに置くが、先頭に配置することもある。
「乍」は返読文字なので、一旦飛ばす。「些少」は現代語と同じで僅かで少ないこと。「些少ながら=僅かではありますが」となる。
じゃあ何が僅かかというと、次の「初瓜一=初物の瓜が1つ」ということで、この時代だと初物は珍重されていたとはいえ、1つは確かに少ない。「遣」は「つかわす」と読んで、送ること。
「賞翫」は今でも「ご賞玩下さい」という風に使うけど、もう殆ど死語かも知れない。味わって楽しむことを指す。
「尤」は「もっとも」で、現代語だと「ごもっとも」で生き残っている言葉。この時代は結構多用していて、「より望ましいこと」という漠然とした意味合いで使われる。相手に指示する時に、ちょっと遠慮して「お願い」っぽくしている感じで「~するのがもっともです」みたいに使われるのをよく見かける。
「已上」は「以上」と同じで、追伸の結びなどに使われる。本文だと「恐々謹言」とか「仍如件」みたいに結句=結びの言葉があって「ああここで終わりなんだな」と判るのだけど、追伸は余白に小さく書かれているので判り辛いから「以上」で締めくくっているのだと思う。
これらを踏まえて追伸をなるべく現代語に近くして読んでみる。
僅かではありますが、初物の瓜を1つ送ります。お召し上がり下さい。以上です。
いよいよ本文の第1文
城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、
「城中」はそのままの意味。この後の繋がりから、どうやら光秀は城を攻めているところだと判る。
「調略」は作戦の具体的な行動を指すように思う。直接的な軍事行動だと「行=てだて」や「働=はたらき」を使うことが多い。調略は敵の一部を寝返らせたり偽情報を流したりも含まれるような、もっと幅が広い感じ。
「子細」は事情・詳細・状況とかを指す。
「候間」は「~なので」となって繋いでいる。
「不寄何時」は「不」「寄」の2文字が連続して返読になっている。返読文字は前の語の後ろにつくから、まず「不」が「寄」に乗る。ところが「寄」も返読だから「何時」に乗る。そうして最終的に、何時→寄→不の順で読むことになる。
何で返読が入っているかというと「乍」と同じで漢文の文法を踏まえていて、目的語は後に来るようになっていから。ただ、必ずしもこの漢文ルールが適用されている訳ではないのが悩ましいところ。上記の文だと「不寄」だけでは意味をなさないので判断できるけど、微妙な書き方のものもあって、ここを読むときはひやひやする。
これを受けて一文を読むと、
「なんどきと寄せず=いつ何時とも言わず」が現代語に近い感じかと思う。
次がちょっとややこしい。
「本丸焼崩」は「漢文ルールではない→現代語から見たら目的語なのに返読しない」という実例になっていて「本丸を焼き崩す」なら「焼崩本丸」となる筈がそうなっていない。
実はこれ「本丸の焼き崩し」と読んで、後に続く「儀=~のこと」と組み合わせ「本丸の焼き崩しのこと」と読んでいたのだろうと思う。今の日本人だと「本丸を焼き崩すこと」と読んだ方が自然に感じられてついついそっちに寄ってしまうので、要注意だったりする。
「可有之」は物凄くよく出てくる言葉で「可有之=これあるべく=これがあるだろう」となる。
ここの「之」は「本丸焼崩儀」を指す。こういう構造は、英語でいう関係代名詞(that)のような使い道というと判り易いだろうか。
「<本丸焼崩>儀
↓
可有<之>候」
という構造。現代語からすると
「可有<本丸焼崩>候」
とシンプルにした方が理解できるのだと思うが、こういう言い回しになっているので致し方ない。
まとめてみると、
「城中で調略しているので、いつ本丸が焼き崩れてもおかしくないでしょう」
となる。
第2文 油断するなという釘差し
さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、
「さ候=左候=然候」は「しかり=そう」の略語。「とて」は現代語だと「~したとて」という形で残っている言葉。「そうだとして」という意味になる。「もうじき本丸が焼き崩れる」という朗報を書いた後で、光秀は水を差してきた。
「請取=うけとり」は、受領することを指す場合が多いが、合戦時には「受け持ち・担当」を示す。後ろに「備=そなえ」とあるので、「担当の備え=受け持ち区域」的なものを指すと思われる。
「を破」は、本来だと目的語の前に持ってくる「破」を、漢文文法から口語文法に移して後ろに持ってきた状態。なので「を」がついている。このように、同じ書状の中でも文法が変わることがある。
「城へ取付候事」は送り仮名を補えばほぼ現代でも通じる。「城へ取り付き候こと」で、城壁に接近して攻撃すること。
その次の「一切」と「停止」の間に挟まっているのは「可為=たるべく」となり、「可」「為」が返読。この可は命令を意味する。「一切停止となすべし」は、強い禁止命令となる。
つまり、戦況が有利だからといって、持ち場を放棄して城壁に攻めかかるのは一切禁止ですよ、という文章になる。
第3文 あるべき手本を示して作戦を指示し、禁止事項を付け足す
ではどうすればいいのかということを明確にしたのが以下になる。この部分は少し長いけどひとまとまり。
人々請取之所相支、
「人々=全ての兵員」が「請取之所=担当場所」を「相支=あい支え」という文で、これは比較的容易に読めるだろう。
手前へ落来候者ハかり首可捕之候、
「手前=てまえ=身の回り・近く」に「落来候者=落ちて来た者」が主部で、これに「ハかり=ばかり=~だけ」がくっついている。
「首可捕之」は「~儀可有之」と同じ構造で、「首=之」を捕るべし、「首を捕れ」という意味になる。
「皆で担当場所を支えて、近くに来た敵の首だけ取るように」ということで、前の文と呼応していて、こうすればよいという点を最初に指摘している。
続いて書かれるのは「これは禁止」部分。
自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、
「自余」は「他」という意味で、他の備えの近くに落ちた者がいて、それを脇から「取合」をして討ち取ることは「有間敷=あるまじく=あってはならない」としている。「取合」はとても広い範囲で使われる、語義が曖昧な言葉だけど、ここでは「奪い合って」ぐらいの意でよいと思う。
第4文 ここも同じく手本を示してから禁止事項を挙げている
縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、
「縦=たとえ」は「仮令」とも書く。後ろにある「共=~とも」と組み合わさって「たとえ~であっても」という仮定での否定を表わす。最初にあった「城中焼崩」があっても、「三日之中ハ=3日間は」、「持ち場を離れるな」としている。最後の部分がややこしいので、読み方を書いてみる。
「請取」 →これは持ち場を示すから「陣取」にかかる文
之 →同じ字だが「~の」で「これ」ではない、文の間を何となく繋いでいる
「可蹈陣取」→「蹈=踏」は居続けることで、その場所を守る意味合いもある
読み下すと「請け取り候の陣取りを踏むべく候」となる。最後が返読連発になって混乱するかも知れないが、「之」でパーツを切り離して考えると読み易い。
其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、
「其内ニ=そのうちに」「敵落候者=敵で落ちて来た者」
ここが難解だが「令捨遣」は「捨てて遣わせしめ」だと意味がとれないから、「捨て遣り=すてやり=捨て鉢」という意味なのだろうと推測できる。「可討殺」はまた命令で「討ち殺せ」ということ。
攻めている側があれこれ動かずにいれば、逃げ場を失って自棄になった兵が来るだろうから、存分に討ち果たせ、ぐらいの意味。
さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、
ここからが禁止事項。城内が焼け崩れても3日間は包囲を解くなといった光秀の意図が説明される。
「さ候ハすハ=そうでなければ」「人数=にんずう=武装した集団を指す」が「かた付候=撤収」した際に「味方中之透間と見合=味方の中(間)の透間(すきま)を見合(見計らって)」とある。これは、撤収時の混乱や隙を待っていて、味方の薄い所を狙われるという推測。
波多野兄弟は城主で、彼らが率いる「足之軽者共=足軽たちかも知れないが、ここでは足弱(女性・子供・老人)以外の成人男子を指すと思う」が来るとしている。次の「五十・三十ニて」は50・30が並ぶと現代だと意味不明で30~50人と受け取るかも知れないが、「五三日」というと「数日」「五三人」だと「数人」「五三年」は「数年」という慣用句になっていて、100人足らずの数十人という表現になる。
「切勝候儀可有之候」の文の構造は前に紹介したものと同じになるので省略。「切勝」は切り付けるような接近戦で敵を押すことを指す。
つまり、焼け崩れて3日見張っていれば敵の反撃はないだろうが、落城したと早とちりして撤収を始めると、その隙をあらかじめ待っていた決死の突撃を受けるのだという理由を挙げている。
従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、
「従」は名詞の先頭について「~より」を示すから「従之=これにより」となる。■は不可読文字だが、恐らく「備」だろう。前述した決死隊が出てくるから、あの備えを守れと言っているのだと、くどく念を押している。このくどさはこの時代だとよくある。
「若」は、文頭にあれば大体のものは「もし~」と読んでいいと思う。「又々つれ出候」がよく判らないが、結びが「覚悟を持って励め」なので、何だか話が落城処理後に行ってしまっているようだ。
〇段階をおって読み下しにしてみる
「最前遣書付候人数之手わり」 ↓「最前に書付を遣わし候人数の手わり」 ↓「以前に覚書で送った動員数の『手わり』」 →※「手わり」は判らないが「手賦=準備」なのかも知れない。
第5文 民衆への影響と最後の念押し
猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、
「猶以=なおもって」は、更に重ねて説明を加えること。「城落居候とて=城が落居(落城)したからといって」ということで話は落城後の処理に移っている。こういういつの間にかな話題転換は、当事者同士だと意外と気にならず多用される。「彼山へ上」でいう「あの山」がどこかは不明だ。落城で手が空いた者が真っ先に向かうと考えると、波多野方の百姓たちが隠れている山だろうか。
「さしてなき乱妨ニ下々相懸候者」の「さしてなき」がちょっと読み取れない。「無指儀=さしたる儀なく」というのは「大したこともなく」という意味なので、「さしてなき=大したこともない=無用の」という風に発展させると、「する必要もない乱暴を下々にするならば」となるだろう。
「いわれのない暴力を下々に振るう」というこが招く結果が続けて書かれている。「敵可討洩候間」だから「敵を討ち漏らしてしまうだろうから」となる。光秀としてはこれを心配していて、無駄な乱暴をするなという禁止令に繋がっていく。
「兼々=かねがね」の「乱妨=乱暴」が「可為=たるべく」「曲事=くせごと=いけないこと」だと書いているが、それに「之由=~の由」という伝聞表現を入れているから、乱暴を前々から忌避しているのは信長だろうと推測される。続く文の「堅=かたく」「可被=らるべく・『被』は敬語として使われる例が圧倒的に多い」「申触=もうしふれ=布告」という部分からも信長の意であると考えられる。
万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、
信長まで持ち出して強く禁止した結びもまた強い言葉。
「万=よろず=どれでも・何であれ」
「於=おいて・返読」
「違背之輩=違反した者」
「不寄仁不背=背かざる仁に寄せず=裏切らない=忠義者であろうと」
「可為=なすべく・返読」
「討ち捨て=その場で殺して事後処理もしない」
まとめると、どのような形であれ、どのような忠義者であれ、違反者は討ち捨てにする。ということになる。
最後の部分で矛盾が……
於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、
「敵においては、生物のたぐいであれば、ことごとく首をはねるべし。首により褒美の儀申し付くべく候」
すなわち、敵でさえあれば生き物の首は全て刎ねろという指示。馬や犬、鶏などといった動物も殺せと。そして、その首をたくさん持ってくれば、それに応じて褒美を与えようという。
ここでおかしなことに気づく。文書の前半ではあれだけ、規律を守れとか持ち場を離れるなと繰り返していたのが「首をありったけ持ってこい、褒美はそれ次第だ!」みたいな無秩序推奨の実力主義に変わってしまっている。
恐らくこれは、文脈が変わったことによるものだろう。民衆への略奪を禁じた後だから「敵だったら何でも首をとっていいぞ。その首によって褒美をやろう」と告げている。光秀がこれを書いている時に最優先で考えていたのは略奪の禁止で、そのためには罰則というムチだけでなく、褒美というアメを使った。。
このように、書いている光秀側としては、攻囲中の秩序維持と落城後の実力評価で切り分けていたのだろうけど、命令を受けた側の国衆たちからすると、混乱しか感じられなかったように思われる。
国衆からすれば、知行という長期資産を入手したかっただろう。そのためには首を取って感状を得たい。ところが、規則で雁字搦めになっていて自由競争の要素が激減。じゃあ集団のためにルールを守って粛々とやるか、と思って読み進めた挙句、「褒美は首の数次第」と言われた訳だ。
右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、
「右のおもむき、毎日油断なく下々に申し聞かせらるべく候、その期に至りて、あい残らざるものに候、その意を得られるべく候」
読み下すと大まかに意図が掴めると思うが、「あい残らざるもの」というのが意図不明。前後から推測するならば「残念なことなく」ぐらいの意味に感じられる。