2017/06/25(日)家忠日記に見る徳川家康の妻・母

月日 呼称 比定 記述 備考
1578(天正6)年 2月4日 信康御母さま 築山殿 大雪ふり三尺、信康御母さまより音信被成候
1580(天正8)年 2月17日 おハり御新造様 信長長女 おハり御新造様美濃江一円ニ御越候とて、浜松殿岡崎江御越候
2月18日 御新造様 信長長女 岡崎江越候而城江出仕候、明後日廿日御新造様おくりニ越候へ之由仰にて、ふかうすかへり候
2月20日 御新造様 信長長女 御新造様送ニ尾州おけはさま迄越候
1583(天正11)年 2月6日 岡崎御屋敷様 伝通院 岡崎御屋敷様御越にて殿様迎ニ出候、供にて出候 古書に書き込まれた鉛筆書きでは「石川家成母の妙春尼か」と比定
1585(天正13)年 4月15日 岡崎御屋敷様 伝通院 岡崎御屋敷様、石伯耆守所へ当年之礼にこし候、ふかうすへ日かへりニ帰候
1586(天正14)年 4月11日 羽柴筑前守妹 秀吉妹 ■ハ羽柴筑前守妹家康へ御こし入候
9月13日 御屋敷様 不明 浜松迄帰候、御屋敷様御越候 人名索引は家康本人、古書書き込みは家康母・妙春尼に比定
11月16日 御前様 秀吉妹 御前様はま松へ御帰候 日記他箇所:11日に家康が三河帰還、12日に大政所帰京
1587(天正15)年 4月5日 御前さま 秀吉妹 御前さまくさつのゆへ御入候
1588(天正16)年 3月5日 御前様 秀吉妹 御前様御上洛被成候
3月23日 御大方様 伝通院 御大方様三川へ御越候 日記他箇所:14日に家康は上洛
閏5月6日 御前様 秀吉妹 御前様御迎ニらいくわうし迄こし候、御前様より大儀にて越候由にて御使候
6月22日 御前様 秀吉妹 殿様大坂大政所様御煩以外ニ而上へ御のほり候由申来候、御前様ハ夜通御とをり
9月8日 御前様 秀吉妹 御前様御迎ニにしの野迄こし候
9月9日 御前さま 秀吉妹 御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて、御音信之人をこし候
10月6日 にしのこほり殿 督姫母 柏原一庵ニ駿川にしのこほり殿夢想之連歌にこし候
1589(天正17)年 2月26日 御大方様 伝通院 御上洛御大方様御煩故延候、
3月1日 御大方様 伝通院 竹與次郎大方様御煩見舞被越候
5月21日 御袋西郷殿 秀忠母 駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候
5月22日 西郷殿 秀忠母 竹谷與次郎同心候、西郷殿御とふらいに見付迄こし候 日記他箇所:24日「りうせんしにて御ちうゐん之御とふらい申候」
1592(天正20/文禄元)年 4月2日 御大方様 伝通院 御大方様より、普請場へ御たる、ほかい給候
4月12日 御二方様 伝通院 御二方様ニ、今度から入御陣祈念之連歌ニて越候
1593(文禄2)年 7月4日 御大方様 伝通院 こさしきたて候、御大方より御たる、肴給候

2017/06/21(水)俗にいう「北条早雲」は、同時代で何と呼ばれていたか

後北条氏初代に数えられる伊勢盛時(早雲寺殿)が、同時代の文書でどう呼ばれていたかを、手持ちのデータからまとめ。

本人は一貫して「宗瑞」と署名している。

山内上杉は顕定・憲房ともに「早雲」は使っていない。今川方の伊奈・大井は「早雲」を用いている。扇谷上杉方だと、三浦道寸は「伊勢入道」と呼ぶが建芳は「早雲庵」としている。また、伊勢盛時との対陣に言及している三不軒は「早雲」と3回も呼んでおり、敵味方で呼び分けがあった訳ではなさそう。

1496(明応5)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6406

1504(文亀4/永正元)年上杉顕定「伊勢新九郎入道」神3下6439

年欠上杉顕定「伊勢宗瑞」神3下6478

1506(永正3)年伊奈盛泰「早雲」戦今182 大井宗菊「伊勢早雲庵」戦今183

1509(永正6)年三不軒「早雲」埼叢書12_27

1510(永正7)年上杉憲房「伊勢新九郎入道宗瑞」駿河台大学論叢第41号11 三浦道寸「伊勢入道」埼叢書12_46

1511(永正8)年福島範為「早雲庵・早雲」戦今243

1517(永正14)年上杉建芳「早雲庵」埼叢書12_78

三不軒書状

追令啓候。屋形上州へ調儀無候、思慮候而大切存候処、思之外ニ急度之事、諸人大慶可為御歓喜候、殊可然之時節帰城、早雲致打向候事、言宣不及候、然候御一戦之有無者各実候旨、御心安候、早雲も徒送日在陣者如何、定而取除候、然者令入馬上上州以来、諸人被致休労、嘱可有調儀候歟、■相調候上、御吉事遂日可相重、端々被入馬者葛西へ可有与存候、今度早雲打押付候与申入体■而可有之候歟、此間御歓楽与申、御心尽察入■、至于我々も■上ニ、尚病重成候き、下口之事、何篇可有御心安候、遂然々与御様体不承候、別条儀不可有之候、恐々謹言、
八月廿日/三不軒聖■(花押影)/北へ参
埼玉県史料叢書12_0027「三不軒某書状写」(温故雑帖五)

2017/06/18(日)鵜殿氏記録まとめ 戦国遺文今川氏編

鵜殿氏は熱心な日蓮衆徒で、宗教的な記録が多い。

●1499(明応8)年

7月5日 鵜殿千々代丸に法名長祐が与えられる 125

●1506(永正3)年

6月 鵜殿地久・日濃が本興寺に妙法蓮華経を寄進 176

●1513(永正10)年

6月17日 鵜殿三郎長将に法名応仙が与えられる 267

●1545(天文14)年

2月15日 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の法華経願主に「藤原朝臣鵜殿長持・鵜殿玄長居士・鵜殿将元・鵜殿長景・鵜殿長親・鵜殿長治・鵜殿鶴寿丸・鵜殿地久息女富田殿・鵜殿藤助長忠のほか、松平玄蕃允息女竹谷殿・松平左馬助息女下殿」が見られる 770

2月 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の曼荼羅裏書に「施主 鵜殿家一族・藤原朝臣長持・藤原朝臣長忠・松平玄蕃允」が見られる 771

●1549(天文18)年

2月28日 法橋日治が権律師に任じられる。休庵に比定 890

●1552(天文21)年

11月15日 遠州本興寺の仏殿棟札に大檀那鵜殿長持とある 1112

●1560(永禄3)年

6月12日 氏真が鵜殿十郎三郎に11月19日・5月19日の戦功を賞す 1546

●1561(永禄4)年

4月16日 氏真が鵜殿十郎三郎に、休庵の報告で同名藤太郎が無二の馳走をしたと聞き知行を約す 1686

8月12日 氏真が藤太郎に、9日に岡崎人数を迎撃したことを賞す 1734

9月10日 吉良義昭が鵜殿十郎三郎に、形原での戦功を賞す(要検討) 1745

●1562(永禄5)年

2月6日 松平元康は、伴与七郎が鵜殿藤太郎を討ち取ったことを賞す 1791

6月11日 日扇が鵜殿八三に、藤太郎生害に言及。但し八三の父の死後連絡が滞っていたというので八三は藤太郎の息子ではない 1817

6月11日 日扇が鵜殿又三郎に、西郡落城と藤太郎生害に言及 1818

6月11日 長応寺真俗中に「西郡落城、鵜殿藤太郎殿御傷害、殊ニ真俗中御牢人被成御事」と言及 1821

9月13日 氏真が休庵に「其春同名藤太郎討死」の後も今川方に留まったことを賞す 1864

12月14日 氏真が岩瀬彦三郎に「鵜殿三郎於知行之内百貫文」を改めて支給 1883

●1563(永禄6)年

5月28日 氏真が遠州本興寺に檀那の休庵の口添えで権利保護を行なう 1919

●1565(永禄8)年

1月26日 氏真が鵜殿三郎に20日の吉田西手崎堤の戦功を賞す 2025

2月3日 氏真が吉田城兵粮で300俵のうち200俵は鵜殿休庵・大原弥左衛門が立て替えたと言及 2027

●1567(永禄10)年

7月3日 氏真が遠州本興寺に制札を出し、檀那の休庵を取次に指定 2135

●1568(永禄11)年

2月26日 家康が二俣に在城していた鵜殿三郎・藤九郎・休庵らに起請文と知行安堵を出す 2219

●年未詳

3月10日 日意が鵜殿玄長入道に、京都上洛中の奔走を謝す 1395

3月28日 鵜殿長持が安心を糾弾(要検討) 1008

5月13日 日覚が鵜殿玄長に返信して御国静謐を喜ぶ 1396

7月25日 日扇が又三郎に、返書の返書を送る 1819