2017/09/28(木)明智光秀の着到定

明智光秀の家中軍法

軍法といいつつ、着到定にもなっているという文書があったのでちょっと整理。

以前書いた記事家忠日記に出てきた着到で、徳川と後北条の着到定を比較したものあるので、更に明智のものと比べてみる。

1石が6人という条件を当てはめると、池田孫左衛門(後北条被官)は56人なので933石取り相当となる。又八家忠(徳川被官)は261人で4,350石取り相当。

鉄炮の数だけで比較すると、池田孫左衛門は4~5(実際には3)、又八家忠は21(実際には15)を装備することになる。色々と条件が異なり過ぎて比較するのは注意が必要だけど、明智被官は鉄炮装備率が高かった可能性がある。

光秀が着到定を発令した動機は佐久間信盛の追放にあって、それは文面の最後に書かれているように見えるのだけど、解釈が難し過ぎて細かいところが読み取れない……。

読めない箇所は『』で括ってみた。

八木書房刊明智光秀108「明智光秀家中軍法」(尊経閣文庫所蔵)同書107号御霊神社文書より一部補訂。

定、条々
一、武者於備場、役者之外諸卒高声并雑談停止事、付懸り口其手賦鯨波以下可応下知事
一、魁之人数相備差図候所、旗本侍着可随下知、但依其所為先手可相斗付者、兼而可申聞事
一、自分之人数其手々々相揃前後可召具事、付鉄炮・鑓・指物・のほり・甲立雑卒ニ至てハ、置所法度のことくたるへき事
一、武者をしの時、馬乗あとにへたゝるニをいてハ、不慮之動有之といふとも、手前当用ニ不可相立、太以無所存之至也、早可没収領知、付、依時儀可加成敗事
一、旗本先手其たんゝゝの備定置上者、足軽懸合之一戦有之といふとも、普可相守下知、若猥之族あらハ不寄仁不肖忽可加成敗事、付、虎口之使眼前雖為手前申聞趣相達可及返答、縦蹈其場雖遂無比類高名、法度をそむくその科更不可相遁事
一、或動或陣替之時、号陣取ぬけかけに遣士卒事、堅令停止訖、至其所見斗可相定事、但兼而より可申付子細あらハ可為仁着事、付陣払禁制事
一、陣夫荷物軽量京都法度之器物三斗、但遼遠之夫役にをいてハ可為弐斗五升、其糧一人付て一日ニ八合宛従領主可下行事
一、軍役人数百石ニ六人多少可准之事
一、百石より百五拾石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓一本事
一、百五拾石より弐百石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓二本事
一、弐百石より参百石之内、甲一羽・馬一疋・指物二本・鑓弐本事
一、三百石より四百石之内、甲一羽・馬一疋・指物三本・鑓参本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、四百石より五百石之内、甲一羽・馬一疋・指物四本・鑓四本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、五百石より六百石之内、甲二羽・馬二疋・指物五本・鑓五本・のほり一本・鉄炮弐挺事
一、六百石より七百石之内、甲弐羽・馬弐疋・指物六本・鑓六本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、七百石より八百石之内、甲三羽・馬三疋・指物七本・鑓七本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、八百石より九百石之内、甲四羽・馬四疋・指物八本・鑓八本・のほり一本・鉄炮四挺事
一、千石ニ甲五羽・馬五疋・指物拾本・のほり弐本・鉄炮五挺事、付、馬乗一人之着到可准弐人宛事
右、軍役雖定置、猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗以掠 公務、云袷云拾存其嘲対面々重苦労訖、所詮於出群抜卒粉骨者、速可達 上聞者也、仍家中軍法如件、
天正九年六月二日/日向守光秀(花押)/宛所欠

解釈案

定、条々
一、武者は備場において、役者のほか、諸卒は高声と雑談は禁止する。付則:攻撃起点とその手配、鯨波以下は下知に応じること
一、先駆けを配置して指図しているところは、旗本侍に着いて下知に従うように。但し、その先手となる所によって計るべき者は、事前に確認しておくこと
一、自分の手勢の各員は前後を揃えて随伴させるべきこと。付則:鉄炮・鑓・指物・幟・甲立・雑卒に至っては、置き所を法度の通りにするべきこと
一、『武者押し』の時、馬乗者の後ろに隔たっては、不意に働きがあってもすぐに対応できない。とても思慮の足りないことだ。早々に知行を没収する。付則:時宜によって成敗を加えるべきこと
一、旗本の先手がそれぞれの備を定め置いた上は、足軽『懸合』の一戦があったとしても、全員が下知を守るように。もし守らない者がいれば、誰であろうと粗忽と見なし成敗を加えるべきこと。付則:虎口の使者が眼前で各自に向かって言い立てたとしても、報告してから返答するように、たとえその場に踏み止まり高名に比類がなかったとしても、法度に背くその罪は更に逃れられないこと
一、働きか陣替の時に、陣取と言って抜け駆けをし、士卒を送ることは、堅く禁止している。その場所に行って見るだけに決めておくべきこと。但し、事前に指示された事情があれば『仁着』をなすべきこと。付則:陣払いは禁止ていること
一、陣夫・荷物の計量は京都法度の器物3斗とする。但し遠隔地の夫役では2斗5升とするように。その食料は1人当たり1日に8合で、領主より下行するべき事
一、軍役人数は100石に6人。その前後はこれに準じること
一、100石より150石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓1のこと
一、150石より200石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓2本のこと
一、200石より300石未満は、甲1羽・馬1疋・指物2本・鑓2本のこと
一、300石より400石未満は、甲1羽・馬1疋・指物3本・鑓2本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、400石より500石未満は、甲1羽・馬1疋・指物4本・鑓4本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、500石より600石未満は、甲2羽・馬2疋・指物5本・鑓5本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、600石より700石未満は、甲2羽・馬2疋・指物6本・鑓6本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、700石より800石未満は、甲3羽・馬3疋・指物7本・鑓7本・幟1本・鉄炮3挺のこと
一、800石より900石未満は、甲4羽・馬4疋・指物8本・鑓8本・幟1本・鉄炮4挺のこと
一、1,000石には、甲5羽・馬5疋・指物10本・幟2本・鉄炮5挺のこと。付則:馬乗1人の着到は2人分に準じること
右は、軍役を定め置いたものだが、更に嗜みについては少しであっても看過できない。そしてその負担にたえられない者は、調べて考慮するだろう。
そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやから、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、かつは武勇の功がないやから、かつは国家の費用を公務と称して盗む。『袷』といい、『拾』といい、その嘲りと思い、皆に苦労を重ねることとなった。

『云袷云拾』が難解。「云A云B」とした場合「AといいBといい」と読んで前提条件を表し、その後に続く文で意味をなす。この場合は、背任横領の部分と、嘲られるという部分の間に入っている。

となると「拾」の意味は「おこぼれに預かる」とか「恵んでもらう」とかの蔑みに繋がると思うのだが「袷」が判らない。ネット上にあった御霊神社文書の写真を見るとはっきりと「袷」と書かれ、誤翻刻ではない。

普通に読めば「あわせ」。強いて言うなら裏地がある衣装である袷から「表裏がある」という意味の隠語・慣用句なのかも知れない。


追記

Twitter上で、「云袷云拾」は「云袷云恰」の誤字で情報をいただいた。

『古文書難語辞典』で確認したところ、以下の項目があった。

とにもかくにも「袷恰」あれこれにつけて。何事につけても、何にしても。かれこれ「左右・故是・袷恰」あれこれ。

このため、解釈文の末尾を以下のように変更する。

そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやからだ、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、武勇の功がないやからだとか、国家の費用を公務と称して盗んだなどと、かれこれそのような嘲りと受ける思い、皆に苦労を重ねることとなった。

年未詳の断片

いつのものか不明なものもあって、ここでは2,000石で鉄炮5となっている。前述文書によると1,000石ごとに鉄炮5となるから、それよりも前の段階のものかも知れない。

小者には鉈・鎌を装備させよとしている点が興味深い。

  • 八木書房刊明智光秀170「明智光秀軍役之条々」(国立公文書館所蔵・古文書纂)

軍役之条々
  一、騎馬三人、   一騎ハ馬取二人、鑓一本
   一騎ハ馬取二人
   一騎ハ馬取一人
一、二千石
  一、長柄、八本
  一、持鑓、三本
  一、甲持、一人
  一、持筒、五挺
  一、指物持、一人
  一、持弓、一張
一、長柄乃もの羽織はれんの事
一、小者共ニハなた鎌をさゝすへき事
一、若党ハ腰おけ、小者ハめんつうを可着事、
月日欠/明智日向守光秀(花押影)/宛所欠

2017/09/26(火)小田原評定とは何か

『小田原評定』という慣用句の始まり

『小田原評定』(小和田哲男・名著出版小田原文庫)では、通説での意味「まとまらない会議」としての使い方は『関八州古戦録』が最古とする。1726(享保11)年成立のこの本が初出ということは、後北条氏の活躍時期とはかなり隔たりがある。

  • 「其比関東ノ俚俗、果敢ゝゝシカラス評議ヲ小田原談合ト云触シテ、今ノ世ニテ、常談ニ伝へ、此時ニ起レル事ナリトソ」

この段階では「小田原談合」としているが、その後の『松屋筆記』では「小田原評定」・「小田原評諚」と変更している。松屋筆記は小山田与清(1783~1847年)の著作なので、100年足らずで言葉が変わってきている。これは後でまとめてみる。

同書のp17には興味深い情報が掲載されていた。

現在なお、小田原地方では「小田原の相談はまとまらず、久野の寄合はなりたたない」、あるいは「小田原評定・久野寄合は、まとまりそうでまとまらぬ」といった俚揺として生き続いている。(中略)立木望隆氏は、久野に「七軒屋敷」という地名のあるところから、そこには、幻庵の家臣七人が住み、寄合衆として「久野寄合」なるものを構成していたのではないかと推定されている。

これはむしろ、一旦全国的な文化の中に取りこまれた後で地元に逆輸入されたのではと思う。古態のまま継承されたならば、「評定」「寄合」は使われていない筈だからだ。

ということで、言葉の使い方をちょっと深く掘ってみようと思う。

戦国期の合議はどのような言葉で表現されたか

そもそも考えてみると、「評定」という言葉は同時代史料で余り見かけない。試しに自前のデータで検索してみると、「評定衆」が自らの名乗りで使っているものを除くと1点しかなかった。

  • 評定「縦豊前守雖有訴訟、一切不可及評定」茨木県立歴史館史料叢書20p255

 これは今川氏真が岩瀬彦三郎に出した判物写で、他例が圧倒的に「不可有許容」なのを考えると、「及評定」の部分は誤翻刻・誤写ではないかと思わざるを得ない。

では「寄合」はどうかというと、こちらも当時との意味が違う。戦国期には「寄せ集め」とまではいかないが、その案件用に編成された集団を意味しているようだ。昭和ぐらいまでは使われていた「寄り合い=合議」を想起してしまうが、それは当時の言い方ではない。

寄合

  1. 「是者寄合衆之番所ニ候」戦北1181
  2. 「其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候」岐阜県史資料編古代・中世4_p0864
  3. 「船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事」戦北2758

では当時どう言っていたのかというと、談合や相談が該当する。3人以上で会議のような場と思われる例だけ抜き出してみた。

談合

  1. 「各遂談合」戦武642
  2. 「各有談合」群馬県史資料編3_2184
  3. 「百姓有談合」戦北3772
  4. 「出馬可遂一戦之旨談合議定候処」戦武902
  5. 「久能之当在城衆可有談合之事」戦武1396
  6. 「長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合」戦武2155
  7. 「信州衆・箕輪在城之衆以談合鉢形へ相働」埼玉県史料叢書12_0544
  8. 「本郷の町人とも致談合」戦北2273
  9. 「町人中致談合」戦北2543
  10. 「右之郷中有談合」静岡県史資料編8_1745
  11. 「其上之行者於陣中可談合申候」戦北3872

相談

  1. 「各被相談一途遂本意候者快然候」戦今638
  2. 「兄弟八人相談」戦今1113
  3. 「由木上下之強人相談」戦北662
  4. 「退衆相談」岐阜県史資料編古代・中世補遺p356
  5. 「諸家中各ゝ相談」戦古860
  6. 「但乱後間、代官・領主・百姓相談」戦北724
  7. 「庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談」埼玉県史料叢書12_0322
  8. 「各一味ニ被相談簡要候」戦北1244
  9. 「各相談可走廻候」戦北1212
  10. 「身類中并寄親令相談」戦北1598
  11. 「各味方中相談」戦北1660
  12. 「各可相談候」戦北1923
  13. 「各被相談」埼玉県史料叢書12_054
  14. 「今度猿ヶ京衆相談」戦北2163
  15. 「各相談」戦北2119
  16. 「高野・根来・其元之衆被相談」証言本能寺の変第4章13
  17. 「治部少輔同心・被官相談」戦北2365
  18. 「郷中百姓其外給衆相談」戦北3105
  19. 「縦憐郷・他郷之百姓と成共相談」戦北3602
  20. 「御門徒中有相談」戦武713
  21. 「各令相談」増訂織田信長文書の研究969

まとめ

上記からすると『小田原評定』も『久野寄合』も戦国期の言葉として奇妙で、小田原評定は存在が危うく、久野寄合は別の意味(久野に暫定集合した人たち)となってしまう。「相談」は問題がないが、それに次いで他出する「談合」が出てこないという点から、言葉の成立がいつぐらいかの推測はできそうだ。

合議の語彙として「相談」が生き残りつつ、「談合」は外れてしまい、新たに「寄合・評定」が入ってきた時期。恐らく近世だろう。

小田原に加えて久野が出てくるとなると、早川用水・荻窪用水を巡る利権調整が難航したことを指すようにも見えてくるが、これ以上は近世に詳しくないため判断できない。

史料で出てきた『小田原評定』的な北条氏政の発言

巷間に出回った『小田原評定』は天正18年の小田原攻め直前に設定されているのだけど、実はその8年前に印象的な文書がある。

天正10年に北条氏政が奔走している時のもので、この時は武田滅亡に際して正規の情報が全く入ってこなくて焦っていた。終日談合しているとしながら、西上野・甲斐・駿河のどこから攻め込むかは不明だがとにかく出陣の準備を急げと指示している。この文書の方がよほど『小田原評定』に近いような感じ。

  • 戦国遺文後北条氏編2311「北条氏政書状」(三上文書)

    幸便之間申候、信州模様必然之儀者、昨日自是申候キ、今日者終日及談合候、動之様子無落着候、先早ゝ多波川迄諸口之人数可打着由、立早飛脚候、其内遂工夫、西上州へ成共、甲州表へ成共、駿州表へ成共、可有行迄候、猶ゝ急速ニ御用意専一候、当方弓矢此時候、恐ゝ謹言、
    二月廿日/氏政(花押)/安房守殿

幸いな便があったのでお伝えします。信濃国の状況(武田家滅亡)は必然であること、昨日こちらから申しました。今日は終日談合していました。作戦の内容は定まりません。まずは早々に多摩川まで諸口の部隊を徴集させるとのことで、早飛脚を立てました。その内に段取りにつけて、西上野国なり、甲斐方面なり、駿河方面なりに動員があるでしょう。なお、急速にご用意なさるの大切です。我々の勝負が決するのはまさにこの時です。

2017/09/24(日)戦国期の「成次第」の意味

後北条氏の例

個別の用例

動員に関して書かれているものは「可能であれば」と読むと前後の文と繋がる。

これは人の動員。「知行の少ない者たちは、全体的な記述基準に合わせて歩兵と書いているが、可能であれば馬上で活躍する心構えでいてほしい」としている。

  • 戦国遺文後北条氏編3229「北条氏政着到書出写」(井田氏家蔵文書)

    (抜粋)同心衆内、少給之衆、惣並故、歩兵ニ記之候、成次第馬上も以、可走廻者、可為心操者也

また下記の例だと、急遽大きな合戦が予定されていたため、珍しく低姿勢で動員をかけている。

  • 戦国遺文後北条氏編3245「北条氏政判物写」(浅草文庫本古文書)

    (抜粋)武具之品ゝ者、日数無程候間、此砌者、調間敷由、校量候、手前之不足ニ有間敷候間、成次第尤候、畢竟能衆上下共ニ被撰出人数、無相違召連、専一候

この中で武具については「日数が無いので、この際は準備できないだろうと考え、本来は許されないが、可能な限りということでよい。とにかく良い兵を上下ともに選出して、間違いなく連れてくるのが大切だ」としている。

少し違う用例

「可能な限り」ではない例でいうと、長柄鑓につける箔について、金でも銀でも可としつつ、「多少は『成り次第』」と書いている。これは箔をつける分量を指しているから「箔の多少は成り行き=適量で」という意味になるだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編3830「北条家ヵ着到定書」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)

    (抜粋)拾本、鑓長柄、金銀之間何与成共可推、多少者成次第、二重紙手朱

もう一つ、こちらは氏政上洛に関しての資金徴収に関するもの。納めるものは永楽銭・黄金・麻の三種類で、「これら三つのうちで『成り次第』準備するように」としている。文からして「可能な限り」や「成り行き=適量」ではなく「可能なもの」と解釈すべきだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編3517「北条氏忠朱印状」(神奈川県立公文書館所蔵・山崎文書)

    出銭之書出。壱貫八百四十八文。右、御隠居様就御上洛、出銭被仰付候、来晦日を切而可調、此日限相違付而者、可為越度、永楽・黄金・麻、此三様之内成次第可調、仍如件、
    丑十月十四日/(朱印「楼欝」)/高瀬紀伊守殿

織田信長の例

これは信長が家康に、足利義昭との不和から追放に至った経緯を説明したもの。色々と説得したが承知してもらえずに「『成り次第』のほかは選びようがなく」と書いている。これは「成り行き」だと考えてよいだろう。

  • 増訂織田信長文書の研究0367「織田信長黒印状」(古文書纂卅五所収・京都市小石暢太郎氏所蔵文書)

    就上洛之儀、以小栗大六承候、祝着之至候、今度公儀不慮之趣、子細旧事候哉、於身不覚候、君臣御間与申、前々忠節不可成徒之由相存、種々雖及理、無御承諾之条、然上者成次第之外、無他候て、去二日・三日両日洛外無残所令放火、四日ニ上京悉焼払候、依之徒其夕無為之儀取、頻御扱之条、大形同心申候、於時宜者可御心易候、猶大六可申候、恐々謹言。横山辺迄可有御見廻■候、其ニ不及候、遠三表之事、無油断可被仰付事簡要候、爰元頓而可開隙候之間、令帰国可申述候、
    卯月六日/信長(黒印)/三河守殿進覧之候

まとめ

  1. 可能であれば
  2. 成り行き=適量
  3. 調達などで可能なもの
  4. 成り行き=状況の推移のまま