2017/05/30(火)北条氏規と氏政の上洛費用を、氏直は支払えたか

2万貫文といわれる北条氏規上洛費用が、どの程度の負担率だったかを考えると、秩父孫次郎の役高金額が必要になる。しかし孫次郎の着到は前欠で貫高が不明だ。そこで他の人間の着到から推測してみる。

池田孫左衛門尉の着到は191.6貫文で56人(戦北2258)
一人当たり3.42貫文

とすると……

秩父孫次郎の着到はx貫文で139人(戦北2316)
一人当たり3.42貫文ならば、x=475貫文

孫次郎が割り当てられた氏規上洛費用は50貫文。役高のうち10.5%となる。手取りの1割をいきなり抜かれるのは痛いだろうなと思いつつ、合っているかを後北条氏全体の貫高から検算。但し、データが少ないため累進賦課の可能性を考慮できないので除外。

全員が収入の10.5%固定賦課だとして、
2万貫文の総額を得るためには役高21万貫文が必要。

永禄2年時点の所領役帳は総役高が72,168貫文。これは被官たちの役高で直轄領は含まれていない。21万貫文への不足分137,832貫文が直轄領だったと考えると妥当性がありそうに見える。蔵出し分をどうカウントするかが微妙だが、被官分のほぼ2倍が直轄という試算。

この条件をもとに、今度は氏政上洛時の負担額をどこまで追えるか考えてみる。ただ、金額が明示されているのは佐野氏忠の被官である高瀬紀伊守のみで心もとなくはあるのだが……。

高瀬紀伊守は家臣団辞典で50貫文の役高と想定。
紀伊守の氏政上洛費用割り当ては1.848貫文で、役高に比して3.7%(戦北3517)

氏規(秩父孫次郎)の時より賦課率は減っている。賦課母数の21万貫文から考えると3.7%では7,770貫文しか集められない。

使者に過ぎない氏規よりも、当主代行として正式な出仕となる氏政の方が費用が上回るだろうから、矛盾している。

佐野衆の高瀬紀伊守は外様で強制力が低かったのかも知れない。3.7%を下限に10.5%が平均になるとして上は17.3%。直轄領と一門には特別分厚い賦課がかかっていたのだろうか。

ここで気になるのが氏邦の下記の記述

「2万貫文の費用のうち、300~400貫文が私の負担になるだろう」(戦北3334)

氏邦は後北条家全体から見て1.5~2%の負担が自らに課されると予測している。

氏邦の役高は不明で所領役帳にも入っていないのだけど、直轄領と比較してしまうと圧倒的に小さい規模なのかも知れない。それでもこの苦しみ方な訳で、それを上回る氏政出仕費用を、後北条氏が順調に集金できていたのかは疑問に思えてならない。

2017/05/22(月)上田長則の心遣い

一般に、印判状は非属人的で薄礼であるという理解なのだが、一部に例外的なものもある。

武蔵松山城主の上田長則が、木呂子新左衛門に諸規則を伝えた文書がそれ。家督を継承したらしい新左衛門に仰々しく花押で通達し、その後から私信として朱印状を与えている。

大塚郷が木呂子新左衛門に与えられる

就大塚之郷任置、具申遣候、能ゝ可致分別候、一、若年之間ハ、先ゝ親之以苦労致奉公儀、古来法度之様歟、雖然、譜代之仁ト云、親子数多之儀ト云、彼是共ニ不准自余、如此候、弥其方覚語見届候ハ、何分ニモ可引立間、心易可存事、棟別・段銭・人足、此三ヶ条ハ、自・他国共ニ法度之間、不可指置候事、[猶別紙ニ有]右、朝暮無油断、存分ニ被嗜、可為肝要候、条ゝ、鈴木修理ニ申含候、仍如件、
天正十年壬午五月十三日/長則判/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2338「上田長則判物写」(岡谷家譜)

大塚の郷をお任せする件、詳しくお伝えしました。よく考えて治めて下さい。一、若年のうちは、まずまず親の苦労でもって奉公すること。古来からのしきたりでしょうか。そうはいっても、譜代の出自であることといい、数代にわたって仕えてくれたことといい、どちらを考慮しても他とは異なります。このことから、あなたの頑張り次第ではもっと引き立てますから、ご安心下さい。棟別・段銭の徴税と人足の提供、この3点はこの国でも他国でも決まり事ですから、放っておいてはなりません(更に別紙に書きました)。右のこと、朝も夜も油断なく、充分に勤めることが重要です。それぞれ鈴木修理に申し含めています。

木呂子新左衛門に追伸が送られる

追而、三ヶ条之儀、諸人之比量不可然候間、申事ニ候、併於何事も、連ゝ存分ニ可相極候、是ハ以他筆ヒソカニ書付候、仍如件、
午五月十三日/朱印/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2339「上田長則朱印状写」(岡谷家譜)

追伸。3点のこと。皆の手前もあって申したのです。ですから、なにごともできる範囲で少しずつ決めていけばよいのです。これは別の筆でこっそりお伝えしておきます。


現代でいうと、新入社員への訓示で建前を厳しく言ってから、後でこっそり「まあそんなこと言っても色々あるさ」と助言するような感じかと思う。ただ、この長則の訓示、そんなに厳しい物言いでもない。一方的に気を遣っているような印象がある。もしかしたら、新左衛門が結構幼いんじゃないかとも思える。

実際、この8年後の小田原籠城でも「若輩之子共幾人有之共、毛頭不可有無沙汰候、殊ニ新左衛門在陣候間、大細計尋合可引立候、是又気遣有間敷候」(戦北3652「上田憲定書状写」)という記述があって、この段階でも新左衛門はまだ二十歳前という印象がある。

となると天正10年頃は10歳前後か。父は普通に健在なので、新左衛門は幼くして領主になるという格別な引き立てを受けたのかも知れない。

何れにせよ、出典が家譜ということもあって確度は低いが、花押を据えた文書が表向きの正規のものに対して、朱印を捺した追而書が裏からの私信なのは興味深い。

2017/05/21(日)『家忠日記』における鉄炮衆の記述

派遣されたり戻ってきたりの記述が殆どで、実際にどう戦ったかは書かれていない。

1578(天正6)年

  • 11月11日「家康よりちやくとうつけ被侍八十六人中間百二十六人鉄放十五ハリ弓六張鑓廿五本有鑓持三人」
  • 11月30日「牧野へ鉄放衆廿人籠候」
  • 12月06日「牧野鉄放衆かへり候」

1579(天正7)年

  • 08月05日「自家康早ゝ弓てんはうの衆つれ候て、西尾江越候へ被仰候て、にしをへ越候」

1582(天正10)年

  • 07月12日「鉄放衆信濃■田■へ二人■■」
  • 10月06日「ミたけこやへ、鉄放衆番ニ一人つゝ越候」

1593(文禄2)年

  • 01月23日「去年春中大納言様つくしへ御出陣之刻たて候てつはう衆二人、中間二人帰由候」
  • 01月26日「去春筑紫へ遣候鉄炮衆上下四人、御返候、そとくちにてあい候」