2017/10/01(日)織田信長の礼状から見た贈呈物

『増訂織田信長文書の研究』より、織田信長が贈呈品への礼状を送ったものを列挙。

贈答物 目的 献上者 月日 文書番号
竹十本 音問 浅井源五郎 1552(天文21)年 07月28日 5
改年祝儀 徳川三河守 1569(永禄12)年 02月04日 補遺014
弟鷹二連[山廻・青] 音問 上杉弾正少弼 1569(永禄12)年 10月22日 201
帷二 端午節句 永原伊豆守 1570(元亀元)年 05月03日 229
折一、帷二、たひ一足 見舞 小松寺 1570(元亀元)年 06月12日 235
太刀・馬 音問 波多野右衛門大夫 1570(元亀元)年 11月24日 258
尊牘二巻 音問 大覚寺 1573(天正元)年 09月07日 405
沈香一包 陣中見舞 妙智院 1573(天正元)年 09月08日 406
祈祷巻数、菓子一籠 音問 松尾左衛門佐 1574(天正2)年 04月09日 449
鼓之革大小[若松]二懸 音問 高田専修寺 1574(天正2)年 07月20日 458
沈香一両 陣中見舞 狛左馬進 1575(天正3)年 08月13日 530
祈祷巻数、弓懸五具 陣中見舞 青蓮院 1575(天正3)年 09月03日 537
作薫物、唐墨 陣中見舞 勧修寺大納言 1575(天正3)年 09月18日 546
馬一疋[黒毛] 音問 遠藤内匠助 1575(天正3)年 10月25日 572
太刀一腰、馬一疋 昇進祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 01月17日 621
太刀一腰、馬一疋、板物三端 改年祝儀 別所小三郎 1576(天正4)年 01月28日 622
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 03月30日 631
十六島海苔一折 移城祝儀 慈照寺 1576(天正4)年 04月02日 633
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 小早川左衛門佐 1576(天正4)年 04月05日 632
饅頭一折 音問 越智玄蕃 1576(天正4)年 05月18日 補遺091
瓜十籠 普請見舞 稲葉伊予守 1576(天正4)年 07月21日 652
帷二[生絹] 八朔祝儀 長岡兵部大輔 1576(天正4)年 07月29日 655
太刀一腰、馬一疋 上洛使者 赤松孫三郎 1576(天正4)年 11月10日 671
帳一折 音問 松田豊前守 1577(天正5)年 02月26日 補遺183
枝柿之折 陣中見舞 立政寺 1577(天正5)年 02月28日 687
両種 陣中見舞 水野監物 1577(天正5)年 03月08日 689
祈祷巻数、房鞦二懸 陣中見舞 賀茂社 1577(天正5)年 03月20日 703
太刀一腰[代金壱両] 陣中見舞 水越左馬助 1577(天正5)年 05月07日 735
弟鷹十連 音問 下国(秋田愛季) 1577(天正5)年 06月01日 718
帷十、蝋燭一箱、塩引五 音問 斎藤次郎右衛門尉 1578(天正6)年 06月23日 782
弓懸二具 陣中見舞 青蓮院 1578(天正6)年 11月14日 793
小袖一重 陣中見舞 法隆寺東寺 1578(天正6)年 12月19日 802
塩引十 改年祝儀 長九郎左衛門尉 1579(天正7)年 01月19日 809
巻数、板物[薄] 改年祝儀 賀茂社 1579(天正7)年 02月14日 812
筒服 上洛祝儀 法隆寺東寺 1579(天正7)年 02月26日 814
祈祷之巻数、菓子一合、房鞦二懸 陣中見舞 賀茂社 1579(天正7)年 03月25日 819
泥障(あおり)二懸 帰陣祝儀 佐久間玄蕃 1579(天正7)年 05月07日 827
刀一腰[貞宗] 音問 長孝恩寺(長好連) 1579(天正7)年 05月12日 828
金子一枚、木綿二端 音問 法隆寺東寺 1579(天正7)年 10月17日 842
小袖、黄金十両 音問 薬師寺 1579(天正7)年 10月23日 824
金子二枚 音問 薬師寺 1579(天正7)年 11月14日 825
太刀一腰、銀子千両 祝儀 本願寺 1580(天正8)年 07月02日 876
虎革三枚、氈一 音問 本願寺 1580(天正8)年 08月02日 883
三幅一対絵[宗徽筆] 音問 本願寺 1580(天正8)年 08月16日 888
小袖、袷肩衣、袴 重陽祝儀 本願寺 1580(天正8)年 09月08日 896
蜜柑五籠 音問 本願寺 1580(天正8)年 10月24日 901
蚪(どぶがい)二籠 音問 箸尾宮内少輔 1580(天正8)年 11月27日 904
伊予鶏五居 音問 長宗我部宮内少輔 1580(天正8)年 12月25日 906
綿卅把 歳末祝儀 温井景隆・三宅長盛 1580(天正8)年 12月25日 907
五種・五荷 歳末祝儀 本願寺 1580(天正8)年 12月29日 908
銀子百両、鰤三 改年祝儀 温井景隆・三宅長盛 1581(天正9)年 01月01日 909
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 宛所不明 1581(天正9)年 01月02日 910
両種、一荷 音問 金剛寺 1581(天正9)年 06月22日 921
肩衣房十、鯖鮨三百 音問 長九郎左衛門尉 1581(天正9)年 07月18日 931
帷二、袷一 八朔祝儀 長岡兵部大輔 1581(天正9)年 07月28日 935
樽一荷 音問 金剛寺 1581(天正9)年 07月29日 922
音問 金剛寺 1581(天正9)年 09月14日 923
馬一疋 音問 長沼山城守(皆川広照) 1581(天正9)年 10月29日 959
弓懸二具、一折 陣中見舞 久我大納言 1582(天正10)年 03月25日 979
一折 陣中見舞 等持院 1582(天正10)年 03月28日 981
革袖物十 音問 上京中 1582(天正10)年 04月04日 1004
巻数、弓懸二具 陣中見舞 理性院 1582(天正10)年 04月04日 1005
馬一疋[葦毛] 音問 佐奈田弾正 1582(天正10)年 04月08日 1007
祈祷之巻数、両種 陣中見舞 梶井 1582(天正10)年 04月10日 1009
扇子 陣中見舞 青蓮院 1582(天正10)年 04月10日 1010
祈祷之祓、太麻、熨斗鮑三折 陣中見舞 伊勢慶光院 1582(天正10)年 04月15日 1012
帷二 陣中見舞 前田又左衛門尉 1582(天正10)年 04月17日 1014
太刀一腰、銀子三百両、端午帳五、肩衣袴 戦勝祝儀 本願寺 1582(天正10)年 04月25日 1016
白布二端 戦勝祝儀 長九郎左衛門尉 1582(天正10)年 05月20日 1054
生白鳥 音問 不明 年未詳 01月03日 補遺238
菱籠二、馬滑二掛 改年祝儀 明眼寺 年未詳 01月05日 1056
菱籠、馬腐 改年祝儀 明眼寺 年未詳 01月15日 1059
菱籠一、馬滑二掛 改年祝儀 不明 年未詳 01月15日 1060
鯨一折 音問 水野監物 年未詳 01月16日 690
祈祷巻数、縮羅二端 改年祝儀 賀茂社 年未詳 01月17日 1061
一万度祓太麻、生鮑五十 改年祝儀 北監物大夫 年未詳 01月20日 1062
縮羅二端 改年祝儀 加茂社 年未詳 01月24日 1065
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 関安芸守 年未詳 01月28日 1066
〓(糸+習)二端 改年祝儀 賀茂社 年未詳 02月11日 1069
鼓之革二十 音問 溝江■■ 年未詳 02月16日 1071
唐錦一巻 音問 長岡与一郎 年未詳 02月17日 1072
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 伊勢大神宮御師村山大夫 年未詳 03月04日 1074
合雑一桶 音問 箸尾宮内少輔 年未詳 03月22日 1076
両種、一荷[天野] 音問 水野監物 年未詳 04月04日 691
帷五、鮎漬二 音問 中川■■ 年未詳 04月14日 1078
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月03日 1082
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月03日 1083
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月04日 1084
帷二 端午祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 05月04日 1085
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月04日 1086
両種 音問 水野監物 年未詳 05月06日 692
帷二 端午祝儀 不明 年未詳 05月06日 1087
瓜一折 音問 水野監物 年未詳 05月24日 693
瓜十 初物 三好孫九郎 年未詳 06月02日 補遺240
背腸五桶 音問 千福遠江守 年未詳 06月07日 1091
糒十五袋 音問 楢原右衛門尉 年未詳 06月20日 1093
鰹百 音問 高木権右衛門尉 年未詳 07月02日 1095
帷三 音問 長岡兵部大輔 年未詳 07月06日 1096
馬一疋[白雲雀] 音問 白鳥 年未詳 07月15日 1098
木綿五端 音問 祐福寺 年未詳 08月19日 1101
小袖一 重陽祝儀 河嶋市介 年未詳 09月08日 1103
小袖一重 重陽祝儀 長岡兵部大輔 年未詳 09月09日 1104
雁二 音問 水野監物 年未詳 09月17日 694
両種、一荷 音問 水野監物 年未詳 09月20日 695
海鼠腸二桶、鯛十 音問 水野監物 年未詳 10月26日 696
料紙五十帖 音問 立政寺 年未詳 10月26日 1108
火筋(火箸) 音問 黒谷上人 年未詳 11月26日 補遺244
弟鷹一居 音問 村上掃部頭 年未詳 11月26日 1110
赤貝一折 音問 水野監物 年未詳 12月16日 697
白魚一折、鱸十 音問 不明 年未詳 12月24日 1115
漆一桶・蝋燭一箱、塩引五 音問 斎藤次郎右衛門尉 年未詳 12月27日 783
太刀一腰、馬一疋 改年祝儀 不明 年未詳 月日未詳 補遺237
一折 音問 九条 年未詳 月日未詳 補遺245
弓懸三具 改年祝儀 不明 年未詳 月日未詳 1116

2017/09/26(火)小田原評定とは何か

『小田原評定』という慣用句の始まり

『小田原評定』(小和田哲男・名著出版小田原文庫)では、通説での意味「まとまらない会議」としての使い方は『関八州古戦録』が最古とする。1726(享保11)年成立のこの本が初出ということは、後北条氏の活躍時期とはかなり隔たりがある。

  • 「其比関東ノ俚俗、果敢ゝゝシカラス評議ヲ小田原談合ト云触シテ、今ノ世ニテ、常談ニ伝へ、此時ニ起レル事ナリトソ」

この段階では「小田原談合」としているが、その後の『松屋筆記』では「小田原評定」・「小田原評諚」と変更している。松屋筆記は小山田与清(1783~1847年)の著作なので、100年足らずで言葉が変わってきている。これは後でまとめてみる。

同書のp17には興味深い情報が掲載されていた。

現在なお、小田原地方では「小田原の相談はまとまらず、久野の寄合はなりたたない」、あるいは「小田原評定・久野寄合は、まとまりそうでまとまらぬ」といった俚揺として生き続いている。(中略)立木望隆氏は、久野に「七軒屋敷」という地名のあるところから、そこには、幻庵の家臣七人が住み、寄合衆として「久野寄合」なるものを構成していたのではないかと推定されている。

これはむしろ、一旦全国的な文化の中に取りこまれた後で地元に逆輸入されたのではと思う。古態のまま継承されたならば、「評定」「寄合」は使われていない筈だからだ。

ということで、言葉の使い方をちょっと深く掘ってみようと思う。

戦国期の合議はどのような言葉で表現されたか

そもそも考えてみると、「評定」という言葉は同時代史料で余り見かけない。試しに自前のデータで検索してみると、「評定衆」が自らの名乗りで使っているものを除くと1点しかなかった。

  • 評定「縦豊前守雖有訴訟、一切不可及評定」茨木県立歴史館史料叢書20p255

 これは今川氏真が岩瀬彦三郎に出した判物写で、他例が圧倒的に「不可有許容」なのを考えると、「及評定」の部分は誤翻刻・誤写ではないかと思わざるを得ない。

では「寄合」はどうかというと、こちらも当時との意味が違う。戦国期には「寄せ集め」とまではいかないが、その案件用に編成された集団を意味しているようだ。昭和ぐらいまでは使われていた「寄り合い=合議」を想起してしまうが、それは当時の言い方ではない。

寄合

  1. 「是者寄合衆之番所ニ候」戦北1181
  2. 「其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候」岐阜県史資料編古代・中世4_p0864
  3. 「船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事」戦北2758

では当時どう言っていたのかというと、談合や相談が該当する。3人以上で会議のような場と思われる例だけ抜き出してみた。

談合

  1. 「各遂談合」戦武642
  2. 「各有談合」群馬県史資料編3_2184
  3. 「百姓有談合」戦北3772
  4. 「出馬可遂一戦之旨談合議定候処」戦武902
  5. 「久能之当在城衆可有談合之事」戦武1396
  6. 「長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合」戦武2155
  7. 「信州衆・箕輪在城之衆以談合鉢形へ相働」埼玉県史料叢書12_0544
  8. 「本郷の町人とも致談合」戦北2273
  9. 「町人中致談合」戦北2543
  10. 「右之郷中有談合」静岡県史資料編8_1745
  11. 「其上之行者於陣中可談合申候」戦北3872

相談

  1. 「各被相談一途遂本意候者快然候」戦今638
  2. 「兄弟八人相談」戦今1113
  3. 「由木上下之強人相談」戦北662
  4. 「退衆相談」岐阜県史資料編古代・中世補遺p356
  5. 「諸家中各ゝ相談」戦古860
  6. 「但乱後間、代官・領主・百姓相談」戦北724
  7. 「庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談」埼玉県史料叢書12_0322
  8. 「各一味ニ被相談簡要候」戦北1244
  9. 「各相談可走廻候」戦北1212
  10. 「身類中并寄親令相談」戦北1598
  11. 「各味方中相談」戦北1660
  12. 「各可相談候」戦北1923
  13. 「各被相談」埼玉県史料叢書12_054
  14. 「今度猿ヶ京衆相談」戦北2163
  15. 「各相談」戦北2119
  16. 「高野・根来・其元之衆被相談」証言本能寺の変第4章13
  17. 「治部少輔同心・被官相談」戦北2365
  18. 「郷中百姓其外給衆相談」戦北3105
  19. 「縦憐郷・他郷之百姓と成共相談」戦北3602
  20. 「御門徒中有相談」戦武713
  21. 「各令相談」増訂織田信長文書の研究969

まとめ

上記からすると『小田原評定』も『久野寄合』も戦国期の言葉として奇妙で、小田原評定は存在が危うく、久野寄合は別の意味(久野に暫定集合した人たち)となってしまう。「相談」は問題がないが、それに次いで他出する「談合」が出てこないという点から、言葉の成立がいつぐらいかの推測はできそうだ。

合議の語彙として「相談」が生き残りつつ、「談合」は外れてしまい、新たに「寄合・評定」が入ってきた時期。恐らく近世だろう。

小田原に加えて久野が出てくるとなると、早川用水・荻窪用水を巡る利権調整が難航したことを指すようにも見えてくるが、これ以上は近世に詳しくないため判断できない。

史料で出てきた『小田原評定』的な北条氏政の発言

巷間に出回った『小田原評定』は天正18年の小田原攻め直前に設定されているのだけど、実はその8年前に印象的な文書がある。

天正10年に北条氏政が奔走している時のもので、この時は武田滅亡に際して正規の情報が全く入ってこなくて焦っていた。終日談合しているとしながら、西上野・甲斐・駿河のどこから攻め込むかは不明だがとにかく出陣の準備を急げと指示している。この文書の方がよほど『小田原評定』に近いような感じ。

  • 戦国遺文後北条氏編2311「北条氏政書状」(三上文書)

    幸便之間申候、信州模様必然之儀者、昨日自是申候キ、今日者終日及談合候、動之様子無落着候、先早ゝ多波川迄諸口之人数可打着由、立早飛脚候、其内遂工夫、西上州へ成共、甲州表へ成共、駿州表へ成共、可有行迄候、猶ゝ急速ニ御用意専一候、当方弓矢此時候、恐ゝ謹言、
    二月廿日/氏政(花押)/安房守殿

幸いな便があったのでお伝えします。信濃国の状況(武田家滅亡)は必然であること、昨日こちらから申しました。今日は終日談合していました。作戦の内容は定まりません。まずは早々に多摩川まで諸口の部隊を徴集させるとのことで、早飛脚を立てました。その内に段取りにつけて、西上野国なり、甲斐方面なり、駿河方面なりに動員があるでしょう。なお、急速にご用意なさるの大切です。我々の勝負が決するのはまさにこの時です。

2017/09/24(日)戦国期の「成次第」の意味

後北条氏の例

個別の用例

動員に関して書かれているものは「可能であれば」と読むと前後の文と繋がる。

これは人の動員。「知行の少ない者たちは、全体的な記述基準に合わせて歩兵と書いているが、可能であれば馬上で活躍する心構えでいてほしい」としている。

  • 戦国遺文後北条氏編3229「北条氏政着到書出写」(井田氏家蔵文書)

    (抜粋)同心衆内、少給之衆、惣並故、歩兵ニ記之候、成次第馬上も以、可走廻者、可為心操者也

また下記の例だと、急遽大きな合戦が予定されていたため、珍しく低姿勢で動員をかけている。

  • 戦国遺文後北条氏編3245「北条氏政判物写」(浅草文庫本古文書)

    (抜粋)武具之品ゝ者、日数無程候間、此砌者、調間敷由、校量候、手前之不足ニ有間敷候間、成次第尤候、畢竟能衆上下共ニ被撰出人数、無相違召連、専一候

この中で武具については「日数が無いので、この際は準備できないだろうと考え、本来は許されないが、可能な限りということでよい。とにかく良い兵を上下ともに選出して、間違いなく連れてくるのが大切だ」としている。

少し違う用例

「可能な限り」ではない例でいうと、長柄鑓につける箔について、金でも銀でも可としつつ、「多少は『成り次第』」と書いている。これは箔をつける分量を指しているから「箔の多少は成り行き=適量で」という意味になるだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編3830「北条家ヵ着到定書」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

    (抜粋)拾本、鑓長柄、金銀之間何与成共可推、多少者成次第、二重紙手朱

もう一つ、こちらは氏政上洛に関しての資金徴収に関するもの。納めるものは永楽銭・黄金・麻の三種類で、「これら三つのうちで『成り次第』準備するように」としている。文からして「可能な限り」や「成り行き=適量」ではなく「可能なもの」と解釈すべきだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編3517「北条氏忠朱印状」(神奈川県立公文書館所蔵・山崎文書)

    出銭之書出。壱貫八百四十八文。右、御隠居様就御上洛、出銭被仰付候、来晦日を切而可調、此日限相違付而者、可為越度、永楽・黄金・麻、此三様之内成次第可調、仍如件、
    丑十月十四日/(朱印「楼欝」)/高瀬紀伊守殿

織田信長の例

これは信長が家康に、足利義昭との不和から追放に至った経緯を説明したもの。色々と説得したが承知してもらえずに「『成り次第』のほかは選びようがなく」と書いている。これは「成り行き」だと考えてよいだろう。

  • 増訂織田信長文書の研究0367「織田信長黒印状」(古文書纂卅五所収・京都市小石暢太郎氏所蔵文書)

    就上洛之儀、以小栗大六承候、祝着之至候、今度公儀不慮之趣、子細旧事候哉、於身不覚候、君臣御間与申、前々忠節不可成徒之由相存、種々雖及理、無御承諾之条、然上者成次第之外、無他候て、去二日・三日両日洛外無残所令放火、四日ニ上京悉焼払候、依之徒其夕無為之儀取、頻御扱之条、大形同心申候、於時宜者可御心易候、猶大六可申候、恐々謹言。横山辺迄可有御見廻■候、其ニ不及候、遠三表之事、無油断可被仰付事簡要候、爰元頓而可開隙候之間、令帰国可申述候、
    卯月六日/信長(黒印)/三河守殿進覧之候

まとめ

  1. 可能であれば
  2. 成り行き=適量
  3. 調達などで可能なもの
  4. 成り行き=状況の推移のまま