2018/04/02(月)両属的被官の推測

今川と後北条の間をつなぐ人物を調べていて、気になる存在を見つけたので備忘。

岡部出雲守の存在

酒匂川左岸の河口部にある「酒匂郷」の駒形神社にある御神体裏書に「代官岡部出雲守広定」という記載がある(天文22年7月2日・戦北4873)。

この人物が後北条方史料で出てくるのはここだけで、永禄3年の虎朱印で酒匂郷の代官は小島左衛門太郎が代官となっている(5月28日・戦北630)。小島左衛門太郎は、先の御神体裏書に檀那として登場した「小島左衛門太郎正吉」と同一人物だろう。永禄2年の所領役帳にも岡部広定は出てこないので、それ以前に後北条家を去った可能性が高い。

一方で、今川家中にも「岡部出雲守」が出てくる。三河国吉田にある神明社宝殿の棟札に今川義元奉行衆として「岡部出雲守輝綱」が出てくる(天文19年11月17日・戦今986)。更に遡ると、天文7年にも、同じ神社と思われる棟札銘に、同じく義元奉行として「輝綱」が現れる(11月8日・戦今615)。

出現時期が連続しているので、同一人物とみてよいと思う。

  • 天文7~19年     今川義元被官(奉行)岡部出雲守輝綱
  • 天文22年~永禄元年? 後北条氏被官(代官)岡部出雲守広定

今川当主からの偏諱を考えると、親綱と元網の間に輝綱が存在したとするのは自然で、3人ともに「綱」を通字とする岡部家の嫡流であるといえる。

もう一段踏み込んで推測してみる

この輝綱が今川家に戻った際、官途名を出雲守から和泉守に変えたと考えられるのではないか。

  • 天文7~19年     今川義元被官(奉行)岡部出雲守輝綱
  • 天文22年~永禄元年? 北条氏康被官(代官)岡部出雲守広定
  • 永禄2年?~永禄11年 今川氏真被官(代官)岡部和泉守某
  • 永禄11年~元亀3年  北条氏政被官(代官)岡部和泉守某

すると、実名不詳の岡部泉守の正体が浮かんでくる。

和泉守は妙な動きをしていて、永禄11年の内から北条氏規奉者となったり、それ以後も氏政から親しく指示を受けたりと、今川家に知行を持ちながらも、後北条被官としか思えない行動をとっている。これを、3年程度の短い期間だが後北条家中で事務処理を学び氏政とは知己だったとすれば、これらは自然なものに見える。

岡部元信にも似たような動き

同族の岡部五郎兵衛尉元信も、天文21~永禄3年の所在地が定かではない。

武田晴信書状「二三ヶ年当方在国之条、今度一段無心元之処」(戦今1547)や今川氏真書状「元信有子細、近年中絶之刻」(戦今1573)「彼本知行有子細、数年雖令没収」(戦今1544)から、どうも甲斐にいたようだ。

岡部元信の場合は、その父玄忠から他の兄弟への相続で揉めたことが判っている。輝綱も同時期に同じような相続で揉めて今川家を離脱し、名を「広忠」と変えて相模で代官となっていたとも考えられる(「広」の偏諱の出所が不明だが「康」を誤読した可能性もあるかも知れない)。

被官の在り様はまだまだ不明

岡部出雲守・和泉守に話を戻す。

酒匂郷は箱根権現と関係が深く、駒形神社も箱根駒ヶ岳の元宮に関連するものだという。所領役帳にも「酒匂筥祢分」が、箱根権現別当職である北条宗哲の知行として出てくる。このことから、宗哲が仲介して代官に岡部広定を任命したという仮説も成り立つ。ただし、酒匂郷は後北条直轄領の蔵があった要地で、当主氏康が自ら広定を代官に任じた方が可能性が高いように思う。そうした中で、氏康から氏政、義元から氏真という両家の家督継承を契機に今川家に出戻ったのではないか。

史料の限界から決定的な判断はできないものの、岡部出雲守の例は、被官関係の両属性というか、支配関係の曖昧さを表わす可能性を秘めているように感じる。

2018/03/30(金)羽柴方から見た韮山城攻防戦

意外と健闘していた韮山城

1590(天正18)年の韮山城攻めを羽柴方から見てみる。1日で落城した山中城と比較すると、開城を呼びかけさせるために緩やかな攻撃に留めたという説もあるが、それなりに本格的な攻城をしている。

4月8日 羽柴秀吉→加藤清正

即日落城した山中城について書く一方、小田原と韮山は干殺にすると報告している。この段階で韮山城は長期戦となる予想を立てていたようだ。

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書仰遣、去月廿七日至三枚橋被成御着座、翌日ニ山中・韮山躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄、其外所々出城数十ヶ所退散候条、付入小田原ニ押寄、五町十町取巻候、一方ハ海手警船を寄詰候、三方以多人数取廻、則堀・土手・塀・柵已下被仰付置候、北条首可刎事、不可有幾程候、猶様子者不可気遣候、次韮山儀も付城・堀・塀・柵出来候、是又可被干殺候、委細長束大蔵大夫可申候也、
四月八日/朱印/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3022「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

こちら方面の状況を聞いて飛脚を付け置いたとのこと。尤もなことでお喜びになっています。先の書状で書いたように、先月27日に三枚橋にご着座なされ、翌日に山中・韮山の状況をご覧になりました。29日に山中城攻めを中納言に命じられ、即時に攻め崩し、城主松田兵衛大夫を初めとして千余人を討ち取りました。これにより箱根・足柄その他所々の出城数十ヶ所が退散しましたから、付け入って小田原に押し寄せました。5~10町の距離で取り巻いています。一方で海上には警固船が寄せ詰めています。三方を多数で包囲し、堀・土手・柵以下を配置なさいました。北条の首を刎ねるのは程なくでしょう。更に様子の気遣いをなさいませんように。次に、韮山にも付城・堀・柵ができました。こちらもまた干殺しになさるでしょう。詳しくは長束大蔵が申します。

4月29日 羽柴秀吉→駿河清見寺

駿河国清水寺から、韮山城攻囲のための梵鐘を借り出している。恐らく、韮山を囲む戦線に起伏があり、なおかつ長大になったために大きな鐘が必要になったのかも知れない。

当寺撞鐘之義、韮山取巻候者共ニ借遣候、為奉行石川兵蔵・新庄新三郎可相渡候也、
四月廿九日/(羽柴秀吉朱印)/清見寺

  • 豊臣秀吉文書集3045「羽柴秀吉朱印状」(清見寺文書)

当寺の鐘のこと。韮山を包囲している者たちに貸すため送ります。石川兵蔵・新庄新三郎を奉行とするのでお渡し下さい。

5月6日 羽柴秀吉→稲葉貞道・前野長康・生駒親正

この時、仕寄(包囲設備)を頑丈にしたなら「かねほり=坑夫」を派遣すると告げている。戦線が膠着していたようだ。

其方手前仕寄丈夫ニ申付候者、かねほりを可被遣候間、手堅申付候て、様子可言上候也、
五月六日/(羽柴秀吉朱印)/羽柴郡上侍従とのへ・前野但馬守とのへ・生駒雅楽頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3197「羽柴秀吉朱印状」(個人蔵)

そちらの手元にある仕寄を頑丈にするよう指示したなら、金掘りを派遣しますので、手堅く指示して状況を報告して下さい。

6月2日 羽柴秀吉→福島正則

ここでようやく、「下丸」を攻め崩して放火している。「下丸」がどこかは不明だが、丘陵地ではない部分、韮山高校の敷地、もしくはその外側にあった曲輪ではないかと考えている。

味方に負傷者が出ないように静かに攻めろという指示が出ているが、これは秀吉自らが力攻めを命じた岩付攻城でも使われている言葉であり、韮山攻めが特別に加減されていた訳ではない。

昨日申刻、韮山下丸乗崩、令放火之由、神妙之動候、然者かね掘可被遣候条、寄能山之方へ仕寄可相付候、手負無之様、土手丈夫仕出、静ニ可取寄候、猶福原右馬助・木下半介可申候也、
六月二日/(羽柴秀吉朱印)/福島左衛門大夫とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3259「羽柴秀吉朱印状」(永青文庫叢書・細川家文書)

昨日申刻に、韮山下丸を乗り崩して放火したとのこと。神妙な働きです。ということで金掘りを派遣するでしょうから、うまく山の方へ寄せるよう指示して下さい。怪我人が出ないように土手を丈夫に作って、静かに寄せて下さい。更に福原右馬助・木下半介が申します。

6月7日 羽柴秀吉→加藤清正

戦果を報告した末尾に「韮山ニ後端城五ツ乗取之候」とある。「後端城」は本城の南東にある天ヶ岳の山岳部分を指すかと思われる。しかし、落城は近いだろうと書いていることからして、まだ抵抗を続けている。

去月六日書状、去三日被加御披見候、依小田原之儀、弥丈夫ニ仕寄等被仰付候、依之城中続夜日及難堪、欠落候輩雖有之、於其端被加御成敗、又ハ被追返候間、上下被為干殺を相待迄候、昨夜和田家来之者百余、家康江相理、小屋ゝゝニ火を掛、走出候、雖可被成誅罰、家康江兼々心合候由候条、被助置之候、関八州之儀、城々悉相渡候、其内岩付・鉢形・八王寺・忍・持井、何も命者被相助候様ニと、北条安房守御侘言申上候へ共、不被入聞召、右之内武州岩付ハ北条十郎城ニ而候、八州ニ而用害堅固之由被召及、可然所より先可責干之旨被仰遣、則木村常陸介・浅野弾正少弼・山崎・岡本、家康内本多・鳥居・平岩以下弐万余、岩付へ押寄、即時ニ外構共被破、千余討捕之、本城一之門江相付候、然者城中可然者大略討死ニて、残者町人・百姓、其外妻子類迄ニ候、十郎者小田原ニ在之間、命之儀被為助候様ニと申上候条、城受取渡被仰出候、十郎妻子を初、悉被召籠置候、死残候者長度者同前候、八州城より小田原ニ籠城之者、妻子共何も右之分へ、其趣小田原へ相聞、弥令難儀無正躰旨、欠落之者申候、安房守儀不打置、被成御助候様ニと歎申、既鉢形江者、越後宰相中将・加賀宰相・浅野・木村を初、五万余被発向候、忍城江者、石田治部少輔ニ佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺被相添、以二万余可取巻旨雖被仰出候、脇ニ仕候岩付城被加御成敗上者、命計相助、城可請取旨被仰遣候、奥両国面々不残参拝、其内伊達参上仕候、彼手前之儀、此頃押領之地可返上由、堅被仰出、御請申候、弥不相替可被成御対面候、将亦韮山ニ後端城五ツ乗取之候、日々夜々仕寄無由断被仰付候間、落居不可有程候、猶山中橘内可申候也、
六月七日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭殿へ

  • 豊臣秀吉文書集3265「羽柴秀吉朱印状写」(阿部氏家蔵豊太閤朱印写)

去る月の6日の書状、3日に拝見しました。小田原のことは、ますます丈夫に仕寄を指示しています。これによって城中は日を追って耐え難くなり、逃亡する者が出ました。その度に成敗しています。また、追い返してもいて、城内上下が餓死するのを待っています。昨夜は和田の家来100名以上が家康に連絡して、複数の小屋に放火して脱走しました。誅罰を加えるつもりでしたが、家康へ以前より心を合わせているとのことだったので、助命しました。関八州では城々は全て制圧しました。そのうちで岩付・鉢形・八王子・忍・津久井は、どこも助命嘆願が北条氏邦からありましたが、受け入れませんでした。右のうちで岩付は北条氏房の城です。八州では要害堅固と聞いて、そういう場所から攻め落とそうと指示しました。そして木村一・浅野長吉・山崎片家・岡本良勝、家康の家中からは本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉という2万余りが岩付へ押し寄せ、即時に外構を破り1千人以上を討ち取りました。本城の一の門に兵をつけたところ、城中の主要な者は殆ど戦死して、残りは町人・百姓とその妻子だけで氏房は小田原にいるので、命は助けてもらえないかと懇願がありました。そこで城を受け取らせました。氏房妻子をはじめとして、全員を拘束しています。生き残った者で主だった者も同然です(「長度」は「長敷」の誤記と想定)。八州の城から小田原に籠った者の妻子は右のようになると、その様子は小田原にも聞こえていて、いよいよ難儀してうろたえていると、逃亡した者が言っています。氏邦のことは打ち置かず、お助け下さいと嘆願しています。既に鉢形へは上杉景勝・前田利家・浅野長吉・木村一をはじめ、5万余りが進軍しています。忍城へは石田三成に佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺を添えて2万余りで包囲せよと指示しました。その脇にある岩付城に成敗を加えた上は命だけは助けて城を接収せよという指示です。奥羽両国の面々は残らず参拝し、その内で伊達は参上しました。あの手前のことから、この頃占領した土地を返上せよと堅く命じ、受諾。特に変わったこともなく対面が終わりました。一方で、韮山で後ろ端にある城を5つ乗っ取りました。日夜仕寄を油断なくするように指示していますから、落城はすぐでしょう。更に山中橘内が申します。

6月7日 徳川家康→北条氏規

「後端城五ツ乗取」を羽柴秀吉が報告したのと同日、徳川家康は籠城中の北条氏規に降伏を勧告している。度々勧告を送っていたのが判る。この文書が伝来したことからすると、これが最後の勧告でこの後程なく開城したのではないかと推測できる。

態令啓候、仍最前も其元之儀及異見候之処ニ、無承引候之き、此上者、被任我等差図、菟角先有下城、氏政父子之儀、御侘言専一候、猶朝比奈弥太郎口上相含候、恐ゝ謹言、
六月七日/家康(花押)/北条美濃守殿

  • 戦国遺文後北条氏編4542「徳川家康書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

折り入ってご連絡します。さて前にもあなたに意見をしたところ、承認いただけませんでした。こうなった上は、私の考えにお任せいただき、とにかく下城して氏政父子のことを嘆願するのが専一です。更に朝比奈泰勝が申します。

6月28日 羽柴秀吉→加藤清正

この日に初めて、韮山開城が確認できる。この時点で残されていたのは小田原と津久井、忍の3箇所のみ。小田原より早く開戦当初から攻撃されていた韮山は、小田原とほぼ同じ防御期間を記録したことになる。

関東御陣為見舞、使者殊筒服一・帷子百到来、遠路切々懇志思召候、仍此表之儀、弥無残所被仰付候、武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候、同国八王子城要害堅固ニ付、敵歴々之者共余多楯籠候条、越後宰相中将・加賀宰相・越中侍従・木村常陸介・山崎志摩守ニ被仰付、去廿三日則時責崩、悉討果、大将分十人、其外弐千余討捕之、討捨追討等不知其数候、妻子・足弱迄も悉被加御成敗候、同国忍城之儀、浅野弾正少弼・石田治部少輔ニ佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下被仰付、水責仕候、城中より様々御侘言雖申上候、不被聞召入候、付井城ハ家康内本田・鳥居・平岩ニ被為取巻候、韮山之儀者北条美濃守此中御侘言申上候、彼者事最前上洛仕、被成御覧候故、不便ニ被思召、命被成御助候、剃頭高野栖候、然者小田原一城落居不可有程候、城内下々計略申分色々雖有之、不被入聞召入候、悉可被干殺御覚悟候、弥以出羽・奥州迄平均静謐候、伊達・山方・南部以下令参陣候、当表被成御仕置、至于会津被移御座、両国御掟堅可被仰出候、随而高麗人渡海之由候、着岸次第可召具旨、小西かたへ被仰出候、其元之儀、馳走専一候、猶増田右衛門尉可申候也、
六月廿八日/(羽柴秀吉朱印)/加藤主計頭とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)

関東御陣への見舞のため使者をいただき、特に筒服1つ、帷子100が到来したことは、遠路にこまごまとしたご親切だと感じ入りました。さてこの方面のことですが、いよいよ残すところもなく収束させています。武蔵国の鉢形城は北条氏邦の居城です。押し詰めて、すぐに成敗しようと思っていたところ、命だけはお助け下さいと嘆願してきたので、去る14日に城を接収しました。氏邦は剃髪して謹慎しています。同国の八王子城は要害堅固で敵で武名が高い者たちが数多く籠城していましたから、上杉景勝・前田利家・前田利長・木村一・山崎片家に命じて、去る23日に即時攻め崩し全員討ち取りました。大将分は10人、そのほかは2千余を討ち取っています。討ち捨てや追い討ちなどは数え切れません。妻子・足弱なども全員成敗しました。同国忍城は、浅野長吉・石田三成に佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下を付けて水攻めにしています。城中から様々な嘆願をしていますが、聞き入れていません。津久井城は家康家中の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉に包囲させています。韮山のことは北条氏規が嘆願してきました。あの者は以前上洛して面会していますから不憫に思い、命は助けました。剃髪して高野山に住まわせます。ということで小田原一つだけとなり、落城まで時間はかからないでしょう。城内の下々からは内応しようと色々言ってきますが聞き入れていません。全員を餓死させる覚悟です。いよいよもって、出羽・奥州まで平均・静謐となります。伊達・山形・南部以下は参陣しています。この方面を裁定するため、会津まで行って、両国の掟を堅く発令します。従って、高麗人が渡海したとのこと。着岸したら連れて来るようにと、小西方へ指示されました。そちらのことは奔走することが専一です。更に増田長盛が申します。

2018/03/26(月)戦国時代の掃除さぼり

掃除を命じられた町人たち

後北条氏の本城である小田原での掃除を命じた文書が伝わっている。命じられたのは小田原の船方村。

毎月の大掃除で、人足100人以上を出すように!

定置当社中掃除法
右、任先規、自欄干橋船方村迄宿中之者、人足百余出之、可致掃除普請、自当月於自今以後、毎月当城惣曲輪掃除之日可致之、何時も掃除之前日、西光院・玉瀧坊遂出仕、添奉行可申請、如此定置上、掃除於無沙汰者、西光院・玉瀧坊可処越度候、扨又朝夕之掃除之事者、両人可申付候、仍定処如件、
元亀三年五月十六日/(虎朱印)/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編1598「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条1107「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

定め置く当社中の掃除法。右は、先の規定のように、欄干橋より船方村までの宿中の者たちが人足を100余人出し、掃除普請をするように。今月以降は毎月の当城惣曲輪掃除の日に行なうように。何れも掃除の前日は西光院・玉瀧坊に出向いて、奉行を随伴して作業を受けるように。この定め置きがある上は、掃除を怠った場合には西光院・玉瀧坊の過失とするだろう。そしてまた、朝夕の掃除の者も両人(西光院・玉瀧坊)が指示するように。

小田原船方村

この中の「【分割】小田原市歴史的風致維持向上計画(第2章)」のPDFを参照したところ、船方村の記載があり、近世の千度小路を指すようだ。

先の朱印状では、この在所から欄干橋までの掃除を命じられている。

「掃除普請」とあることから、破損部分があれば修繕することも含まれるのかも知れない。また、毎月1度小田原城で「惣曲輪掃除の日」があったらしい。参加者は西光院と玉瀧坊で出欠をとり、(恐らく両寺院から出した)奉行を同伴するよう指示。これを怠ると、西光院・玉瀧坊の過失とすると定めている。更に、朝夕の掃除も西光院・玉瀧坊に指示したとされている。

毎日朝夕2回の細かい掃除と、作業員100名以上を出しての毎月1回の大掃除。これは厳しいと思うのだけど、案の定サボタージュして怒られている。惣曲輪掃除の日か朝夕の掃除か、または新たに賦課された掃除かは不明だが、船方村の人足が20名不足したらしい。

首に縄を付けてでも……

当社中晦日掃除人足之内、舟方村より廿人不罷出由、申上候、自古来相定候処、曲事ニ候、頸ニ縄を付引出、普請可申付候、及異儀者、可遂披露、可処厳科旨、被仰出者也、仍如件、
丑十一月二日/(虎朱印)江雪奉之/西光院・玉瀧坊

  • 戦国遺文後北条氏編3758「北条家朱印状」(蓮上院文書)
  • 小田原市史小田原北条2096「北条家虎朱印状」(小田原市・蓮上院所蔵西光院文書)

当社中で晦日の掃除人足のうち、船方村よりの20人が出てこなかったとのこと報告があった。古来より定めたところで、曲事である。首に縄を付けてでも引き出し、普請を指示するように。異議を唱える者は報告せよ。厳しく罪に問うだろうと仰せである。

いつ怒られたのか

この時の虎朱印状は年未詳だが、1572(元亀3)年以降で「丑」と記載されているので以下の年が候補となる。

  • 1577(天正5)年
  • 1589(天正17)年

小田原市史でも、奉者が板部岡融成である点から天正5年か天正17年のどちらかだろうと推測している。

掃除規則を「自古来相定候処」としているから、制定した元亀3年から5年後の段階で「古来より定めていた」と書くのは大袈裟過ぎるようにも見える。とはいえ、天正17年では氏直体制に完全に入っている。「首に縄をかけてでも」という感情的な表現は氏政体制でよく見られるため、天正5年比定も捨てがたい。

一つ留意したいのは、天正17年11月2日だとすると、通説で11月3日とされる名胡桃事件の前日に当たるという点。氏直釈明状によると、替地と称して上杉方が名胡桃を接収するという噂が流れ、それに対処して名胡桃を取ったとされている。かなりの緊張状態にあった筈であり、感情的な表現を使ってしまった可能性はある。

比較的のんびりしていた時期に氏政が激して書いたのか、名胡桃案件でピリピリしていた氏直がつい強めに警告してしまったのか。非常に興味深い。