2017/06/18(日)鵜殿氏記録まとめ 戦国遺文今川氏編

鵜殿氏は熱心な日蓮衆徒で、宗教的な記録が多い。

●1499(明応8)年

7月5日 鵜殿千々代丸に法名長祐が与えられる 125

●1506(永正3)年

6月 鵜殿地久・日濃が本興寺に妙法蓮華経を寄進 176

●1513(永正10)年

6月17日 鵜殿三郎長将に法名応仙が与えられる 267

●1545(天文14)年

2月15日 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の法華経願主に「藤原朝臣鵜殿長持・鵜殿玄長居士・鵜殿将元・鵜殿長景・鵜殿長親・鵜殿長治・鵜殿鶴寿丸・鵜殿地久息女富田殿・鵜殿藤助長忠のほか、松平玄蕃允息女竹谷殿・松平左馬助息女下殿」が見られる 770

2月 三河宝飯郡蒲形庄長応寺の曼荼羅裏書に「施主 鵜殿家一族・藤原朝臣長持・藤原朝臣長忠・松平玄蕃允」が見られる 771

●1549(天文18)年

2月28日 法橋日治が権律師に任じられる。休庵に比定 890

●1552(天文21)年

11月15日 遠州本興寺の仏殿棟札に大檀那鵜殿長持とある 1112

●1560(永禄3)年

6月12日 氏真が鵜殿十郎三郎に11月19日・5月19日の戦功を賞す 1546

●1561(永禄4)年

4月16日 氏真が鵜殿十郎三郎に、休庵の報告で同名藤太郎が無二の馳走をしたと聞き知行を約す 1686

8月12日 氏真が藤太郎に、9日に岡崎人数を迎撃したことを賞す 1734

9月10日 吉良義昭が鵜殿十郎三郎に、形原での戦功を賞す(要検討) 1745

●1562(永禄5)年

2月6日 松平元康は、伴与七郎が鵜殿藤太郎を討ち取ったことを賞す 1791

6月11日 日扇が鵜殿八三に、藤太郎生害に言及。但し八三の父の死後連絡が滞っていたというので八三は藤太郎の息子ではない 1817

6月11日 日扇が鵜殿又三郎に、西郡落城と藤太郎生害に言及 1818

6月11日 長応寺真俗中に「西郡落城、鵜殿藤太郎殿御傷害、殊ニ真俗中御牢人被成御事」と言及 1821

9月13日 氏真が休庵に「其春同名藤太郎討死」の後も今川方に留まったことを賞す 1864

12月14日 氏真が岩瀬彦三郎に「鵜殿三郎於知行之内百貫文」を改めて支給 1883

●1563(永禄6)年

5月28日 氏真が遠州本興寺に檀那の休庵の口添えで権利保護を行なう 1919

●1565(永禄8)年

1月26日 氏真が鵜殿三郎に20日の吉田西手崎堤の戦功を賞す 2025

2月3日 氏真が吉田城兵粮で300俵のうち200俵は鵜殿休庵・大原弥左衛門が立て替えたと言及 2027

●1567(永禄10)年

7月3日 氏真が遠州本興寺に制札を出し、檀那の休庵を取次に指定 2135

●1568(永禄11)年

2月26日 家康が二俣に在城していた鵜殿三郎・藤九郎・休庵らに起請文と知行安堵を出す 2219

●年未詳

3月10日 日意が鵜殿玄長入道に、京都上洛中の奔走を謝す 1395

3月28日 鵜殿長持が安心を糾弾(要検討) 1008

5月13日 日覚が鵜殿玄長に返信して御国静謐を喜ぶ 1396

7月25日 日扇が又三郎に、返書の返書を送る 1819

2017/05/30(火)北条氏規と氏政の上洛費用を、氏直は支払えたか

2万貫文といわれる北条氏規上洛費用が、どの程度の負担率だったかを考えると、秩父孫次郎の役高金額が必要になる。しかし孫次郎の着到は前欠で貫高が不明だ。そこで他の人間の着到から推測してみる。

池田孫左衛門尉の着到は191.6貫文で56人(戦北2258)
一人当たり3.42貫文

とすると……

秩父孫次郎の着到はx貫文で139人(戦北2316)
一人当たり3.42貫文ならば、x=475貫文

孫次郎が割り当てられた氏規上洛費用は50貫文。役高のうち10.5%となる。手取りの1割をいきなり抜かれるのは痛いだろうなと思いつつ、合っているかを後北条氏全体の貫高から検算。但し、データが少ないため累進賦課の可能性を考慮できないので除外。

全員が収入の10.5%固定賦課だとして、
2万貫文の総額を得るためには役高21万貫文が必要。

永禄2年時点の所領役帳は総役高が72,168貫文。これは被官たちの役高で直轄領は含まれていない。21万貫文への不足分137,832貫文が直轄領だったと考えると妥当性がありそうに見える。蔵出し分をどうカウントするかが微妙だが、被官分のほぼ2倍が直轄という試算。

この条件をもとに、今度は氏政上洛時の負担額をどこまで追えるか考えてみる。ただ、金額が明示されているのは佐野氏忠の被官である高瀬紀伊守のみで心もとなくはあるのだが……。

高瀬紀伊守は家臣団辞典で50貫文の役高と想定。
紀伊守の氏政上洛費用割り当ては1.848貫文で、役高に比して3.7%(戦北3517)

氏規(秩父孫次郎)の時より賦課率は減っている。賦課母数の21万貫文から考えると3.7%では7,770貫文しか集められない。

使者に過ぎない氏規よりも、当主代行として正式な出仕となる氏政の方が費用が上回るだろうから、矛盾している。

佐野衆の高瀬紀伊守は外様で強制力が低かったのかも知れない。3.7%を下限に10.5%が平均になるとして上は17.3%。直轄領と一門には特別分厚い賦課がかかっていたのだろうか。

ここで気になるのが氏邦の下記の記述

「2万貫文の費用のうち、300~400貫文が私の負担になるだろう」(戦北3334)

氏邦は後北条家全体から見て1.5~2%の負担が自らに課されると予測している。

氏邦の役高は不明で所領役帳にも入っていないのだけど、直轄領と比較してしまうと圧倒的に小さい規模なのかも知れない。それでもこの苦しみ方な訳で、それを上回る氏政出仕費用を、後北条氏が順調に集金できていたのかは疑問に思えてならない。

2017/05/21(日)『家忠日記』における鉄炮衆の記述

派遣されたり戻ってきたりの記述が殆どで、実際にどう戦ったかは書かれていない。

1578(天正6)年

  • 11月11日「家康よりちやくとうつけ被侍八十六人中間百二十六人鉄放十五ハリ弓六張鑓廿五本有鑓持三人」
  • 11月30日「牧野へ鉄放衆廿人籠候」
  • 12月06日「牧野鉄放衆かへり候」

1579(天正7)年

  • 08月05日「自家康早ゝ弓てんはうの衆つれ候て、西尾江越候へ被仰候て、にしをへ越候」

1582(天正10)年

  • 07月12日「鉄放衆信濃■田■へ二人■■」
  • 10月06日「ミたけこやへ、鉄放衆番ニ一人つゝ越候」

1593(文禄2)年

  • 01月23日「去年春中大納言様つくしへ御出陣之刻たて候てつはう衆二人、中間二人帰由候」
  • 01月26日「去春筑紫へ遣候鉄炮衆上下四人、御返候、そとくちにてあい候」